01:突然の告白


 高校に入学して、二月も経たない頃だっただろうか。
 伊月はその日、放課後に友達とショッピングに行く予定だった。花の女子高生ともなれば、メイクやらお洒落やらに毎日余念がなく、それに伴って散財が激しくなってしまうのも当然のこと。お小遣いはもう残り少ないが、高校に入ってからの友達を逃すものかと、伊月は張り切って今日も彼女たちに付き合う予定だった。

 今日買う予定のものについて話す友人に笑顔を振りまきながら、伊月は教科書や筆記用具を鞄に詰めていく。放課後ということもあって、教室内は少々うるさかったが、これもいつものこと。伊月は全く気にしていなかった。

「前島さん」
「はい?」

 不意に伊月の名が呼ばれた。聞いたことのない声だ。そもそもその声は若干低く、変声期を終えた少年の声。
 やけにゆっくりとした動作で、伊月は顔を上げた。目に入って来たのは、中肉中背――どちらかというと、華奢なイメージを受ける男子生徒だ。耳のあたりまで伸びた黒髪と、神経質そうな眼鏡が、思ったよりも造作の整った顔と不釣り合いな印象を与えていた。

「突然失礼。僕は一年四組の荻野律哉です」
「は、はあ……」

 淀みなく口を開く荻野とやらの男子生徒の後ろでは、つい先ほどまで騒がしかったのが嘘だったかのように、シーンと静まり返った生徒たちがこちらを見つめていた。すぐ隣にいる、先ほどまで嬉しそうに話していた友人たちでさえ、どこか呆気にとられたような顔で伊月達を見つめていて、伊月は少々居心地の悪い思いをだった。

「単刀直入に言います。前島さん、僕とデートしてくれませんか」
「はあ……はい?」

 流されるまま、一旦は頷きかけた伊月だったが、すぐにパッと顔を上げた。眼鏡の奥のつり目がちな瞳と目が合う。

「僕とデートしてくれないか」

 なおも荻野とやらは無表情で言ってのける。伊月はあんぐりと口を開けた。聞き間違いではなかったようだ。彼の後ろからは、徐々に色めき立った女生徒の声が上がり始めている。そのことに気付いてようやく、伊月の頭もゆっくりと回り始めた。

「ま、待って。突然デートだなんて……」

 そう、そもそも伊月と目の前の彼は全くの初対面だ。友人ですらないのに、いきなりデートというのは些か早急というもの。
 だが、そんな保守的な伊月の肩を、隣の席の友人――万里子が、パシッと叩いた。

「何言ってんのよ。いいじゃない、デートくらい!」
「え」

 万里子の瞳は、キラキラ輝いていた。

「わざわざ教室にまで来て申し込んでくれたのよ? その勇気に免じて受けなさいよ!」
「え、で、でも……私、知らない人とは……」

 押しの強い万里子に言われたが、なおも伊月は首を振る。確かに、男性にデートのお誘いをされ、胸躍る部分もあったが、それでも初対面の男性といきなり二人で出かけるというのは抵抗があった。
 だが、躊躇いがちに伊月が荻野を見ると、彼は心底驚いたような顔をしていた。

「まさか、僕のこと覚えてない?」
「え?」

 伊月は固まり、改めてまじまじと荻野の顔を見つめた。

「どなた……でしたっけ」
「荻野律哉だ」

 名前ではなく、いつ面識があったかという意味で聞いたのだが、荻野はその辺りの機微には気づかなかったようだ。伊月は若干気まずくなりながらも、必死に頭を回転させて思い出す。荻野、荻野……。

「あ……」

 その時、ふっと頭に思い浮かぶものがあった。

「もしかして、小学校の時の……?」

 今はもう薄れかけている小学五年生の頃の記憶だ。確かに、荻野という名の同級生がいた。同じクラスではなかったが、時折一緒に話す機会があった。

「そう、小学五年生の頃に知り合った」
「律哉君か……!」

 ついに伊月の記憶と合致し、彼女は明るい声を上げた。思い出せなかったらどうしようかと思ったが、何とか僅かに記憶は残っていた。これで気まずくならなさそうだと伊月はホッと息を漏らす。

「思い出してくれたか。デートの件は承諾してくれるのか?」
「え」

 しかし再び伊月は固まる。まだ根本的な問題が残っていた。

「あ、でも私……」
「知らない人じゃないんだからいいんじゃないの? 小学校の頃の知り合いなら、積もる話もあるんじゃない?」

 万里子が横槍を入れてきた。この頃になると、伊月と荻野の会話にはだんだん興味がなくなって来たようで、他の生徒たちもこちらへの注意が散漫になってきた。そのことに、少しばかり伊月は安堵の吐息を漏らした。

「うん、でも……」

 デート、と名のつくものに、緊張しない訳がない。デートなどと言わずに、懐かしいから一度話がしてみたいと、そう持ち掛けるだけだったらすぐに承諾したのに。
 そう恨めしい気持ちで伊月が荻野を見上げると、彼は困ったような顔になった。

「一度だけでいいから、デートしてもらえないだろうか? 小学生の頃から、ずっと君のことが頭から離れないんだ」
「……え?」

 思うように頭が働かない伊月を差し置いて、教室中が一気に色めき立った。先ほどまですっかりこちらから注意が逸れていたというのに、荻野の低く、そして意思の宿った声が、思いのほか教室中に響いたらしい。伊月はあまりの驚きに微動だにしなかった。

「もう! そんなことならデート受けちゃいなよ! ね、いつ、どこで待ち合わせするの?」

 伊月を押しのけて、万里子がはしゃいだ様子で荻野を見た。

「そうだな、今週のの土曜日はどうだろうか。場所は……伊月さん、小学生の頃と同じ家に住んでいるだったら、最寄りの石津川駅にしよう」
「え、家まで知ってるの? うわー、やるわね。何時に集合?」
「じゃあ、十時は」
「はいはい、いいわよー。ね、伊月?」
「え? あ……」
「土曜日……いいかな、伊月さん」

 真っ直ぐな瞳が伊月に向けられた。彼女はというと、右往左往と視線を彷徨わせた後、結局荻野やら万里子やらの圧力に耐え切れず、小さく頷いた。荻野は、無表情の中ほんの少しだけ口元を緩めた。伊月はそれが少し意外で、わずかながらその顔に見惚れてしまった。

「――ありがとう。じゃあ土曜日十時、岩津川駅に待ち合わせで」
「うん」

 伊月は、ボーっとしたまま荻野が教室を出て行く様子を見守る。彼の姿が完全に見えなくなると、万里子ともう一人の友人、香奈恵が集まってきた。

「ちょっとちょっと、どういうことよ、伊月ー!」
「え、なっ、なにが?」
「私、伊月と荻野が知り合いだったなんて聞いてないんだから!」
「ほんとほんと。でも奥手そうな伊月がデートを受けるなんて思わなかったなあ」
「ま、ほとんどはあたしのお手柄なんですけど?」
「どこが。あんたは野次馬根性で首を突っ込んだだけでしょう」
「なにをー!?」

 息つく暇もないほどの速さで繰り広げられるやり取りに、伊月は中へは入れずに、困ったような表情を浮かべていた。

「荻野を捕まえておけば、将来は安泰よ!」
「そ、そうだね……」

 そして突然矛先が自分へ向かって来ても、伊月は苦笑いを浮かべることしかできない。

「でもさあ、まさかあの荻野に好きな女子がいたとは、ね」
「しかもそれが伊月だとは」
「……?」

 そう言われてみて、伊月ははたと思い出した。そういえば、荻野荻野とどこかで聞いたことがあったと思ったのだが、確か、この高校に主席合格したとして一躍有名になっていた男子性の名だ。昔は律哉君としか呼んでいなかったため、面識があるとは思いもよらなかったのだ。

「今日の買い物さ、予定変更しようか」
「いいわね、そうしましょう」
「え?」

 伊月が思考を飛ばしていた中、万里子と香奈恵の間では何やら話がまとまっていた。

「土曜日のデートのために、伊月、いろいろと準備が必要だものね」
「服でも買いに行こうか」
「メイクはこの前買ったし……そうね、服とか靴とか、あと髪形も整えたいじゃない?」
「よし、後であたしん家に寄ろう。そこで予行演習よ」
「え」

 人よりもワンテンポ遅い、と言われがちな伊月は、いつの間にやら結託した友人たちに連れ回され、その日の放課後、彼女たちの着せ替え人形と化すこととなった。