04:伝統あるしきたり


 どこか遠くの方から重厚な鐘の音が響いてきて、セシリアは仕方なしに重たい瞼をこじ開けた。するとすぐ二段ベッドの裏側が目に入ってきて、セシリアは頭を持ち上げた。
 昨日苦心しながら取り付けた手製のカーテンが、ベッドの周りをぐるりと囲っている。厚みのあるカーテンのため、光が遮断されており、今がどのくらいの時間なのか判断はつかない。外からはごそごそ音がするので、もう誰かが起きているらしい。

「おい、皆もう目が覚めたか? 早く準備をしないと朝食に間に合わないぞ」

 ハロルドの声に、セシリアは慌てた。ベッドの隅に畳んでおいたシャツとズボンを手に取り、着替え始める。

「レドリー、早く起きろ。もう朝だぞ」

 早々に準備を終えたらしいハロルドは、甲斐甲斐しく順々に同室生に声をかけているらしい。

「ノエル……は、もう起きてるな。ソル、お前は寝相が悪いな。毛布が落ちてるじゃないか」

 ギシギシとハロルドが梯子を登る音がする。この調子だと、自分に声をかけられるのも時間の問題だと、セシリアは一層着替える速度を速める。

「セシル? もう起きてるか? カーテンを開けるぞ」
「――っ!」

 ビクッと肩を揺らし、セシリアはあたふたと己の周囲に視線を投げた。何か見られて困るものはないか。女ではないかと勘ぐられるものはないか……って、そういえば顔も洗ってないし、寝癖も確認してない!
 セシリアの絶望を余所に、ハロルドはゆっくりとカーテンを開けた。綺麗な青い瞳と目が合う。

「おはよう。さすがもう準備はできているようだな」
「あ……うん、おはよう」

 にへらっとセシリアは笑って見せた。せめて、ハロルドが己のだらしない寝起き姿を気にもしませんようにと祈りながら。
 幸運なことに、ハロルドはすぐにまた立ち上がり、セシリアの視界から姿を消した。そのことに息をつく間もなく、上のベッドから、ソルが上半身だけを曲げて覗き込んできた。

「お前、カーテンなんかつけてんのかよ」
「えっ、駄目かな?」
「ああ、悪い。気分悪い。俺たちが何かするとでも思ってんのか?」
「そういうわけじゃ……」
「同室生とはいえ、プライバシーだって必要だろう。私だって、急な五人部屋に慣れないんだ。仕方がない」
「けっ」

 ソルは肩をすくめて身体を元に戻した。セシリアは顔だけベッドから出すと、ハロルドに小さく囁いた。

「ありがとう」
「構わないさ」

 その後、セシリアもようやくベッドから這い出た。狭いベッドの中で着替えたので、シャツとズボンはしわくちゃだが、我慢するしかないだろう。
 制服に着替え終わったのは、ハロルドとノエルだけだった。レドリーとソルは、未だ寝間着姿でベッドの上でのんびりしている。ハンガーに掛けていた上着を羽織り、セシリアもようやく用意万端整う。
 ノエルは、レドリーやソルを待たずに、そのまま部屋を出て行こうとした。が、すんでの所で思い直し、ソルに冷たい視線を送る。

「誰かさんのうるさいいびきのおかげで、昨夜は全然眠れなかった。少しは同室生にも気を遣ってほしいものだね」
「ああ? お前だって夜遅くまで明かりつけて何かしてただろ。ここはお前だけの部屋じゃないんだぜ」
「夜遅くまで勉強して何が悪い! 学生の本分は勉強だ。いつまでもだらけてないで、シャキッとしたらどうだ!」
「お前に言われる筋合いはねーよ。何をしようが俺の勝手だろ。お前の顔見てると不愉快だ。さっさと行けよ」
「言われなくても!」

 ノエルは鼻息荒く部屋を出て行ってしまった。セシリアとハロルドは顔を見合わせ、同時にため息をつく。この様子じゃ、いつまで経っても仲良くなんてなれないだろうな、と。
 渋るレドリー、不機嫌なソルをせき立て、セシリア達は無理矢理彼らを食堂へと連れて行った。さすがに初日から遅刻というのは考えられない。同室である彼らを見捨てるわけにはいかなかったし、同室ということで共同責任になるかもしれないことを考えれば、一層二人を引っ張る手に力が入るというもの。

「いやあ、すまないね。どうも俺は朝が苦手で」

 朝食の席に着くと、レドリーはようやく口を開いた。全く申し訳なさそうに聞こえないのは、彼が盛大な欠伸と共にこの台詞を口にしているからだろうか。

「明日からはここまでしないからね。ちゃんと自分で起きてね」
「それは厳しいな。俺は誰かに起こされないと起きられない質なんだ」
「別に起こすだけだったらいいけどさ」

 セシリアは唇を尖らせた。

「レドリー、寝起きが悪いんだもん。起こすのも一苦労だよ、ね?」
「そうだな。二回までは起こすが、それ以上は自力で頑張るんだ。そもそも、そういった自立心を身につけていくのも、学校が寮生活であるがゆえのことだろう。ノエルは学生の本分は勉強と言った。それは確かにそうだろう。しかし、それだけでなく、同級生と共に切磋琢磨すること、上級生や下級生との折り合いを円滑にすること、そして何より、自分で身の回りのことをやること。そういったことも心がけ、身につけていくことで、私たちは更なる成長を期待されているのではないか」
「ああ……うん、そうだね」

 説教じみたハロルドの言葉に、レドリーは遠い目をした。彼の言うことはもっともだ。しかし何というか……面倒くさい。
 レドリーとセシリアが意味ありげな視線を交わす中、壇上に監督生が立ち、食事の開始が告げられた。成長期真っ盛りの少年達が、一斉にナイフとフォークに手を伸ばす。
 トラヴィスでは、朝食だけ生徒たち揃って食べることになっている。昼食と夕食は共に各自ここで取るのだ。週末には、届け出を提出すれば外出してもいいことになっているため、そのまま外食をすることも可能だ。だが、その日の夜日付が変わるまでに帰ってこなければ厳しい罰則があるので、注意が必要だ。とはいえ、多くの上流の寄宿学校の規則ほどは時間も厳しくないので、その辺りはやはり中流の学校だと、嬉しいような悲しいようなと複雑な心境だが。
 いつもの癖でのんびり朝食を食べているセシリアを余所に、食べ終えた生徒たちがまばらに立ち上がり、寮へと帰っていく様が見られる。この後はてんこ盛りの授業が待っているのだ。セシリアも慌ててベーコンを喉の奥に押し込んだ。

「そんなに慌てなくてもいい。まだ時間はある」

 そんなセシリアを見かねてか、ハロルドは優しく言った。だが、そういう彼はもうとっくの昔に食事を終えているので、なんの慰めにもならなかったが。
 一人、また一人と周囲の生徒たちが消えていく中、セシリア達308の寮生は、未だ誰一人席を立つことはない。セシリアは言わずもがなだし、ノエルはゆっくり綺麗な所作で食べ物を口に運んでいる。レドリーは時々眠そうに欠伸をし、のろのろと食べるばかりで、ソルはというと、伸び上がった拍子に後ろの席のソワルド寮生とちょっとしたいざこざを起こしており、まだ全然食事をしていなかった。
 皆が皆、自分の食事に夢中になる中、セシリアの後ろに、何者かが立つ気配があった。

「おっほん!」

 わざとらしく大きな咳払いに、セシリアはスープを喉に詰まらせてしまった。慌てて胸をトントン叩きながら、何事かと後ろを振り返る。
 そこに立っていたのは、三人の寮生だった。ネクタイの色から、おそらく同じブルックス寮の者だろう。立ち居振る舞いから見て、なんとなく上級生なのだろうとセシリアは当たりをつけた。

「何でしょう?」

 未だ口のきけないセシリアの代わりにハロルドが訝しげに尋ねた。

「私たちはまだ食事の最中なのですが」
「ああ、それは悪いね。しかし、食事が終わってさっさと帰られても困るから、今のうちにと思ってね」
「はあ……」
「うむ」

 真ん中の七三分けの少年が一層胸を張る。何か言いたいことでもあるのか、とまじまじ彼のことを見つめているうち、あることに気がついた。監督生の証である金のボタンのついたベストを着ているのだ、それも三人とも!
 セシリアは慌てて頭を下げた。

「申し遅れました、セシル=セネットと申します」
「うむ。君は?」
「ハロルド=ヘミングスです」

 レドリー、ノエルも続いて挨拶をする中、ソルだけはつまらなそうな顔で白パンにかじりついている。監督生たちは、彼にも顔を向けたが、ソルの粗野な格好、食べ方を見て、すぐに前を向いた。彼の居住まいだけで、自分たちとは相容れない存在だと察知したのかもしれない。もしくは、危ない気配を感じ取ったのか。

「僕はティモシーだ。見ての通り、ブルックス寮の監督生をしている。後ろの二人もだがね」

 ティモシーの紹介と共に、二人の監督生が胸を反らすので、セシリア達も控えめに頭を下げた。

「君たち、確か308号室の新入生達だな?」
「はい、そうですが」
「うむ、だろうと思った」

 ティモシーは鷹揚に頷く。こうしている間にも、朝一の授業が刻一刻と迫っているので、セシリアはもどかしい思いである。

「君たち、なぜ昨日私たちの元に来なかったのだ? 入学式の後、新入生はそれぞれの寮生に従って監督生の元に来るよう言いつかっていただろう」
「す、すみません……。僕たち、入学式の後、ちょっといろいろあって、そのことを聞きそびれていたようで」

 セシリアが代表になって謝った後、レドリー達と頷き合った。セシリアとハロルドは掃除に、そしてレドリーとノエルは保健室に行っていたので、おそらく聞き漏らしていたのだろう。ソルはどうなのかは分からないが。

「まあ、悪気はないようだから今回は見逃してやろう。だが、次からは気をつけるんだぞ」
「はい。それで、何のご用が……」
「ああ、うん、そのことだがね」

 コホン、と再びティモシーは咳払いをした。

「君たちももう知っているかもしれないが、我がトラヴィスには、ファッグという伝統あるしきたりがある。簡単に言えば、君たち新入生に、小姓のようなことをして欲しいんだ。上級生の部屋を掃除したり、使いに行ったり。僕たち上級生は、卒業に向けて、何かと忙しいんだ。下級生を束ねる役目もあるからね。だからこそ、君たちにはこのファッグを遂行してもらいたいんだ。それに、ファッグは名誉ある役目だと言っても過言ではない。何より、このしきたりのおかげで、まだ右も左も分からない新入生達が、早く寮生活に慣れ、そして――」
「調子のいいこと言ってるが、要するに自分たち上級生のために雑用をしろってことだろ」

 大きな音を立ててソルは立ち上がった。見れば、彼の食器は全て空だった。

「俺はそんなのごめんだね。お前らだけで勝手にやってろ」
「…………」

 ソルの態度に気圧されたように、気弱な監督生達は黙り込んだ。互いに目配せをして、やがて頷く。

「……うむ、君はまあ見逃してやろう。丁度、新入生と上級生の数が合わなくてね。何でも、君たちは例年よりも一人多いそうじゃないか。うむ、見逃してやろう」

 まるで恩を着せるかのように、ティモシーは何度も強調しながら頷いた。礼も言わず、そのまま去って行くソルを見送り、彼の姿がなくなったところで、監督生達は、再び威厳を身に纏った。

「とにかく、そういうことだからいいね? 他の新入生達は昨日決まったから、後は君たちだけだ。今から名を呼ぶから、その名前をよく頭に刻みつけるように。ちなみに、もう既にその上級生達は、誰が自分の小姓となるか分かっている。だから、今夜にでも何か雑用――失礼、頼みごとをされるかもしれないが、心して取りかかるように。まずハロルド=ヘミングスは――」

 一人一人名前を呼ばれるのを聞きながら、セシリアは気が気でなかった。自分たちが上級生のお世話をする、と。どうか悪い人にだけは当たらないで欲しいと必死に祈る。

「そしてセシル=セネット。君は確か新入生代表を務めたそうだね?」
「は、はい」
「よろしい。じゃあ君は僕の小姓をしてくれ」
「は?」
「聞こえなかったかね、僕の小姓だ」
「はい!」

 良い人に恵まれたかどうかはまだ定かではないが、とにかくセシリアは姿勢を正して返事を返した。第一印象――もう何度か話した後だが――は、良くなければ!

「皆、自分がつくことになる上級生の名前は覚えたね? 今日から精進するように」
「はい」
「よろしい」

 満足そうに頷くと、ティモシーは二人の監督生を連れてきびすを返した。が、少し歩き出したところで、再び彼の足が止まる。

「一つ忠告しておくが」

 ティモシーはゆっくり振り返る。

「君たちは昨日、誰が誰の元につくのか公正に決めようとした場に現れなかった。それ故、言い方は悪いが……外れクジをひいたとしても、文句は言えまい?」
「…………」

 四人の背に悪寒が走った。
 ティモシー達が姿を消すまで、四人は何も言えず、悲壮感をあらわにしていた。