02:入学式の出会い


 入学式は、麗らかな春の日差しの中、講堂で行われていた。
 薄らと緊張感漂う中、トラヴィス寄宿学校を統べる学校長の落ち着いた声だけが響き渡る。
 そんな中、ハロルドは、穏やかな微笑を浮かべ、視線だけでゆっくり周りを見渡した。
 ――整然と並べられた椅子に座る数多くの新入生たち。彼らがハロルドの同級となる者たちだ。共に学び、共に訓練し、そして心身共に成長していくのだろう。
 今までは、ハロルドを崇め、敬う者たちがどれだけ周囲にいたことか。しかし、この同級たちは一人たりとも知らないのだ、ハロルドが王子であるということを。
 そう思うと、ハロルドの胸は自然、期待に膨らんだ。これまで学友として公爵の子息が王宮にやってくることはあったが、皆ハロルドに対して媚びを売る者か、そうでなくても一歩引いた態度をとる者ばかりだった。
 心置きなく何でも話せる学友が欲しい。
 そんな些細な願いもあって、ハロルドは今日、ここへ赴いたのだ。

「新入生代表セシル=セネット」

 重々しい声に、ハロルドはハッとして前を向いた。丁度一人の少年が立ち上がったところだった。
 彼が演壇に向かって歩いて行くのを、ハロルドは黙って眺めていた。
 ――小柄な少年だった。きちんとご飯を食べているのだろうかと心配になってしまうほどの細さだ。加えて、ちらりと見ただけの横顔は滑らかで、幼い顔つき。まだ十二、十三と言われても納得してしまいそうな体躯である。
 ――彼が、入学試験の首席か。
 ハロルドは、彼に対し、敬意を表すると共に、挑戦的な目でじっくりと見つめた。
 ハロルドは、王宮であらゆる教育を受けていた。もちろん、自惚れなどではなく、本当に十分首席を狙える頭脳を持ってはいたのだ。しかし、現在彼は王子という身分を隠している身。あまり目立ってしまっては、その立場が露見してしまう可能性がある。そんな危険は犯せないため、彼は少々手を抜いて入学試験に臨んだのである。
 真面目なハロルドとしては、公正な試験の場において手を抜くなんてことはしたくなかった。が、これから三年にもわたって寄宿生活が続くのだ。入学試験は我慢しよう、と心に決めた結果がこれだった。
 演壇に上がった少年は、緊張した面持ちで答辞を読み始めた。声変わりもまだしていないようで、この男だらけの講堂には似つかわしくない高い声が響く。そのちぐはぐさがおかしかったのか、一時新入生達の緊張が緩み、笑い声が漏れた。少年はそのことにすぐ気づき、頬を赤らめて、わざと低い声を出す。――やはり彼も気にしているらしい。その素直な講堂に、またしても笑いが起こる。今度は遠慮のない大きさだ。

「静かにしないか。真面目に聞こう」

 ハロルドも顔をしかめて周囲の生徒に声をかけるが、その場に彼の注意をきく者はいない。むしろ、なにを偉そうに、と鼻であしらわれる始末。
 どうしたものかとハロルドが困り果てる中、教師達もこの騒ぎに目をつむることはできず、静かにしろ! と生徒たちを収め始めていた。もうすっかり答辞どころではない。可哀想に、演壇の少年は、どうしたものかと答辞の紙を持ったままオロオロとするばかり。

「うっせーなあ!!」

 しかしその時、一際大きな声が響き渡った。
 ハロルドは驚いて身をよじらせる。隣から突然野太い声が響いたのだから、驚きもひとしおだ。

「静かにしろよ! おめえらガキか!」

 不機嫌丸出しの声でそう叫ばれ、先ほどまで笑っていた新入生達は慌てて黙り込んだ。そうしてその瞬間を見逃さない教師の合図により、演壇の少年も慌てて答辞の続きを始めた。

「……ったく、うるさくて眠れねえだろうが……」

 そんな中、彼の呟きを耳にした者は、おそらくハロルド以外いない。
 この騒ぎを収めてくれた者として、ハロルドとしては礼が言いたいところだった。しかし、彼の先の言動はどうにも許しがたい。神聖な入学式の場において、居眠りをしようなどと。
 着崩した制服に、あちこち寝癖のついている髪、そして何より、椅子に浅く腰掛け、だらけて座っている様。入学式が始まってからずっとこんな有様の生徒が隣に座っていたにもかかわらず、今の今まで気づかなかったとは。
 入学式に熱中するがあまり、ハロルドは視野が狭くなっていたようだ。彼は咳払いをすると、隣の少年の肩を叩く。

「君、先ほどの注意は良かった。私からも礼を言う。ありがとう。……だが、入学式で居眠りとはどういうことだ? 彼の答辞を聞こう」
「うるせえな」

 濡れ羽色の前髪から猛々しい瞳を覗かせ、少年は吐き捨てるように言った。

「何しようが俺の勝手だろ。坊ちゃんは大人しく先生の言うことでも聞いてろ」
「はっ……?」

 ――うるせえな? 俺の勝手? 坊ちゃん?
 ハロルドは固まった。面と向かってこんな乱暴な言葉を放たれたのは、生まれて初めてだったのだ。
 しかし、それにしたって、ハロルドとしてもできるだけ丁寧な言葉遣いで相手を気遣ったというのに、どうしてこんな物言いをされるのか。自分が気づかないだけで、それ以前に相手に何か不快な思いをさせてしまっていたのか?
 疑問は深まるばかり。
 ハロルドは、それについて熱心に考えるあまり、答辞が終わったことにも気づかなかった。


*****


 ソルは、隣の席に座るお節介な少年の小言を一蹴した後、再び目を閉じて眠りの世界に旅立とうとしていた。だが、どうにも一瞬映ってしまった、彼の様相が頭の中を飛び交い、眠ることができない。
 ――やたらと目がチカチカする金髪に青い瞳。精悍な少年だった。そしてその様相にピッタリな口調で、『私からも礼を言おう』などとのたまうのだ。お前は一体何様だと問いたくて仕方がなかった。
 おまけに、ソルに足蹴にされたことが随分衝撃的だったようで、彼はいかにも悲壮な顔つきになって考え込んでしまった。
 悪いことをしたなという思いはソルにない。むしろ、大丈夫か? と彼の頭の方が心配になった。たった少しきつく言われただけで、ここまで落ち込むなどと。
 ――ソルは、まさしくその人物が、自分が目的とする王子であることを疑いもせず、ただそっと彼から距離を置くのであった。
 その後、しばらくしてもなかなか寝付けないので、ソルはとうとう居眠りすることを諦めた。その代わり、情報収集とばかり、講堂の新入生達を見渡してみる。
 彼が目的とする王子は、眉目秀麗、文武両道、おまけに人当たりも良く、皆に平等だという。そんな聖人君子のような人物がこの男だらけ新入生の中にいるという。
 一体誰だろうか……。
 鋭い眼光で視線を這わせる中、ソルの視線は最終的に演壇に立つ新入生代表の少年で止まった。
 首席なのだから、成績優秀ではあるだろう。眉目秀麗? 眉目秀麗……ではない、か。
 若干失礼なことを考えながら、ソルは彼から視線を外した。
 確かに可愛い顔をしているとは思う。ふわふわした茶髪に、丸っこい瞳。まるで犬ころのような顔つきだ。が、一般的に女好きのする顔ではないだろう。可愛い可愛いと可愛がられはするかもしれないが、決して女達が結婚相手にと望む顔ではない。
 ――まあいい。三年も猶予はあるのだ。ゆっくり探し出せばいい。
 いくら秀才の王子だとはいえ、三年もすれば気が緩む。そのときを逃さず、手引きをした刺客に息の根を止めさせるのだ。
 己の任務遂行の時を思って、ソルが不敵に微笑んでいると、隣の少年が、ぐらりと身体を傾けてきた。
 今もなお思い詰めている金髪碧眼とは反対の、右隣の眼鏡少年である。小柄な背を震わせ、顔を青くして俯いていた。アッシュブロンドの直毛を掻き上げ、息苦しそうに彼は何度か深呼吸をする。
 ……まさか、吐くつもりじゃないだろうな?
 ソルは自身のその考えに身震いをすると、そっとその男から距離を置いた。左隣には堅物の偉ぶっている少年、右隣には今にも吐きそうな少年。
 一体この学校はどうなっているんだと、ソルは早速天に嘆きたくなった。


*****


 態度の悪い隣の少年から距離を置かれたことは、ノエルも気づいていた。おそらく、吐かれでもしたら困ると思ったのだろう。
 誰がこんな場で吐くか。
 気位が高いノエルは、持てる力を振り絞り、身体を元の位置に戻した。ポケットからハンカチを取り出し、それで口元を押さえる。
 気分が……悪い。
 額に大粒の汗を浮かべ、ノエルはずり落ちた眼鏡を元の位置に戻した。薄らとだが、頭痛もあった。
 入学式なんてすぐに終わると思っていたのに。入学式の整列に時間がかかったり、答辞の最中ヤジが入ったりと、様々な人種がやってくるトラヴィスは、やはり碌な人間がいない。
 ノエルの視線は、自然と演壇へと向く。
 ――それに、本当なら、この僕があの壇上に立っていたはずだったのに。
 ノエルの視線は知らず知らず、鋭いものへと変わる。
 ――少年の見た目からは、首席だなどと到底思えなかった。気が弱そうに垂れている瞳からは、知性なんて欠片も見当たらないし、緊張で震えている声は、上に立つ者の格を備えていないように思えた。強いて言うなら、答辞の内容はしっかりしているが、どうせ金を払って誰かに書いてもらったものに決まっている。
 何で僕はいつもこんな目に。
 緊張すると、いつも具合が悪くなる自分のひ弱な身体が恨めしくて仕方がなかった。この体質のせいで、いつも家族からは疎んじられ、哀れまれてきた。
 ノエルの家ニコルズは、古くから書記官や文官、果ては宰相を輩出してきたことで有名だ。ノエルも、ニコルズ家嫡男として、国立の学院に入学した暁には、後々文官になるための勉学に励む――はずだった。
 緊張ゆえの体調不良で高熱を出し、入学試験を受けることすらできなくなるまでは。
 結局、国立学院より遙かに格下のこのトラヴィスに入学することが決まったとき、家族からは散々呆れられ、そして蔑まれてきた。ニコルズ家嫡男ともあろう者が、こんな低級の学校にいくことになるとは、と。その上、ノエルは風邪が長引き、もうろうとする頭で試験を受けたため、首席すら取ることができなかった。
 ニコルズ家にとって、愚かでひ弱な男児など恥でしかない。
 ノエルには、八歳年下の弟がいるが、最近では、ゆくゆくは彼がニコルズ家を継ぐのではと噂されている始末。
 要は、ノエルは見放されたのだ、家族からも親戚からも。
 ノエルにはもう味方など誰一人いなかった。全ては実力主義なのだから仕方がない。ノエルは実力はあるが、それを発揮できなくては、でくのぼうも同然。
 ――せめて、首席さえ取ることができたら、何か変わっていたかもしれないのに。
 ノエルは、再び演壇の上を睨み付ける。注意が彼へと向いている間は、心なしか体調も良くなっている気がした。だが、それもすぐに終わりへと近づく。先ほどからずっと空席だった右隣――そこに、ドサッと何者かが腰を下ろしたからだ。身体からは思い切りプーンと酒臭い臭いを漂わせている。

「…………」

 ノエルは不機嫌に隣の彼を見上げた。折角気分も良くなってきたところに現れた、酒臭い少年。彼は、伸びきった赤毛を後ろで一つにくくり、制服もかなり着崩していた。ジャケットのボタンは一つも締められておらず、シャツからは胸板が覗いている。
 だらしないその様相に、ノエルは呆れるよりもいっそどうでもよくなった。
 こんな体たらくの男とは、きっと一生縁がないはずだと。何の因果か、入学式では隣の席になってしまったが、きっとクラスも分かれているだろうし、部屋割りだってそうだ。彼と僕は別次元、そう、程度の低い人間に合わせていられるほど、ノエルも暇ではないのだ。
 ノエルは、彼を一瞥すると、自分には関係ないと言い聞かせながら、己の体調管理に注意を注いだ。


*****


 レドリーは、ダラダラとトラヴィスの敷地内を歩いていた。もうとっくの昔に入学式は始まっているだろうが、しかし、その入学式が行われている場所が分からないのだ。
 聞くところによれば、講堂で行われるという話だったが、その講堂の場所すら分からないのだから仕方がない。
 迷いに迷ってようやくついたときには、もう新入生代表による答辞が始まっていた。通常、答辞は式の最後の方に組み込まれているため、単純な遅刻どころの話ではない。

「失礼しまーす……」

 コソコソと講堂の扉を開け、そして更には自分の席を探そうとしたところで、レドリーは何者かに肩を叩かれた。そして凄まじい力で一旦講堂の外に追いやられる。

「君! 今一体何時だと思ってるんだね! 遅刻するにも限度ってものがあるだろ――って、酒臭っ……!?」

 神経質そうな教師は、大袈裟に鼻を摘まむ。レドリーは悪びれた様子もなく、ヘラヘラ笑って頭を下げた。

「あー、申し訳ありません。昨日少々飲み過ぎてしまいまして……」
「ったく……入学式の前日に酒を飲むとは何事だ。このトラヴィスに入ったからには、少しは節度を保つよう努力をしなさい。次同じようなことをしたら罰則を課すからな」
「はい、申し訳ありません」

 今度は殊勝に謝ると、レドリーはようやく入学式へと向かうことができた。足音を忍ばせながら、己の席と思われる椅子に腰を下ろす。
 折角新入生代表が真面目に答辞をしているのに、その最中に堂々と入ってきてしまって、レドリーは多少は申し訳なさを抱いた。
 ――なよなよとした体つきに、男らしさの欠片もない顔。
 女人禁制の寄宿学校なのだから、もちろんあの新入生代表は男だ。だが、どうにも思春期男子特有の獣臭さというか……そういう類いのものを彼には感じなかった。年の割に幼く見えるせいだろうか。
 と、そこまで観察して、レドリーは慌てて壇上の少年から目をそらした。何が嬉しくて、男など観察しなければならない。確かにレドリーは自称女好きではあるが、見くびらないで欲しい。たとえ少女と見まがう紅顔美少年であっても、見境無しに少年に手を出すほど落ちぶれてはいない!
 そう己を落ち着かせ、レドリーはようやく自分の周辺に注意をやった。壇上にばかり気を取られ、他の新入生達の観察をすっかり忘れていたのだ。
 右隣は空席は、おそらくあの新入生代表の席だろう。そして左の席は――顔を真っ青にした少年がいた。ひ弱な肩をふるわせ、今にも吐いてしまいそうな顔色だ。

「おい、大丈夫か?」

 思わずその華奢な肩に手を置けば、気遣いはいらないとばかり払いのけられる。しかしそんなことくらいで気を悪くするレドリーではない。

「医務室に連れて行こうか。立てるか?」

 小さく尋ねるが、しかし彼は首を振るのみで、動こうとしない。
 そうしている間にも、答辞は終わり、新入生代表の少年が帰ってきた。それ以来声をかける機会を失ってしまって、レドリーは気遣わしげな視線を向けながらも、どうすることもできなかった。せめて早く式が終わればいいと思いながら、前を向いた。


*****


 ようやく地獄の答辞が終わり、セシリアは己の席に戻ってきた。
 まるで針のむしろのような時間だった。
 緊張で声を震わせながら答辞を読み始めれば、そのことがおかしかったのか、皆に笑われてしまった。そしてすぐにしっかりとした低い声を出してみたのだが、何がいけないのか、笑い声は一層大きくなるばかり。
 途中、一人の男子生徒が一喝してくれなければ、あの時間は無限と続いたのだろう。遠くて顔までは識別できなかったが、彼には感謝しかなかった。
 しかし、そもそも、セシリアはなぜ自分が新入生代表に選ばれたのかさっぱり分からなかった。確かに、入学試験のために必死になって勉強はしたが、首席をとれるだけの頭だとは到底思っていなかった。
 良くて十番以内には入っているだろうとは思っていたが、まさか首席になるとは。
 セシリアはできるだけ目立ちたくなかった。セネット家存続のため、仕方なく男装してトラヴィスに入学したが、目立てば目立つほど、セシリアのやせっぽちな体格と、なよなよした言動に疑問を持つ者も出てくるかもしれない。その上、トラヴィスは寄宿学校なのだ。朝から晩まで男ばかりに囲まれ、気の休まる時間などない。
 ……ああ、やっぱり止めておけば良かった。いくら父から哀願されたとはいえ、私は花も恥じらう女の子なのに。
 セシリアは次第に空しくなってきた。同じ年頃の少女達は、皆長い髪を結って華やかなドレスを着、茶会や社交界に出かけているというのに。対するセシリアは、短く切った巻き毛があちこちに飛び跳ね、男物の服を上から下まで着込み。
 はあ、とセシリアは深く長いため息をつく。せめて学校生活が楽しいものになるのならまだ救いがある。が、先ほどの答辞でその希望は絶たれた。きっとこれからも、ひ弱な体格で因縁をつけられることもあるかもしれない。そんなことはないと思いたいが――もしかしていじめだってあるかもしれない。
 そう思うと、一層憂鬱になってくるセシリアであった。
 そうこうしている間に、入学式はようやく終わりを迎えた。教師が先導し、新入生達に起立の号令をかける。
 挨拶をしたところで、今日の日程はもうこれで終わりのようだ。これから各自割り当てられた部屋に行き、明日から始まる学校生活に向けての準備を各々始めるのだ。
 二列に並んで新入生達が講堂を出て行く。
 セシリアも、早く一人になれる部屋に帰りたいと、今か今かとその順番を待つ。が、横から微かな衝撃を感じ、彼女は小さくよろめいた。

「あっ……すまない」
「い、いえ」

 セシリアにぶつかってきたのは、赤毛の少年だった。彼は前を向くとそのまま何かを抱えたまましゃがみ込んだ。

「大丈夫か?」

 気を引かれてセシリアが覗き込むと、彼の腕の中には、具合の悪そうな眼鏡の少年がいた。額には大粒の汗が浮かんでおり、荒い呼吸を繰り返している。

「うわっ、汚えな。やっぱりこいつ吐いたのかよ」

 少年の足下には、吐瀉物が広がっていた。靴にそれがかかってしまったらしい黒髪の少年が、嫌そうな顔で離れた場所に避難する。

「そんな言い方はないだろう。――大丈夫か?」

 金髪の少年が、心配そうに身をかがめる。だが、返事もままならない様子で眼鏡の少年は蹲るばかりだ。

「大丈夫?」

 見ていられなくて、セシリアもしゃがみ込むと、持っていたハンカチで少年の口元と額の汗を拭った。
 次第に、この騒ぎに気を引かれたのか、周囲に新入生の野次馬ができていた。入学式の緊張が解けたところで、話題のタネになりそうなものが転がっていたのだから、からかい半分で来たのかもしれない。

「見世物じゃないぞ」

 金髪の少年が忌々しげに立ちはだかっても、彼らがここから立ち去ってくれる気配はない。

「このまま医務室に連れて行こう。立てるか?」
「…………」

 一応赤毛の少年が尋ねたが、やはり返事はなかった。彼は勢いよく小柄な少年の身体を持ち上げると、その大きな背に負ぶった。

「一人で大丈夫ですか? 何かお手伝いは……」
「ああ、大丈夫。先生にこのことを伝えてくれたら嬉しい」
「分かりました。あっ、このハンカチ使ってください」

 人好きのする笑みを浮かべると、赤毛の少年はそのまま悠々と講堂を出て行った。さすがは男だ。女であるセシリアには一生縁のない腕力と体格で、彼は軽々と負ぶって行ってしまった。
 しばらくその姿に感心していると、いつの間にか、野次馬達はもう解散していた。件の主役がいなくなったことで、すぐに興味が薄れたのだろう。後に残るは、異臭のする吐瀉物のみで、そんなものを眺めていても仕方がないからだ。
 セシリアは教師にこのことを報告しに行った。具合の悪い生徒がいて、そしてその少年を医務室に連れて行ってくれた者がいる、と。その後、掃除道具の場所を聞いて、再び講堂に戻ってきた。つい先ほどまで、新入生で溢れかえっていたというのに、もうその頃にはガラガラだった。チラホラと生徒が談笑するか、教師達が難しい顔で話をするのみだ。
 セシリアは、バケツを傍らに置き、濡らした雑巾で床を拭き始めた。一心に掃除をする中、彼女の頭上に影が差す。

「手伝おうか」
「えっ?」

 顔を上げれば、目にまぶしい金色が飛び込んできた。しばらくパチパチと瞬きをした後、ゆっくりと微笑む。

「ありがとう。じゃあ水を替えてきてくれる? 講堂を出てすぐの所に、水飲み場があるから」
「分かった」

 すぐに頷くと、彼は外へと走って行った。その間にと、セシリアも掃除を続ける。
 二人で作業をしたせいか、掃除はことのほか早く終わった。掃除道具を片付ければ、もうやることはないので、二人は肩を並べて宿舎の方へと歩き出した。

「手伝ってくれてありがとう」
「いや、そんなことは」

 少年は首を振ると、セシリアに向き直った。

「そういえば自己紹介がまだだったな。私はハロルド=ヘミングスだ。これからよろしく頼む」
「あっ、私っ、あ、僕はセシル=セネットです。こちらこそよろしくお願いします」

 セシリアも慌てて頭を下げた。そして視線を上げたときに、目の前に手を差し出されていることに気がついた。握手を求めているのだとすぐにハッとし、セシリアは愛想笑いを浮かべながら彼の手を握る。

「君の答辞、良かったぞ。さすがは首席だな」
「え? あ、そうですか? でも、そう言ってもらえて嬉しいです」

 ――微笑が眩しい。
 どこぞの貴公子のような風貌のハロルドに、セシリアはドギマギした。背は高いし、顔の造作は整っているし、声も落ち着いていて素敵だ。
 そこまで考えたとき、セシリアは慌ててぶんぶんと首を振った。
 男としてこの学校にやってきているのに、一体自分は何を考えているんだと!

「い、行きましょう! 僕もう疲れました!」

 そう宣言すると、セシリアはいそいそと歩き出した。拍子抜けするハロルドを置いてけぼりに、彼女はずんずん進む。
 乙女心など封じなければ。身も心も男になるんだ。
 そう心に言い聞かせるセシリア。しかし、不意に空を見上げると、彼女はふっと微笑んだ。
 答辞を笑われたときは、絶望しか感じなかったが、赤毛の少年も、ハロルドも、具合の悪い同級のために何も言わずに動いた。
 ――案外、トラヴィスでの学校生活も悪くないかもしれない。
 セシリアは期待に胸を膨らませると、鼻歌を歌いたい気分で軽やかに歩いた。