第一章 孤児院
08:なんて意地悪な子
今日も今日とてアデラは箒を渡される。畑仕事は男子、掃除は女子、水汲みはロージーと決まっている以上、アデラは掃除をするしかないのだ。
今日アデラが言い渡されたのは、エントランスの掃除だ。薄暗いその場所を、アデラはちょっと箒で掃いては休憩し、またちょっと掃いては休憩していた。
この私が掃除だなんて。
誰か知り合いにでも見られたら堪ったものではないと、アデラはいつでも身を隠せるようにチラチラと入り口を注目していた。とはいえ、こんな早朝に孤児院を訪れるものなどいるはずもなく――。
「アデラ、おはよう」
「――っ!」
突然後ろから声をかけられ、アデラはその場で飛び上がった。
「な……」
振り返れば、そこにいたのは昨日初めて会ったばかりのルイスである。昨日とはまた違う装いで、ニコニコしながら立っている。
「どうして……」
ルイスがこの孤児院には住んでいないことは、昨日タバサから聞き及んでいた。ならばどこから入ってきたのか。
アデラの不信丸出しな目を、ルイスは難なく察し、口元を緩めた。
「食堂の窓から入ってきたんだよ。あそこ、いつも鍵が開いてるから」
「どうして入り口から入ってこないの?」
「子供達に捕まりたくなかったからね。……それよりも、さっきから見てたけど、ちゃんと掃除しなよ」
まるで説教するかのように見下ろしてくるルイス。アデラはそっぽを向いた。
「あなたには関係ないでしょ」
「関係あるよ。僕だって時々ここに遊びに来てるんだから、綺麗にしてもらわないと」
「あなたのために掃除してるわけじゃないわ」
「じゃあ誰のために?」
きょとんとした顔で尋ねられ、アデラは一瞬答えに窮する。が、返答など、考えなくても決まっていた。
「そ、それは……ロージーに言われたから、仕方なくやってるだけよ!」
「仕方なく? ここに住まわせてもらってる身で、掃除もしたくないって言うの?」
「ち、違っ!」
スカートをギュッと掴み、アデラはルイスを睨み付けた。
「私はっ、お母様に言われたからここにいるだけで、好きでここにいるわけじゃ――」
「でも、ここにいろって言われたんでしょ?」
何も言い返せず、アデラは下を向く。
「アデラ、人が生きるためには全部対価がいるんだよ。ベッドで寝かせてもらったり、食事を食べさせてもらったり。そういうことには、全部対価が必要だ。君はお金を持っていない。だったら、君がお金以外で払えるものは何?」
全く意味が分からなかった。
アデラが家で暮らしていた頃は、何をしなくともご飯は出てきたし、みんな自分を敬っていた。どうしてそれが、この孤児院では通用しないのか。
「ほら、君よりもずっと年下の小さな女の子達でも、頑張って掃除をしてる」
ルイスが指さした方から、丁度三人の少女がやってきた。それぞれ手には箒とちりとりを持っていて、彼女たちの服は、一生懸命掃除をしたのだろう、所々汚れている。
「あっ、ルイスー!」
少女達は、パッと顔に喜色を浮かべると、道具を放り出して駆けてきた。そしてそれぞれ思い思いにルイスに抱きつく。服が汚れるのも厭わずに、ルイスは三人とも両腕に抱き留めた。
「それに比べて君は? ただ駄々をこねてるだけじゃないか」
顔を真っ赤にして、アデラはルイスの靴をねめつける。
――少女達に対しては、甘い声で優しくするくせに、私に対しては。
別に、優しくされたいだなんて思ってない。ただ、悔しかっただけだ。今までは蝶よ花よと育てられてきた自分が、こんな屈辱を受けるだなんて。
「〜〜っ、うるさいっ!」
力任せに怒鳴ると、アデラはルイスに箒を押しつけ、足音も荒々しく寝室は走って行った。逃げ帰ることしかできない自分が恥ずかしくて仕方がないが、今のアデラには、どうすることもできないのだ。
自分のベッドまで行くと、頭から毛布を被った。この狭くて窮屈な孤児院では、一人になれる場所など存在しない。どこに行っても子供達がやってくるし、タバサが見つけに来る。放っておいてと叫んでも、彼らは全く聞き入れる様子もない。
――もう、こんなところ嫌。
会ったばかりの男の子には嫌味を言われるし、ロージーは冷たいし、子供達はうるさいし、院長は過保護。
家が懐かしかった。静かで、全てが私のしたいようになって、お母様もちゃんと帰ってきてくれる、そんな場所――。
「あれ、もう寝ちゃったの?」
その声に、アデラの身体が嫌でも反応する。
今は誰にも会いたくない。でも、院長でも子供達でも、ロージーでもこの際我慢する。だけど、彼だけは駄目だ!
「勝手に入ってこないでよ! ここは男子禁制よ!」
毛布をはためかせ、アデラは顔だけ出して叫んだ。ルイスの小憎たらしいきょとんとした顔が目に飛び込んでくる。
「え、そうなの? そんな規則聞いたことないけどなあ」
わざとらしい言い方に、アデラは下唇を噛むばかりだ。アデラが何も言い返せないのをいいことに、ルイスはどんどん寝室の中に入ってくる。
「でもいいの? 君の朝食持ってきてあげたんだけど」
ルイスは持っていたトレイを胸の前まで掲げた。スープの良い匂いに、ゴクリとアデラは生唾を飲み込む。
「いらないの?」
「…………」
怪しい。
仕事をしなければ朝食はなしだとロージーに散々言われていたアデラは、正直警戒していた。大した仕事もしていない自分が、そう易々と朝食にありつけるわけ――。
「君がいらないって言うのなら、じゃあ遠慮なく」
ルイスは近くのベッドに腰掛けると、躊躇いもなくパンをちぎって食べ始めた。あまりの暴挙にアデラは呆然とその様を見つめるだけだったが、やがてベッドから飛び出した。
「何するのよ! 私の朝食でしょ、それ!」
「君が欲しいって言わないから。それに、仕事もしてない人にあげられるご飯はないからね」
「あなただって何もしてないじゃない! ここに住んでるわけでもないのに!」
アデラに喧嘩を売るばかりで、彼だって今日は何もしてないはずだ。
息巻いてアデラはそう責め立てるが、対するルイスはケロッとしている。
「失敬だな。僕は昨日院長先生に頼まれた除虫作業したからね。夕食も食べていいって言われたよ」
「なっ」
「それに、僕はここに来る度に何か仕事してるんだよ。だから、ここに住んでるくせに何も仕事をしてない君よりは、よっぽどご飯を食べる資格があるって訳」
スープを飲み干し、ルイスが次に手を伸ばしたのは艶々と光る赤い実だ。
「綺麗な色だね、このトマト。知ってる? 孤児院で出される野菜は、全部裏の畑で自給自足してるんだ。男の子達が、毎日雑草を取ったり、水やりしたりして」
「…………」
「おいしいね、このトマト」
顔を綻ばせながら嬉しそうにトマトを口に放り込むルイス。
次々にアデラの朝食がルイスによって食べ尽くされていくその光景が恨めしくて小憎たらしくて、アデラの鼻には皺が寄る。
「あ、僕もう帰らないと」
朝食を全て食べ終わると、ルイスは満足そうな顔を上げた。窓とアデラとを交互に見ると、彼はアデラに微笑みかけた。
「じゃあ悪いけどアデラ。このトレイ食堂に返してきてくれない?」
「え?」
「悪いねえ」
「ちょっと!」
混乱しているアデラにトレイを押しつけると、ルイスは窓に近寄り、鍵を開けた。軋む窓を全開にすると、窓枠に足をかけ、一旦振り返る。
「じゃあまたね」
「ちょっ……」
アデラが文句を言うよりも早く、ルイスはそのまま窓から出て行ってしまった。生暖かい風が窓から侵入し、アデラはぶるりと身を震わせる。
――どうして私がこんな小間使いのようなことをしないといけないの。私の朝食を食べたくせに、後片付けまで押しつけていって!
だが、文句を言うべき相手は、もうとっくの昔に出て行ってしまった。不完全燃焼なこの思いの行き場はどこにもなく、アデラは仕方なしにトレイを持って食堂に行くしかなかった。
後片付けを私に押しつけて帰ったのよ、私の朝食も勝手に食べて、とせめて院長に言いつけるつもりだった。
「アデラ」
食堂に入って早々、タバサに迎え入れられたアデラは、トレイを大きく掲げた。
「あの人、あのルイスって人が――」
「ご苦労様。このトレイは私が預かるわね。さあさ、朝食は用意してありますからね。アデラも早くお食べなさい」
「えっ……」
トレイを回収すると、タバサはすぐにキッチンの方へ姿を消す。アデラは拍子抜けする思いで食堂を見渡す。
子供達は皆食事を食べ終え、各々自由時間を過ごしているようだが、長いテーブルの上に、一つだけまだ手のつけられていない朝食があった。そこは、孤児院に来てからずっとアデラの席だった場所だ。
「私の朝食?」
混乱したが、アデラは深くものを考えることなく席に着き、スープに手をつけた。
「……おいしい」
ちょっと冷めてはいるが、それでもお腹の中までじんわりと暖かくなる優しい味だ。夢中になって食べていると、目の端に赤い色が移った。野菜は苦手だが、アデラはそっとその赤い実に手を伸ばす。
――トマトもおいしかった。