08:外れクジ


 伝統あるしきたり――ファッグは、入学して丁度三日後の夕食後に始まった。三日も経てば、新入生も学校に慣れ、いくらか余裕も出てきているだろうとの先輩のせめてもの情けらしい。夕食後、名前を呼ばれ、まるで犬のようにそそくさと先輩の元へ駆けつける新入生達の光景は、なんとも言いがたいものがあったが。
 セシリアも、素早くティモシーの元へ駆けつけた。一度会っただけの彼だが、なかなかに気難しそうに見えたので、文句をつけられないためだ。だが、会って早々、ティモシーは大袈裟に鼻をつまんだ。

「なんて臭いだ。セシル、この酷い臭いは、君の体臭かね?」
「え? 僕、そんなに臭いますか?」

 セシルは驚いて、服の袖をくんくんと嗅いでみた。そうしてすぐに思い当たる。

「ああ、そういえば、さっき厩舎小屋の掃除をしてきたので、多分そのせいかと。でも、そんなに臭いますか? 他の人には何も言われなかったんですけど」
「ああ、臭う。せめて湯浴みをしてから夕食を食べたらどうかね。一緒に食べる友人にも迷惑をかけるだろう」
「その友人達も、一緒に掃除だったので、特に気にならないかと思って」

 ああ言えばこう言う。
 ティモシーのこめかみに青筋が立った。

「他の生徒に迷惑をかけるだろう! 馬の糞の臭いをプンプンさせたまま食事をするんじゃない!」
「はい。以後気をつけます」

 セシリアはしょんぼりして言った。どちらにせよ、トラヴィスは共同風呂なため、日の明るい時間にセシリアが湯浴みをすることはできないのだが。しかし、先輩にこうまで言われてしまえば仕方がない。今後は臭いをなんとかしようと、彼女はしぶしぶ心に決めた。

「とにかく、ついてきたまえ。今日は君に部屋の掃除をしてもらいたいんだ」
「へえ、いいですね」

 てっきり使い走りでもさせられると思っていたセシリアは、呑気に頷いた。

「だが……今は君の臭いが僕の部屋にこびりついてしまうんじゃないかと不安で仕方がない。短時間で終わらせるんだぞ」
「はーい」

 だったら自分で掃除をすれば良いのに、とセシリアは思わないでもなかったが、そんなことを口にすれば、一気に二人の間に越えられない壁が設立されてしまうのは目に見えていたので、何も言わなかった。
 そのまま二人でブルックス寮の棟へ向かった。そこへ行く途中、ちらほらと先輩と後輩の組み合わせが目立った。やはり、今日からファッグを始める人が多いようだ。
 三年生の部屋は、三階にずらりと並んでいる。特地監督生であるティモシーは、一番奥の部屋である。他の三年生の部屋を見たわけではないが、さぞその内装も立派なのだろうと、セシリアは胸を期待で膨らませた。
 ティモシーがゆっくりドアを開ける。

「ここが僕の部屋だ」
「うわあ、さっすが三年生ですね! 憧れの一人部屋だー!」

 セシリアは一気に色めき立った。
 部屋自体は小さく、調度品も少ないが、それでも立派な一人部屋だ。憧れないわけがない。
 うっとりとした表情で、セシリアはどんどん一人先に部屋に入っていく。途中、足で何かを踏んだような違和感が何度かあったが、深く気にしない。

「君、ちゃんと下も見て歩くんだ。やたらめったら僕のものを踏むんじゃない!」
「じゃあ下にものを置かないでくださいよ……」
「誰かが来ることを想定していないんだから仕方ないだろう! 使うごとにいちいち片付けるのは面倒なんだ」

 セシリアは半目になって閉口した。
 聞きようによっては立派な理由にも聞こえなくはないが、よくよく聞いてみれば、ただの甘ったれな言い訳である。
 これじゃ、年を食っただけの弟たちとそんなに変わらないじゃないか。
 故郷に二人の弟妹がいるセシリアは、生暖かい目でティモシーを見つめた。ファッグにかこつけて、なんとこの十八歳の少年は、年下に自分の部屋掃除をさせようというのだ。呆れてものも言えない。

「はいはい。分かりましたよ。とにかく、この汚ーい部屋を掃除しろってことですね?」
「そういうことだ。無駄口を叩かず、精進するように」

 仮にも頼む側なのに、どうしてこうも偉そうなのだろうか。
 セシリアは小さく肩をすくめ、部屋掃除に取りかかった。

「でも、改めて見ると本当に汚い部屋ですね。よく今まで生活できてましたね」

 とりあえず、セシリアは見るからにゴミだと判断できるものだけゴミ箱に放った。よく使っている机にはものを置かず、整理整頓してあるのに、対する床はなんとも酷いものだ。小さなゴミから大きなゴミまで、すぐそこのゴミ箱に放れば良いだけなのに、それをしようともしなかったらしい。床だけでなく、時にはソファにもゴミは散乱し、ここ一月おそらくこのソファは本来の目的で使用されていないだろう。
 ゴミを片付けると、今度はあちこちに放り出されている本の整理だ。さすが監督生とも言うべきか、勉強には熱心に打ち込んでいるようで、部屋には難しそうな分厚い本がたくさんあった。せめてこれらが本棚にきちんと整理されていたならば、セシリアにとって、ティモシーはもっと尊敬できる先輩になりえたかもしれないのに。あくまでかもしれない・・・・・・だが。
 件のティモシーは、綺麗になったばかりのソファにふんぞり返り、紅茶を飲んでいた。自分で入れたのだろう、側のテーブルにはポッドが置いてある。――おそらく、おそらくだが、部屋の掃除が終わった後、掃除をしてくれた可愛い後輩のために、ねぎらいの言葉と共に彼が紅茶を入れてくれることは、きっとない。直感的にセシリアはそう思った。

「手が止まっているぞ」
「はいはい」

 そう、こういう人だからだ。
 たくさんの書物を、名前順に並べた後は、細々としたものの整理である。床に散乱している――ティモシー曰く、置いている――服や小物、ガラクタなどを、どこに片付けるのかいちいち聞いてから片付けていった。次第にその面倒な行程も慣れてきて、ティモシーの返事に少しでも間があれば、いらないものだと判断してゴミ箱に放り投げた。こうでもしないと、彼の部屋は片付かないのだ。始めはティモシーも憤慨していたが、やがて面倒になってきたのか、セシリアに全てを任せるようになった。
 部屋を一望し、目に見える場所にあらかたものがなくなったのを見て取って、セシリアは一息ついた。

「小綺麗になってきましたね。箒はどこにあるんですか?」
「箒は通路中央の物置にある。部屋を出て右だ」
「はーい」

 セシリアは間延びした返事を返し、部屋を出た。
 忙しい後輩のために、箒を持ってきてくれるという思いつきは頭にないらしい。
 別に良いけど、と若干いじけながら、セシリアは通路を歩いた。
 皆出払っているのか、それとも部屋で休んでいるのか、寮棟の中は静かだった。途中、通り過ぎたラウンジには、何人か寛ぐ姿があった。軽く頭は下げたが、どの先輩も友好的なようで、ニコニコと笑みを返してくれた。
 ――やっぱり、ブルックス寮で良かった。
 セシリアは常々とそう思った。クラウザー寮は偉ぶっているし、ソワルド寮はいつも殴り合いの喧嘩が絶えないしで、他の寮生は怖くて堪らないのだ。彼らから馬鹿にされることはあるが、のんびり寮生活を送るには、ブルックス寮が一番なのだ。
 物置から箒とちり取りを出し、セシリアは来た道を戻った。再びラウンジを通ったが、よくよく見れば、ボードゲームを楽しむ先輩の肩をもむ一年生の姿を発見した。セシリアと同じく、ファッグを行っている最中らしい。いくら優しい気性の者が多いブルックス寮とはいえ、ファッグ遂行の際には遠慮しないようだ。
 なんとなく落ち込んだ気持ちで、セシリアはまた歩き出した。ティモシーの部屋まで、後十メートル。そこまで来て、唐突に左側のドアが開いた。

「うっ、わあああああ!!」

 そして耳をつんざくばかりの悲鳴。

「れ、レドリー!?」

 そこから現れたのは、酷く焦った様子のレドリーだった。すぐ目の前のセシリアを見つけるや否や、彼は突撃してきた。

「たっ、助けてくれ、セシル! 後生だから!」
「えっ? いや、状況が見えないんだけど……。どうすればいいの?」
「とにかく、隠れられる場所を!」
「はあ……」

 セシリアはしばしの間押し黙った。ここは三階の長い廊下の一番端である。等間隔に各部屋のドアが並ぶばかりで、隠れられるような場所などない。

「頼む、どこか! 早く隠れなければ、アレがやってくる!」

 だが、レドリーは酷く怯えているようだ。放っておくことなどできなかったので、セシリアは彼をティモシーの部屋まで連れてきた。ドアをしっかり閉めてようやく、レドリーは心からの深い安堵の吐息を漏らした。――と、そう間をおかず、外から野太い声が聞こえてきた。

「レドリー? あら、一体どこに行ったのかしら?」

 その声は、ティモシーの部屋の前までやってきた。

「もう、悪い子ね。私の後輩ちゃん。一体どこに隠れたのかしら。マッサージの続きをしてあげるって言ってるのに」

 コンコン、とノックの音が響いた。レドリーは慌ててドアの陰に身を潜めた。セシリアは渋々ドアを開ける。

「何でしょう?」
「レドリーを知らない? 背の高い、赤毛のセクシーな子なんだけど」

 そこから現れたのは、体格の良い――男だった。短く髪を刈り、よく日に焼けた肌をしている。彼の柔和な微笑みに、釣られてセシリアも愛想笑いをする。

「いえ、知りません」
「そう? 色気があるくせに、どこか庇護欲をそそる子なんだけど」
「本当に知りません」
「そう……」

 彼は至極残念そうな顔になった。だが、次の瞬間にはパッと喜色を浮かべ、セシリアの頬を撫でた。

「あら、でも、あなたも可愛い顔をしてるのね。身体も華奢だし。でも残念ね、あたしの好みじゃないわ」
「そ、そうですか……。それは残念です」

 ちっともそう思っていない声色でセシリアは返答した。早く時よ去れ、と身体を硬直させていると、ようやく彼は手を離した。

「レドリーを見つけたらあたしに言ってね。赤毛の可愛い子よ、分かった?」
「はい」

 従順にこくこくっと何度も頷けば、彼はにこやかに手を振って去って行った。セシリアが呆然としていると、レドリーが慌ててドアを閉める。

「何もされなかったか!?」
「うん……特には」
「良かった……。俺のせいで、セシルがあの人の生け贄になったらと思うと、もう気が気でなくて」
「君たち、全く人の部屋で何をやっているんだ」

 部屋の奥から、ティモシーがやってきた。先ほどの騒ぎは聞いていたのか、すっかり呆れた表情である。

「さっきのはソドムか? 追われていたのか?」
「あ……はい」

 レドリーはがっくり項垂れた。

「すみません、勝手に部屋に入ってしまって」
「事情は察する。しばらく中で休憩するか?」
「そうさせて頂けると嬉しいです」

 め、珍しくティモシー先輩が優しい……。
 セシリアは呆気にとられながらことの成り行きを見守った。
 ティモシーは椅子に座って、レドリーにソファを勧めた。彼がソファに座ると、続けてセシリアにも彼の横に座るよう目で促した。

「話を聞こう」

 ティモシーは、真面目な顔で両手を組んだ。対するレドリーは、まるで懺悔でもするかのように、頭を垂れた。

「あの人――ソドムさんは、俺のファッグの先輩なんです。会ったときから変な人だとは思っていました。女言葉だし、やたら触ってくるし。……でも、悪い人ではないと思ってたんです。何か雑用をさせるでもなく、ただソファに座って俺に質問を投げかけてくるだけだったし。変な人だけど、理不尽なことを命令してくる先輩よりはマシかと思って。……それが間違いでした」

 長々と続いた質問の後、ソドムは、レドリーに対し、マッサージをしてあげると言ってきたらしい。危ない雰囲気を感じたので、レドリーは断ったが、遠慮するなと無理矢理ソファに寝そべられたと。そして始まったのが――永遠に続くかと思われた地獄の時間。
 彼の話を聞いているうちに、聞いているうちに、セシリアは顔を真っ青に、ティモシーは遠い目になった。いつも飄々としているレドリーとは打って変わって、今の彼は、哀愁すら漂っている。

「君はまだマシなようだね、セシル」

 レドリーはすっかり覇気の抜けた顔でそう言った。

「ティモシー先輩、いい人そうじゃないか。少なくとも、外れクジではない」
「失敬な、僕を外れクジと一緒にするな」

 そうプンプン怒るティモシーを余所に、セシリアは同情の眼差しでレドリーを見た。

「レドリー……同情するよ」
「同情するなら交代してくれ」
「それは勘弁」
「だろうね」

 想定していたのか、レドリーの返事は早い。ティモシーも頷いた。

「君の話はよく分かった。しかし、残念だが、交代は受け入れられない。一度決まったことだからな」
「いいんです。分かってます。あの人が卒業するまで、なんとかファッグをやり遂げます。……自分の身を守りながら」

 レドリーは徐に立ち上がった。

「ありがとうございます、おかげで助かりました。このまま自室に帰ります」
「本当に大丈夫?」
「いつまでもお世話になるわけにもいかないからな。それに、さすがにもうあの人も諦めただろう」

 ふっと笑い、レドリーはそのまま部屋を出て行った。セシリアはそれを心配そうな眼差しで見送る。

「影でソドムが後輩達になんて呼ばれてるか知っているか?」

 気がつくと、ティモシーはすぐ隣に立っていた。セシリアは彼の顔を見上げる。

「何て呼ばれてるんですか?」
「男色先輩」
「――レドリーが今ここにいなくて良かったです」

 セシリアは嘆息した。もし彼が今ここにいたならば、きっと絶望の表情を浮かべていたことだろう。

「君も精進するがいい」

 ティモシーは続けた。

「君が首席だからこそ、さぞ僕のように優秀なんじゃないかと思ってファッグの後輩にしたんだ。何度か試してみて、もし僕の気に入らないようなら、外れクジの誰かと交代するのもやむを得まい」
「えっ!? でも、一度決まったことは変えられないって!」
「監督生の権力ならば容易なことだ」
「……!」

 セシリアは、己の背筋が凍っていくのを感じた。もしも男色先輩が自分の先輩だったら? そんなの、想像しただけで血の気がなくなる!
 その後、部屋掃除を再開したとき、一層熱を入れたことは言うまでもない。