07:散々な共同作業
授業が全て終わった後、セシリア達308の生徒は厩舎に集まった。そこには、喧嘩っ早くて何かと問題児のソルももちろんいた。というのも、早々に掃除をすっぽかそうとしていた彼を見越して、セシリアは寮棟の前で待ち構えていたのだ。部屋で一眠りしようと思っていたのだろう彼は、難なく彼女に見つかり、そのまま厩舎まで連れてこられたというわけだ。
「で、俺たちは何をやるって?」
早く掃除を終わらせようと、ソルは苛立たしげに貧乏揺すりをしながら尋ねた。厩舎を管理している老人スティーヴが、ゆったりとした動作で頷く。
「ワシも歳じゃからの。若いもんの手を借りなければ馬たちの官吏もおちおちできんのじゃ。これから一週間頼むの」
「御託は良いからさっさと言えよ。俺は眠てーんだ」
「ほっほっほ、活きの良い若者じゃ」
からかっているわけではないだろうが、相変わらずなスティーヴの言葉に、ソルは米神に青筋を立てる。まあまあとセシリアは彼を宥めすかせながら、スティーヴに顔を向ける。
「僕たちは何をどうすれば良いんですか?」
「そうじゃの。もう馬は外に出しておいたから、小屋の掃除を頼もうかの。糞を掻き出してリアカーに乗せて、新しい藁をまた敷き詰める。意外と重労働じゃから、頑張っての」
「かったりー。ここ全部やるのかよ」
「何を言うとるか。これから三年間ここの馬にお世話になるのじゃぞ。それくらいの気概を持って掃除しい。それに、厩舎の世話は、確か一年が交代で請け負ってるはずじゃぞ。今のうちに慣れておくのもいいじゃろ」
「んなのに慣れたくねーよ」
吐き捨てると、ソルはさっさと厩舎の中へ入っていってしまった。ここまで来て怠けるという考えは頭にないらしく、とりあえずは真面目にやってくれるらしい。セシリア達も彼の後を追った。
「じゃあよろしく頼むぞ」
スティーヴは手を振って厩舎を後にした。馬たちの世話に行くためだ。
五人は、それぞれ分担して掃除に当たった。一つ一つの馬房はゆうに五十を超え、五人いるとはいえ、一つ掃除するだけでも一苦労だ。おまけに、厩舎の中は臭いし、糞を運ぶのは重たいしで、散々である。しばらくは真面目に掃除していたソルも、やがて飽きが来たのか、怠け気味になる。隣の馬房を掃除しているノエルを盗み見、彼が糞を運んでいる間に、己が運ぶべき馬の糞を、素知らぬ顔で彼の馬房に投げ捨てた。始めは違和感に気づかないノエルも、度が過ぎればさすがに気づく。
糞を運びにいった振りをしてそっと振り返れば――ソルの一連のお間抜けな行動が目に入り、自然とその視線は鋭くなった。
「おい、何するんだ」
ノエルがジロリと睨み付ければ、ソルは大したことなさそうな様子で肩をすくめた。
「俺のも持って行けってことだよ。別々に持って行くなんて効率が悪いだろ? 分担だよ、分担」
「お前の口からそんな言葉が出てくるとは。でも、僕を良いように扱おうったってそうはいかない。自分が楽するために僕を使うな」
「おーおー、坊ちゃんは俺の言うことが信じられねーのか?」
「ねえ、ごちゃごちゃ言ってないで、真面目にやろうよ。こんなんじゃいつまで経っても終わらない」
こっちは真面目にやっていたというのに、隣で喧嘩なんて始められたら気が散ってしまう。
二人の口論の内容もバッチリ聞いていたセシリアは、腰に手を当てた。
「ソル、自分の分は自分で運んで。確かに分担は大切だけど、大した距離じゃないでしょ? このくらいの距離じゃ、一人で運んだ方が効率が良い」
「セシルの言うとおりだ」
シャベルで糞を運び終えたハロルドが、額を拭いながら一息つく。
「人を使って自分が楽をしようなどと言語道断。だが、分担というのは良い考えだな。リアカーも一杯になってきたし、私はこれをスティーヴさんの元に運んで、ついでに新しい藁も持ってこよう」
「……うん、ありがとう」
セシリア達は、気の乗らない様子で返事をした。重たいリアカーをハロルドが運んでくれるのは有り難かったが、まだ空のリアカーはもう一つあるので、自分たちが休めるわけではないのだ。
「じゃあ、ここは頼んだぞ」
ハロルドは軽く手を振ってリアカーを引き始めた。その背には臭くてたまらない糞が山盛りになっているというのに、どうして彼はあんなに爽やかに笑えるのか。
奇妙な者を見る目でハロルドを見送った後、セシリア達は再び作業を再開した。疲れたからといって作業を後回しにしても、結局やることに変わらないのだから、早く終わらせた方がよっぽど良いだろう。それに、早く終わらせなければ、厩舎の匂いが自分の身体に染みてきそうで、セシリアは一層仕事に身を入れた。
だが、時折感じるソルからの不満げな視線。それはまだ可愛い方だった。彼が行動に移すまでは。
セシリアがリアカーに糞を移していると、突然その更に上から糞が降ってきて、セシルの手にかかった。
「おっ、わりーわりー」
「…………」
ちっとも悪びれた様子のない態度でソルは謝る。だが、一度だけではわざとだと糾弾することもできないので、セシリアはジトッと睨み付けるのみだ。
しかし、さすがに二度三度と同じことが重なってくれば、さすがのセシリアの堪忍袋の緒も切れる。相手がその気なら、二倍復讐するのみだ。
リアカーの中の糞をむんずと掴むと、セシリアは大きく振りかぶり、ソルの後ろ頭に向かって投げつけた。怒りが運を呼んだのか、糞はそう大きく外れることなくソルに命中した。茫然とした表情で、ゆっくりソルが振り返る。
「お前……良い度胸じゃねえか」
「僕はやり返しただけだよ」
二人はしばし睨み合う。先に動いたのはセシリアだった。野生の勘とでも言うべきか、シャベルを放り出し、咄嗟に近くの馬房に身を寄せた。彼女が壁を背に縮こまった瞬間、パンッと糞が壁にぶつかる音がする。
「ちっ、運の良い奴め」
「いきなり全力なんて血も涙もないね」
「頭に投げつけてきた奴に言われたかねえな」
「顔面じゃなかっただけ感謝して欲しいよ」
セシリアはもうやる気満々だった。藁に絡みついている糞を拭い取り、球体を作る。軍手をしているとはいえ、自分が徐々に少女という枠組みから離れているような気がして一瞬悲しくなった。
だが、そう憂いてばかりではいられない。ソルの魔の手は着実に忍び寄っているのだから。
辺りの気配に気を配っていると、突然横からソルが飛び出した。その手には、当然のように糞の塊が。セシリアは咄嗟に投げられた糞を避け、反射的に己が作成した球を投げつける。ソルはいとも簡単にそれを躱し、再び二人は近くの壁に身を寄せた。
己の呼吸さえも居場所を知らせる手段となり得そうな気がして、セシリアは己の口を両手で押さえる。そんな彼女の前に、のそっと影が現れた。
「おい……お前ら」
その正体はノエルだった。何かがおかしい、そう思った瞬間、その理由に気がついた。ノエルの肩口に、茶色い糞がこびりついていたのだ。
「誰だ、今これを投げたのは。お前か?」
セシリアは慌てて首を振った。反射的な行為だった。ノエルに怒られたくないがために。
次に彼はソルの元へ行った。物怖じしない態度で彼を見下ろす。
「じゃあお前か? 僕に糞を投げただろ」
「くっ、傑作じゃねえか。流れ弾に当たるなんてな。よっぽど反射神経が悪かったんだろ」
「謝るどころか、悪びれもしないなんてな」
ノエルの表情は歪む。いつもの彼とは違っていた。ノエルはゆっくりソルに近づくと、シャベルに乗せた糞を思い切りソルに投げつけた。彼がそんな暴挙に出るとは思いもしなかったソルは、しばし茫然と己の身体に飛び散った糞を見下ろす。が、やがて調子を取り戻すと、引きつった笑みで立ち上がった。
「やってくれるじゃねーか」
「お互い様だろ」
一瞬の間をおいて、二人はすぐに糞を投げ合った。慣れていないのか、ノエルの動作は遅いが、怒りに前が見えていない様子のソルとはどっこいどっこいだ。まるで雪合戦さながらの様子に、さすがに看過できなかったレドリーは、恐る恐る遠くから声をかける。
「おい、もうその辺にしておいた方が良い。両成敗ということで――」
「向こうからふっかけてきたことなのに、両成敗なはずがあるか」
「流れ弾に当たった奴が悪い。鈍くさいのを俺のせいにしないで欲しいね」
「なんだと?」
糞合戦は、一層に激化する。頭に血がのぼった二人は前が見えていないようで、力尽くで止めようとしたレドリーに容赦なく糞が命中する。しばらくレドリーは動かなかった。
「レドリー……大丈夫?」
遠くから見ていたセシリアが恐る恐る声をかける。散々たる惨状だった。自慢の長い赤毛にはべったり糞がこびりつき、身体のど真ん中にも糞が命中し。
「……いいだろう」
地の底から響いてくるような声がレドリーの口から漏れる。
「二人がその気ならもう止めない。だが、俺も参戦するから覚悟してくれ」
徐にしゃがみ込み、糞を鷲掴みにするレドリー。その場には一気に緊張感が漂った。
それからはもう修羅場だった。糞があちこちを飛び回り、何かにぶつかるような音が響き、誰かの悲鳴が上がる。中でも、ソルの動きは群を抜いていた。次第に怒りが引き、冷静になった彼は、ことあるごとにうまく身を隠し、思いも寄らない場所から飛び出して糞を投げつけてくるのだ。彼に糞を当てられたのは、何も一度や二度ではない。セシリアは、壁に身を隠し、呼吸を整えた。絶対にこのままではいけない、と。
「ノエル」
丁度目の端に写ったノエルを、セシリアは小さな声で呼び止めた。彼とは一度もやり合っていないので、話くらいは聞いてくれるだろうとの算段だった。嬉しいことに、ノエルは若干嫌そうな顔をしながらも、セシリアの元までやってきた。
「何だよ」
「聞いて欲しいことがあるんだ。ソルを倒すために、一緒に協力してくれない?」
「話だけなら聞く」
つれない態度のノエルを、セシリアは一生懸命説得した。憎きソルを共闘しよう、と。具体的な作戦まで話が及んだとき、ノエルはようやく重い腰を上げてくれた。
「分かった。それほど非現実的でもないから、協力しよう」
「ありがとう! じゃあレドリーにも話してくるよ。いつでも動けるようにしておいてね」
「ああ」
セシリアはすぐにその場から動いた。たくさんある馬房からレドリーの姿を探して。彼を見つけるまでにソルに二度も糞を投げつけられたのは、将来への投資だと思おう。
「レドリー、ちょっといいかな」
「何だ?」
血気盛んな眼で彼は振り返った。
「俺は今忙しい。ソルがいないうちに、とっておきの糞弾を――」
「共闘してソルを倒そう」
その一言は、レドリーにとっても魅力的だったらしく、真面目な顔でセシリアの作戦に聞き入った。
「――そういうことなら俺も協力する」
レドリーの返事に、セシリアはパッと笑みを浮かべた。だが、すぐに彼の表情が思わしくないことに気づく。
「でも、やり方が少し気にくわない。それはさすがに卑怯じゃないか」
妙なところで騎士道精神を重んじるレドリー。セシリアは、落ち着いた様子で首を振った。
「よく考えてよ。相手はあのソルだよ? 三対一じゃないと絶対に勝てない。それに、やられっぱなしでいいの? このままだったら、ずっとソルの独擅場で、真面目に掃除をしようとしてた僕らが馬鹿みたいじゃないか。ここは一旦ソルをこてんぱんにやっつけて、大人しく掃除をしてもらうようにしよう」
「……それもそうか」
ようやくレドリーも納得してくれた。これで決まりだと言わんばかり、セシリアは彼の肩を叩いた。
「じゃあ作戦を始めよう。うまく誘導してね」
セシリアはしゃがみながら移動を開始した。幸運なことに、道中はソルにも見つからず、リアカーの元までたどり着くことができた。先に着いていたノエルの隣に身を滑り込ませ、その時を待つ。
「一騎打ちでもしたいのか?」
「うろちょろ逃げ回るのは趣味じゃないからな」
唐突にソルとレドリーの声が聞こえてきた。二人の話し声は、次第に近づいてくる。
「良い度胸だ。気に入った」
「こっちの台詞だ」
不敵に微笑み合うと、二人は一斉に動き出した。糞を投げたり、躱したり。攻防は一進一退で、一瞬も目を離せない。しかし、やがて弾が尽きると、二人は手近な影に身を寄せ、糞の補充を行った。特にソルは、糞が大量に積まれているリアカーの影に身を潜ませ、かき集める。まさに待ち望んだ好機だった。そろり、そろりとセシリアとノエルは反対側に移動する。
呼吸を合わせ、二人はリアカーを担いだまま、思い切り立ち上がった。ゆっくりリアカーは傾き始め、今まで溜めた糞が山のようにソルの上に降り注ぐ。
「ぎゃあっ!」
「やった!」
傾いたリアカーは、そのままソルを下敷きに横倒しになった。ソルの戦闘不能が明らかになった瞬間だった。
「お前ら、嵌めやがったな!」
「こうでもしないとソルには勝てないからね」
ふふん、とセシリアは鼻の下をこすった。軍手をしたままだったので、臭い糞が一番嫌なところにこびりついてしまったのだが、今はそんなこと些細な問題である。やったねとノエルの背中を叩くと、彼女は次にレドリーの元へ行った。
「最高だよ、レドリー! おかげで助かった!」
「こちらこそ、おかげさまでソルに集中砲火を浴びせられたけどね」
囮役のレドリーは情けない顔つきで体中の糞を払った。セシリアもそれを手伝いながら、勢いよく首を振った。
「それは申し訳なかったけど……でも、囮はレドリーだからこそできた役だよ。僕やノエルだとすぐに負けちゃうからね。それに、今まで僕らは隠れ隠れ戦ってたのに、急にソルの前に現れたら不審がられるし、身を隠さずに戦ってたレドリーの方がこの役は適任だったって訳。本当にありがとう、レドリーのおかげだよ!」
「そ、そうか?」
あんまり手放しにセシリアが褒めるので、レドリーも気をよくした。照れっとした様子で頭を掻く。そこにノエルもやってきて、なんとなく互いに顔を見合わせる。大したことはしていないが、そこにはちょっとした連帯感があった。にへらっとセシリアが笑えば、レドリーも笑みを浮かべ、釣られてノエルも口角を上げる。少し前までは考えられない和やかな空気が流れていたその時。
「これは一体どういうことだ?」
底冷えがするほど冷たい声だった。ソルではない。こんな恐ろしい声、未だかつて聞いたことがなかった。
ギギギと音がしそうなほどぎこちなく首を回せば、そこには冷たい雰囲気を纏ったハロルドがいた。彼の視線は鋭い。こんな険しい表情の彼は見たことがなかった。
「もう一度聞く。これは一体どういうことだ?」
セシリア達は一斉に下を向いた。改めて見なくても分かった。天井やら地面やら扉やら、あちこちに飛び散った糞に、リアカーの惨状――むしろ、掃除する前より汚くなったと言っても過言ではない。
「ハロルド、その」
「何だ? 言い訳があるなら言ってみてくれ」
「…………」
言えるわけがなかった。皆で糞合戦してました、などと誰が言えよう。
「お前達には失望した」
誰も何も言えず黙ったままだったので、ハロルドはやれやれと首を振った。
「こうなった原因はなんとなく分かるが……暴れるソルを止めずに、むしろ一丸となって立ち向かうのはどうかと思う」
そして深々と大きなため息をつく。
「……まあ、もう終わったことだから仕方がない。とにかく早く片付けよう」
「いいの?」
まるでハロルドも手伝ってくれるかのような口ぶりに、セシリアは顔を上げた。仕方なさそうにハロルドはため息をついていた。
「仕方ないだろう。お前達だけに任せていたら、またどんな厄介を引き起こされるか分からないからな」
「ごめんね」
「きっと夕食には間に合わないだろうから、それは覚悟しておいた方が良い」
「……本当にごめん」
情けなさにセシリアは項垂れた。レドリーは気まずそうに視線を逸らし、ノエルは居住まいが悪そうに佇み。
なんでこううまくいかないのかな、とセシリアは思わず空を仰いだ。