06:乗馬の指南


 午後の授業は、必修である乗馬の授業だった。昼食のすぐ後の授業は、もう一つの必修である剣技と日替わりで行い、その後にそれぞれが選択した授業を受けるのだ。
 だが、ここで一つ、セシリアは重大な問題を抱えることになった。――どこで乗馬服に着替えれば良いのか、ということである。
 通気性の良いシャツにジャケット、乗馬ズボン、ネクタイ、手袋、長靴、帽子。……乗馬をするときは、ほとんどまるごと着替えなくてはならないのだ。むさ苦しい少年達の合間で着替えられるわけがない。
 セシリアは、お腹が痛いから先に行っててとハロルド達に断った後、急いで寮に戻ってきた。信じられないほどの速さで着替えを済ませ、再び訓練場に戻ってくる。
 セシリアがハロルド達の元に到着したところで、授業開始の鐘が鳴った。何とか遅刻は免れたようで、セシリアは肩で大きく息をする。安堵のためか、急に熱が戻ってきて、セシリアは手でパタパタと自身を仰いだ。

「爽快だ! 何とか間に合った!」
「……うん、それは良かったね」

 レドリーは生暖かい表情でセシリアを見つめる。自分の発言が誤解を生んだとも知らず、セシリアは晴れやかに笑みを返した。
 二列になって待っていると、やがて馬を連れて教員が現れた。彼も生徒たちと同様、乗馬服を身に纏っている。

「乗馬の担当のシュルドだ。よろしく頼む」

 パラパラと拍手が彼を包む。小さく頷くと、シュルドはぐるりと生徒たちを見回した。

「乗馬は男のたしなみだが、もちろん皆は乗馬の仕方は分かるな?」

 セシリアは居住まい悪そうに縮こまる。乗馬は父に訓練されて何度かしたことはあるが、うまく乗りこなすほど回を重ねたわけではない。だが、この空気の中、そんなことを言えるわけもなく、ただただ教員の視線が自分に止まらないことを祈るのみだ。

「よし、じゃあ大丈夫だな。各自、自分に割り当てられた馬に乗るように」

 それぞれ鞍を渡され、セシリアは、浮かない顔で厩舎に入った。乗馬には、正直なところ、馬に振り回された嫌な思い出しかなかったのだ。
 柵を越え、セシリアは恐る恐る馬に近づく。鼻先に手を近づければ、馬は興味深げに手の匂いを嗅ぐ。チラッと横目で他の者たちの行動を探れば、皆、思い思い馬と親しげに交流しているようだ。自分も負けてはいられまいと、慣れない手つきで馬に鞍を取り付けた。事前に本で予習していた甲斐はあったようで、何とかそれらしく取り付けることができた。

「良い子だから、一緒に外に出ようね」

 馬の身体を撫でながら、セシリアは厩舎を出る。生徒たちの中には、もう馬に乗っている者もいて、彼女は慌てて走り寄った。

「乗馬か。久しぶりだな」

 セシリアは、隣の呟きに顔を上げた。ハロルドの嬉しそうな顔に、セシリアは少しだけ勇気をもらう。

「ハロルドもそうなの? 実は僕も」

 そうしてげんなりとした顔で肩をすくめた。

「あんまり乗ったことないからさ、ちょっと不安なんだ」

 乗馬は男のたしなみ――というより、貴族のだ――というのは、確かだろう。しかし、セシリアは女である。この男集団の中、乗馬で遙かに後れを取ることなど、試さなくても分かっていた。
 だからこそ、ハロルドの『久しぶり』という言葉に、一抹の希望すら抱いたのだが、彼が優雅に馬に飛び乗って見せたときに、その儚い希望は見るも無惨に散り散りになった。この裏切り者、と心の中で毒づいてしまうくらいには、セシリアは打ちひしがれていた。
 ハロルドに見切りをつけ、レドリーの方に視線を向けてみても、同じことだった。慣れた手つきで馬のご機嫌を取り、彼もまた、軽々と馬に飛び乗った。

「おや、どうしたんだ。君は乗らないのか?」
「……乗るよ」

 なんとも心強い友人に恵まれたことだ、とセシリアは嘆息しながら、恐る恐る鐙に足をかけ、馬の背に乗る。いつ馬が暴れ出すかという恐怖と共に、セシリアは前屈みになって手綱をギュッと握った。

「おいおい、そんな姿勢じゃ乗馬なんてできないぞ。馬に乗ったことないのか?」
「あるよ、もちろん! でも……その、慣れてないんだ」
「見るからに運動が苦手そうだからな」

 レドリーの失礼な物言いに、もはやセシリアは反論する元気もなかった。その通りだと言わんばかり、薄く笑う。

「皆、準備はできたな?」

 シュルドが声を張り上げた。セシリア達は会話を中断し、前を向く。

「今日は、まず肩慣らしにあの山まで行く。基本的に緩やかな傾斜で、一本道だ。道に迷うことはないだろうが、まあ念のため気を引き締めて」

 その他にも、いろいろと注意事項がつらつらと並べられる。セシリアは、皆に後れを取ってしまうのではないかと、そちらの方が気が気でなく、ほとんど彼の話を聞いていなかった。

「sじゃあ、俺が先に行く。遅れるなよ。ゆっくり行きたいものは、ゆっくりでもいいが」

 かけ声を上げて、シュルドは馬の背を軽く蹴る。馬は素直に走り出し、その後ろを、生徒たちがそれぞれ追う。
 彼らの中で、一番に目を引くのはソルである。彼は、シュルドすら追い越して、喜々として馬を走らせた。その身軽な乗馬捌きに、セシリアは感心の声を上げた。

「すごいなー」
「セシル、早く行かないと置いていかれるぞ」
「あー……うん、分かってるんだけど」

 セシリアは目を泳がしながら、頬をかいた。

「僕、本当に乗馬が下手だから。だから、二人は先に行ってて。僕はのんびり行くよ」
「それなら尚のこと一緒に行こう。なに、別に競走をするわけじゃないんだから、ゆっくり行ったって構いはしないさ」

 レドリーは片目をつむった。セシリアはパアッと笑みを浮かべ、何度も頷いた。そんな和やかな空気に水を差すわけにも行かず、ハロルドは違和感に小さく首を傾げながらも、にこやかに頷いた。

「そうだな。一人遅れていったら、突然の事態に対処できないかもしれない。数人で行った方が得策だ」
「二人とも、本当にありがとう」

 セシリアはホッとしてようやく笑みを見せた。なんて頼りになる友人なんだろう!
 今度こそ心からそう思うと、セシリアは一気に心強くなった。その勢いのまま、馬の腹を蹴り、発進させる。そう、そこまでは良かったのだが、強く蹴りすぎたのか、馬は驚いて勢いよく走り出した。一瞬遅れて、セシリアは馬にしがみつく。

「ちょっ――早すぎるよ!」
「おいっ、セシル! どこへ行くつもりだ!」
「そんなの僕も知らない! 馬が勝手に行くんだもん!」

 いつの間にか、馬は方向を変え、右へ右へと走り始めていた。馬にしがみつくのに必死になっていたセシリアは、知らず知らずのうちに、馬の腹を何度も蹴りつけ、方向転換を促していたのだ。

「手綱を引け! 分かるだろ、馬を止めるんだ!」
「引いても全然止まってくれない! 誰か止めて!」

 ハロルドやレドリーが必死になって助言を叫んでくれるが、今のセシリアに、それらを受け入れるだけの余裕はない。馬は、どんどん茂みの方へ走っていく。

「身体ごと手綱を引くんだ! そうしないと――」
「わあっ!?」

 ついにはセシリアは空中に投げ出された。そのままゴロゴロと草原の上に転がり、やがては止まる。
 さすがのセシリアも、しばらくは動けなかった。放心状態のまま、俯けになって呆然とする。しばらくしてハロルドとレドリーがやってきた。

「大丈夫かい?」
「随分派手に転んだようだな」
「う、うん……」

 セシリアは盛大に落ち込みながら、ようやく身体を起こした。突然の事態に、受け身も何も取れなかったが、幸いなことに、大した怪我もなかったようだ。多少のかすり傷はこさえたが、これくらいなら可愛いものだろう。
 でも、折角の新品の乗馬服が。
 セシリアも、こう見えてうら若き少女である。男装をしているとは言え、髪も乱れ、乗馬服もボロボロになった今、自尊心すら崩壊しそうだった。
 そんな彼女を不憫に思ったのか、レドリーはセシリアの馬をなだめすかし、ハロルドは助言を与えた。

「馬を止めるときは、身体ごと手綱を引くのだ。手だけで止めようとしてはいけない。あまり力を入れすぎるのも得策ではないな。馬が痛がるから」

 ハロルドは優しく馬の鼻先を撫でた。

「慣れるまでは、速度を出さずに、少しずつ手綱を引く力を込めたらいい。直に身体が覚えるようになる」
「うん……。ありがとう。本当、自分が情けないよ」

 今のところ、彼らには迷惑しかかけてない。早く行かなければ、どんどんシュルド率いる生徒たちの列に置いて行かれるというのに。

「気にするな。今日はほんの肩慣らしだろ? まずはゆっくり行こう」
「うん」
「ほら、馬に乗って」

 レドリーに促され、セシリアはもう一度馬に乗る。今度は優しく馬の腹を蹴った。馬はゆっくり歩き出した。

「その調子だ」
「うん!」

 そのまま、セシリアは常足で進んだ。軽く方向転換もさせてみるが、今度は馬との調子が合ったのか、右に左にと、うまく移動することができた。
 調子よくセシリアが馬を走らせていると、突然茂みから馬が飛び出してきた。セシリアは驚き、慌てて手綱を引く。

「えっ、な、なんでこんな所に馬が一人で……。誰かそこにいるの?」

 馬に乗ったまま、セシリアが訝しげに茂みに声をかければ、やがてばつの悪そうなノエルが顔を出した。

「ノエル! 一体どうしてこんな所に?」
「君には関係ないだろ。早く行ってくれ」
「でも……」

 乗馬のルートから外れ、一人隠れるようにして茂みの中にいる。
 悪いことしか思い浮かばなかった。

「大丈夫? もしかして具合悪いの?」
「問題ない」

 ノエルは素っ気なく言い捨てると、顔を引っ込めた。セシリアはなおも食い下がる。

「シュルド先生呼んでこようか? それとも、医務室に――」
「ああ、もう、うるさいな!」

 しつこいセシリアのお節介に苛立ったのか、ノエルは茂みから立ち上がった。

「乗馬なんて僕の趣味じゃない! だから皆が帰ってきたときに合流しようと待ち伏せしてるだけだ。分かったならさっさと行け!」
「…………」

 セシリアはポカンと口を開けた。
 趣味じゃない――。
 たったそれだけの理由で、彼は授業をすっぽかそうというのだろうか? あの真面目なノエルが?
「もしかして、君も乗馬が苦手なの?」
「――っ」

 図星だったのだろうか。
 ノエルは虚を突かれたように黙り込み、そして顔を逸らした。沈黙が長い。

「ねえ、もし良かったら、僕たちと一緒に行こうよ。本当のこと言うと、僕も乗馬苦手なんだよ。だから今ハロルドとレドリーに指南してもらってるところ」
「……別に苦手なわけじゃない。乗馬をやる意味が分からないだけだ」

 ノエルも混乱しているのか、先ほどと理由が違う。セシリアは頬の内側を噛み、笑い出してしまうのを堪えた。

「一緒に行こうって。この先もずっと乗馬の授業は続くんだよ? ずっとこのままでいられるわけがない。単位だって落とすかもしれないし」

 ハッとしたようにノエルは顔を上げた。この台詞が決定打となったのか、ノエルは渋々茂みから這い出し、馬に乗った。

「別に一緒に行くわけじゃない。僕は先に行くからな」

 そう言うと、ノエルはノロノロと馬を走らせた。その後ろ姿は不安定で、どうにも心配が残る。

「僕たちも行こう」
「ああ」

 ノエルから数メートル間を開け、セシリア達は彼の後ろからついていった。

「昼食を食べてすぐに乗馬なんて、この学校の教師は頭が狂ってる」

 ブツブツ言いながらノエルがおかしくて、セシリア達は笑いを堪えるのに必死だった。
 それからしばらく、ハロルド達による乗馬の指導は続いた。互いの声を聞き取るのに、たった数メートルの距離は何の障害にもならず、特にノエルは彼らの声に耳を澄ましていたため、よく聞こえていた。彼は勘が良いので、ハロルドの指南内容をもらさず実行することで、全て自分のものにした。

「ノエルは上達が早いな」

 レドリーは小さく感心の声を上げた。セシリアは耳ざとくその呟きを捉える。

「どうせ僕は上達が遅いポンコツですよ……」
「誰もそんなことは言ってないじゃないか」

 レドリーが慌てて取り繕ったが、セシリアはふんと顔を背けた。

「そろそろ休憩にしないか。あそこに川があるだろ。そこで馬を休ませよう。ノエルも」

 ハロルドはノエルにも声をかけた。ノエルは、川へ視線を向けると、しばらく躊躇った後、そこへ方向転換した。

「あれ、でも先客がいるみたいだね。あそこに馬がいる」

 セシリアが指さした先には、草を食んでいる一頭の馬がいた。この時間帯、この辺りで乗馬をしている者など、トラヴィスの生徒しかおらず、セシリア達は辺りを見渡した。

「あそこで誰か寝転がってるようだ」

 先客を見つけたのは、ハロルドだった。彼が指さした方には大きな木があって、男子生徒が気持ちよさそうに昼寝をしていた。
 セシリアが彼に近寄れば、すぐにその正体は分かった。まだ大半の同級生の顔と名前を覚えていないセシリアではあるが、己の同室生だけはちゃんと頭に入れておいたのだ。

「ソル、だよね? ここで何してるの?」

 気持ちの良い陽光の中、己の身体に影が差し、ソルは機嫌悪そうに身体を横向けた。

「お前には関係ねーだろ」
「でも、こんな所で昼寝なんてしてたら、先生に怒られるんじゃない?」
「…………」

 ソルは答えない。先生なんて怖くない、とでも言いたいのだろうか。
 セシリアは説得を諦め、馬に川の水を飲ませた。大した距離は走っていないが、馬は嬉しそうに川縁に身を乗り出す。
 ソルの馬はというと、もそもと相変わらず草原の草を食んでいた。ハロルドはその馬の横っ腹を撫でた。

「無理に飛ばしすぎたんだろ。馬が疲れてる」
「大方、馬の機嫌を損ねたからここで一休みしてる口か?」

 レドリーがからかうようにソルの方を向けば、彼はピクリと頬を動かした。――図星のようだ。

「だが、この様子なら、どうやら最下位はソルになりそうだな」

 馬に水を飲ませながら、ハロルドはポツリと呟いた。セシリアは顔を上げた。

「なに? 最下位って」
「皆知らないようだったから、黙っていようかと思っていたんだが」

 ハロルドはそう前置きした。

「今日最下位だった人には、何か罰があるらしいぞ。詳しく説明はしていなかったが」
「ば、罰……?」

 その不穏な響きに、セシリアは頬をピクリとさせた。ハロルドの言葉に反応したのは、何も彼女だけでなく、レドリー、ソル、そしてノエルまでもが、唖然と口を開けた。

「そんな――そんなの、聞いてないぞ」

 どうやって苦手な乗馬の授業を乗り越えるか、そんなことばかり考えていたノエル。

「あり得ねえ、この俺が罰だと?」

 例によって先生の話など聞いていないソル。

「罰……一体何をされることやら」

 欠伸をしながら呆けてばかりだったレドリー。
 彼らは、皆一様にして罰の話を聞いていなかったのだ。

「こうしちゃいられねえな」

 ソルは慌てて馬に飛び乗った。軽く馬の腹を蹴り、一目散に駆けていく。セシリアも、すぐに我に返ると、馬の所まで走った。

「僕たちも行こう! 乗馬を指導してくれた恩は忘れないけど、でも、それとこれとは話が別だ!」

 そんな恩知らずな言葉を発し、馬を走らせた。彼女に続いて、ハロルド、レドリー、ノエルも急ぐ。

「誰が最下位でも、恨みっこ無しだよ!」

 五人の乗馬は、五分五分だった。無理に馬を走らせたソルは、途中の道で休憩を取らざるを得ず、その隣をセシリア達が悠々と追い越す。しばらくすると、再びソルが猛然と追い越し、その少し行った先で休憩を取る、ということの繰り返しだった。ハロルドとレドリーは、セシリアやノエルを置いて行くという選択肢もあったが、まあ最下位にならなければ良いのだと、途中までは一緒に行く算段だった。
 だが、その計画が崩れ去ったのは、目的地までたどり着いたときだった。つい先ほど優雅に休憩を取っていたのは、セシリア達を油断させるための罠か、目的地が見えた途端、後ろから全速力で駆け抜け、ソルが先にたどり着いた。その後はレドリー、ハロルド、ノエルの順で、最下位はセシリアだった。

「くうっ!」
「ははは、再開後苦労だな」

 レドリーはポンとセシリアの肩を叩いた。ハロルド、レドリーが手を抜いていたことは分かりきっていたが、でも、同じく苦手同士、ノエルにはどうしても勝ちたかったセシリアは、悔しそうに歯がみした。

「ようやく皆到着か」

 シュルドが歩み寄ってきた。他の生徒たちは、川で水浴びをしたり、木陰で居眠りをしたりと、思い思いに過ごしている。

「じゃあ、出発前にも言っていたとおり、これから一週間、厩舎の掃除だぞ」
「はい……」

 項垂れたまま返事をするセシリア。

「五人とも、よろしく頼んだからな」
「はい――って、え!?」

 一旦は頷いたものの、セシリアは驚きに顔を上げた。彼女よりも早く、ソルがシュルドに食いつく。

「五人ともってどういうことだよ! 最下位だったのはそいつだろ?」
「他の生徒たちよりも大分遅れて到着したんだから、誰が最下位でも同じことだろう」

 シュルドは肩をすくめて後ろを指さした。そこには、だらけて寝転んでいる生徒たちの数々。――確かに、彼らが到着したのは、セシリア達よりもずっと前なのだろう。

「とにかく、厩舎の掃除をよろしくな。皆、そろそろ学校に帰るぞ」

 無碍なく言い切ると、シュルドは他の生徒に向き直った。セシリア達五人は、しばし呆然としていたが、やがてソルが徐に動き出し、ボソッと呟いた。

「お前達といると、本当碌なことがないぜ」

 今回のことは、セシリアも少なからず責任を感じていたので、ハロルドやレドリーに対しては、申し訳ない思いで一杯だった。まだ入学して間もないのに、こうもうまくいかないことが続くとは。