05:つれない同室生
朝食の後は、待ちに待った授業だ。
セシリアは、少しだけワクワクしていた。セネット家はあまりお金がなかったため、彼女は一般に必要とされるギリギリの教養しか身につけることができなかった。それに、男と女では、そもそも身につけるべき教養が違う。セシリアも、淑女に必要なダンスや行儀作法は習っていても、男のように幅広い勉学は学んでこなかった。
だからこそ、ここトラヴィスで男と共に様々な勉強ができることは、セシリアにとって、せめてものご褒美でもある。これくらいのことがなければ、男装なんて危険な行動、誰がするものか。
午前中は、必修科目ばかりだった。ハロルドやレドリーと共に、外国語や歴史、数学を学んだ。
始めは緊張と共に、生徒たちは皆背筋を伸ばし、教師の話を聞いていたものだが、抑揚のない彼らの声は、時に意図せず子守歌にもなってしまう。
授業初日というのに、早速船を漕いでいる者、コソコソと友人とカードゲームをしている者と、実に様々である。
そんな中、セシリアの目を引いたのがノエルだった。いつも最前列、それも中央を陣取り、真摯な態度で教師の話を聞く後ろ姿。彼が昨夜遅くまで勉強していたというのは、セシリアも気づいていた。その時は勉強熱心だな、くらいにしか思っていなかったが、この様子を見れば、それ以上に真面目で努力家であることは優に理解できた。
――もしかしたら、トラヴィスに入って初めての試験で、彼に首席を譲らなければならないかもしれない。
そこまで考えると、セシリアはぶるりと身体を震わせた。
入学試験で主席を取ったときは、どうして私がという思いで一杯だったが、いざその地位が揺らぐと思うと、このままでいられるかという思いがわき上がってくる。――考えている以上に、どうやら自分は負けず嫌いらしい。
隣のレドリーが机に突っ伏している中、セシリアは気合いを入れ直し、今度こそ授業に集中した。
*****
つつがなく授業が終わり、昼食の時間になった。学年ごとに授業の時間がずれているため、まだそれほど人は多くない。カウンターに並んでいる列の人数も少ない方だ。
朝食は、皆が一斉に食べるため、あらかじめ長テーブルに全員分の用意がなされている。しかし、昼食と夕食は、それぞれが好きな時間に食べることができるため、それぞれがカウンターまで取りに行かなければならない。その分、食事にもいくつか選択肢があって、楽しむこともできるのだが。
「セシル、席を取っておいてくれないか。俺が君の分の食事も取ってこよう」
「いいの?」
レドリーの提案に、セシリアは目を丸くした。まだ席は空いているので、好きなところを選べそうなものだが。
「その代わり、もし君が良ければ、後で午前中のついて簡単に教えてくれないか? 君も知っての通り、俺はずっと寝ていたから」
「ああ……」
セシリアは一気に呆れたような顔になった。別に教えるくらいなら大した手間もないが、もしかして、この先ずっと同じような授業態度で臨むつもりなのだろうか。
「さすがに落第はできないからね」
なぜだが機嫌良くすら見えるレドリーの態度に、セシリアはいっそ清々しさすら感じた。初日から落第のことを心配しているようでは――それも、自分から居眠りをしておいて、である――この先が思いやられる。
そう思ったのはセシリアだけではないようで、ハロルドは陶器のような額に皺を刻ませた。
「落第をしたくないのなら、真面目に授業を受けたらどうだ? 君は一体何のためにこの学校に入学してきたんだ。そんな態度では、ご両親も悲しむぞ。学生たるもの、何事にも真摯に臨まなくては」
「ああ、うん、そうだね。それは分かってるんだけど……。あ、セシル、メニューは何が良い? 肉と魚があるみたいだけど」
レドリーは曖昧に笑い、うまく話を逸らした。どうやら、これ以上ハロルドの小言は聞かなくて済んだらしい。
「じゃあ魚で」
「魚? 今が成長期なんだから、肉を食べないと。そんな調子じゃ、いつまで経っても大きくなれないぞ」
レドリーは呆れたようにセシリアのことを上から下まで眺めた。セシリアはふんと顔を逸らす。
「大きなお世話だよ。僕は別にこのままでも良いし」
「肉を食べないと、筋肉もつかないし――」
「とにかく、魚でお願いします!」
セシリアは大きく叫んで、レドリーの背中を押した。レドリーはなおもブツブツ言いながら、ハロルドと共にカウンターへ向かう。セシリアは小さく嘆息した。ただでさえ髪を短く切っているのに、これ以上男らしく筋肉がついたら大問題だ。
セシリアは、食堂に向き直った。長いテーブルが三列並び、チラホラと生徒の姿も見える。朝の様子では、テーブルごと座る場所は分けられているらしく、手前がクラウザー寮で、奥がソワルド寮、そして両側から飛び火を食らうこともある中央がブルックス寮である。前方から上級生が座っていくらしく、セシリア達一年生は、端っこの席である。
寮や学年を間違えなければ、特に席の場所はどこでも良いので、セシリアはどこに座ろうかと視線を走らせた。落ち着いて食べたいし、でも、他の生徒とも仲良くなりたいし。
セシリアの視線は、ある空間で止まった。授業を終えた生徒たちが、次々に椅子に腰掛けていく中、まるで爆心地のようにポッカリと空いた場所。その中央で、一人淡々と昼食を取っている者がいた。ノエルである。
セシリアは、始め意味が分からなかった。なぜここだけ空いているのだろう。もしかして、誰かが予約済みなのだろうか、と。
でも、しばらく待ってみても、誰もその空間に座らない。セシリアは、意を決してノエルに近づいた。
「ノエル、ここ、座ってもいい? 僕の他に、あとハロルドとレドリーが来るんだけど」
言いながら、セシリアはもう既に彼の向かいの椅子を引いていた。ノエルは視線だけを上げる。
「僕に構うな。一人で食べたいんだ」
「そんなこと言わないでよ。同室生同士、話でもしよう」
「君たちとなれ合うつもりはない」
ノエルの返答はなんとも素っ気ないものだ。しかしセシリアは諦めない。辺境の地で育ったセシリアは、同い年の子達とたくさん友達になるという目標をも持っていたのだ。
「あっ、ノエルも魚食べてるんだね。良かった、仲間がいて。レドリー、僕が肉を食べないのを馬鹿にしてくるんだよ。そんなんだから、いつまで経っても小さいままなんだって」
「何を食べようと、人の勝手だろ」
同じ小柄同士、ノエルもレドリーの物言いに腹が立ったのか、そんなことを言い返してきた。セシリアは喜々として何度も頷く。
「そうだよね! 人が何を食べようったって、レドリーには全然関係ないのに」
「…………」
ノエルは相づちを返さず、黙々と食事に徹する。セシリアは話題を変えた。
「ね、ノエルって、すごく真剣に授業を聞いてたよね? 勉強好きなの? 何の科目が好き? 僕は歴史」
「…………」
矢継ぎ早に飛び出してくる質問に、ノエルはもはや諦めを持ったようだ。言葉で拒絶することは諦め、沈黙で拒否の意を表した。セシリアは唇を尖らせた。
「ちょっとくらい返事してくれても良いのに。ノエルにまだ聞きたいことは山ほどあるんだけど」
「…………」
「ノエル――」
「おい、そこのお前」
唐突に、二人の会話に割って入る者があった――厳密に言えば、セシリアが独り言を言っているに過ぎないが――。セシリアが顔を上げると、そこにはソワルド寮のタイをだらしなく締めた男子生徒が二人立っていた。
「こいつと話してたら、ゲロが移るぜ」
「はっ――」
「お子ちゃまなゲロ眼鏡君。トラヴィスに来るのはまだ十年早かったんじゃないですかー?」
おちょくったような言い方に、セシリアはようやく事態が飲み込めた。同室生を侮辱されたことが、純粋に腹立った。何より、彼らにとっても同級生だろうに。
セシリアは怒りのこもった目つきで立ち上がった。
「何て人たちなの? ノエルのことを心配もせずにそんなことを言うなんて。全く呆れた。子供じゃあるまいし。あなた達こそ十五年早かったんじゃない?」
「何だと?」
ソワルドの生徒の額に青筋が立つ。セシリアも好戦的ににらみ返し――その時になって気づいた。彼らは、セシリアと一回り以上体格が違う。ただでさえセシリアは小柄な方なのだが、ソワルドの生徒は、十五才の平均的な体格よりも、随分大柄なのだ。必死になって見上げるセシリアの首が痛くなってくるくらいには。
「座れ」
その時、ノエルがようやく口を開いた。彼の眼は、セシリアを見つめていた。
「問題を起こすと先生に怒られる」
「はははっ、こりゃ傑作だ!」
二人は高らかに笑った。
「ゲロ眼鏡は先生なんか怖がってるのか? いいや、違うな。俺たちと真っ向から勝負するのが怖いんだろ? どうせ刃向かったってやられるに決まってるからな。お前にはそのひ弱な身体と眼鏡しかないもんな?」
馬鹿にした調子で男子生徒はノエルの頭を小突いた。だが、ノエルは反応すらしない。
「ちょっと!」
セシリアが噛みつくように怒鳴れば、生徒たちはわざとらしく首を振った。
「おおー、怖。根暗眼鏡に小うるさいチビ。やっぱりブルックスには碌な生徒がいねーな」
下品に笑いながら、二人は去って行った。セシリアとノエル、二人がいた空間は、前にも増してポッカリ広がっていた。ハッとしてセシリアが辺りを見回せば、気まずそうに顔を逸らすものが何人も。その中のほとんどが、ブルックス寮の生徒たちだった。
セシリアは、この空間の意味をようやく悟った。彼らは、またノエルが爆弾を投下するのではないかと警戒しているのだ。それと同時に、他の寮生からノエルがちょっかいをかけられた時、己にも飛び火しないことを願っている。
セシリアは怒りが覚めやらぬまま、荒々しく席に座った。チラッとノエルを盗み見れば、彼は平然と食事を再開している。当の本人がこんな調子なのだ、彼の代わりと言っては語弊があるが、当人以上にセシリアが怒るのも無理はない。
「ノエル、なんで言い返さないの?」
ついセシリアの口調は刺々しくなった。
「あんなこと言われて、悔しくないの? 思い出しただけでも腹立たしい。何て奴なの、あいつら!」
セシリアは口汚く罵る。もしも今の彼女の姿を父が見たならば、きっとぎょっとしたことだろう。
ノエルはフォークを置き、小さくため息をついた。
「ああいう輩は、今までに何人もいた。相手にしないのが一番だ」
「無視したからって、きっとずっと突っかかってくるよ? それでもいいの?」
「僕はあいつらと同じ土俵には登らない。馬鹿馬鹿しいからな」
ノエルは無碍もなくそう言った。セシリアは眉を下げて彼を見つめる。彼が本当にそう思っているのか、ただ逃げているだけなのか、今のセシリアには判断ができなかった。
なおもセシリアが口を開こうとしたとき、隣の椅子が引かれた。そこに腰掛けたのは、ハロルドである。セシリアに魚のトレーを押しだし、己の前には肉のトレーを置いた。
「なんだ? ここだけやけに空いているな」
ハロルドはちょっと首を回す。セシリアは曖昧に笑みを浮かべるだけに留めた。どうやら、ここでのいざこざはカウンターまでは届かなかったようだ。
「そういえば、レドリーは?」
「ああ……置いてきた」
「置いてきた?」
ハロルドが遠い目をして言うので、セシリアは思わず聞き返した。
「どこにいるの?」
「あそこに」
ハロルドが指さした先には、確かにレドリーがいた。だが、こちらには背を向け、カウンター越しの配膳の女性に熱心に話しかけていた。
「何してるの?」
「……口説いていた」
「口説くって、あの人を?」
あまりにも信じられなくて、セシリアは目を瞬かせた。レドリーが熱心に口説いている相手は、遠目でよくは見えないが、少なくとも彼よりも大分年上のように見えた。もしかして、レドリーは年上好きなのだろうか。
カタリという音と共に、不意にノエルが立ち上がった。セシリアは瞬時に振り返り、彼のトレーを見る。いつの間に食べ終わったのか、彼のトレーは空だった。
「ねえ、もし良かったら、僕たちが食べ終わるまで、一緒に話をしない?」
駄目元でセシリアは話しかけた。が、ノエルは冷たく彼女を見据える。
「さっきも言ったが、僕はなれ合うつもりはない。放っておいてくれ」
そうしてそのままノエルはトレーを持ち、足を踏み出しかけたが、すんでのところで振り返り、セシリアを見た。
「あと、あまりいい気になるなよ。入学試験は、僕の調子が悪かっただけだからな。次の試験では、必ず僕が主席を取る」
意志の宿った瞳でそう言い終えると、ノエルはさっさと行ってしまった。
しょんぼりするセシリアと、彼女を気遣わしげに見つめるハロルドの所に、脳天気な様子でレドリーが戻ってきたのは、それからすぐのことだった。