第一章 孤児院

07:もう毛虫は嫌よ


 孤児院には、毎日院長先生による読み聞かせがある。時々彼女の代わりに違う職員が読み聞かせをすることがあっても、その予定が変わることはない。
 アデラは、その時間、いつも孤児院内をウロウロしたり、庭を散歩したりしていた。――読み聞かせなんて柄じゃないからである。
 食堂のテーブルを隅に片し、タバサを中心に、皆が円になって読み聞かせを聞く。そしてその中の一人に、自分も入ると。そんな光景を想像するだけで鳥肌が立つアデラである。

 ――そもそも、もう読み聞かせなんて歳じゃない。もしもお母様が本を読んでくれるというのなら、それはもちろん喜んで聞きたいが、しかし誰が他人の読み聞かせなんて聞きたいものか。

 先日の水浴びにて、少しだけアデラが親近感を抱いたロージーだが、彼女も読み聞かせには参加していた。隅で静かに読書をしているだけなのだが、確かに参加しているのだ。読書をしたいのなら、寝室で一人で読めばいいというのに、皆のいる空間が心地いいのか、かたくなに食堂から動こうとしない彼女。アデラは、一人プンプンしながら、いつも孤児院内を歩き回っていた。

 そして今日も、行く当てもなくアデラは歩き回る。寝室に戻って昼寝をしてもいいのだが、一度、自分よりも年下の男の子に、昼寝していたことをからかわれてからは、絶対に昼寝はしなくなった。アデラにも、矜恃というものがあるのだ。
 孤児院内の探索に飽きたアデラは、やがて庭に出た。庭といえば、初めて孤児院に来たときに遭遇した毛虫のせいで、嫌な思い出しかないが、しかし、あの大木に寄りさえしなければ、なかなか素敵な庭なのだ。

 アデラの家の大きな庭園やバラ園と比較すると、途端に霞んでしまうが、それでも一般的に見れば、大きくて整えられた庭だろう。心地の良い草原に、適度に多い茂った木々。たくさんの幹があり、葉も切りそろえられてある木々は、やんちゃな男の子達のお気に入りらしく、よく木登りをしている様が見られた。

 門から入って、孤児院の入り口へと続く道の両端には、ちょっとした花も植えられている。初めて来たときはそれどころではなかったが、毎日過ごすうちに、可愛いなあと思ったことは一度や二度ではない。

 一体誰がここまで整備しているんだろうか。それとも、孤児院の皆で?

 歩きながらアデラが考え込んでいると、彼女の足はいつの間にか、以前のあの場所へと向かっていた。気づいたときにはもう遅く、顔をげんなりさせて身を翻そうとしたアデラだが、ふと、大きな木の前に、無防備に立っている少年に気が付いた。アデラよりもいくつか年上だろうか。大人びた横顔で大木を見つめていた。
 つい先日、アデラはそこで毛虫に襲われたばかりである。あの時のおぞましさを考えると今でもぞっとする。
 アデラは鳥肌が立つ腕を抱えたまま、しばらくそこで少年の様子を見ていたが、彼は一向に立ち退こうとしない。それどころか、大木に近づこうとさえする。

「――ちょっと、危ないじゃない! そこには毛虫がいるのよ!」

 思わずアデラは叫んだ。普通に声をかけるだけで良かったのだが、急がなくちゃと思うあまり、つい声がとげとげしくなってしまうのだ。
 アデラの声に、少年はきょとんとした顔で振り返った。アデラをその瞳に映すと、ゆっくり微笑んだ。

「知ってるよ。でも大丈夫。僕はその毛虫を退治しに来ただけだし」
「退治? どうやって」

 聞きながら、アデラはこの子が誰なのか考え始めていた。
 孤児院の子供達は、今頃皆食堂で読み聞かせをしてもらっているはずだから、ここの子供ではないのだろう。それに、孤児院の子供にしては、身なりは良いように見えた。悔しいが、どことなく品の良さを感じる佇まいと物腰に、気圧されたといっても過言ではない。

「薬をまくんだよ。危ないから離れておいてくれる?」
「…………」

 無言のまま、アデラは一歩下がった。毛虫をこの目で見るのは嫌だが、どんな風に退治をするのか興味があったのも事実だ。
 しかし、それでも少年は困ったように笑う。

「風で薬を吸い込んでも危ないから。できれば中に入ってくれると有り難いけど」

 まだ注文をつけるのか、とアデラは思ったが、何かあっても困る。ムスッとしたままきびすを返し、孤児院の中へ入っていった。
 シンとした建物の中から、タバサのゆっくりとした声が聞こえてくる。この様子だと、読み聞かせが終わるのは一体いつになることだろうとアデラはため息をつく。
 孤児院を探検するのは飽きたし、庭を散歩しようと思ったら、変な男の子がいるし。
 全く今日は散々な一日だなあとアデラは嘆息した。今まで自由に生きてきた彼女は、自分の計画が崩れるのが嫌で堪らないのだ。
 エントランス前の小さな椅子に腰掛け、足をブラブラさせていると、扉を押し開け、先ほどの少年が入ってきた。

「終わったよ」
「もう毛虫は出ないの?」
「いつかはまた出ると思うけど、しばらくは大丈夫なんじゃないかな」

 なんとも適当な返事である。しばらくと言われても、全く安心のできないアデラは、今後一生あの木には近寄らないと心に誓った。
 そして同時に、目の前の少年に目を走らせる。
 何度考えても、ちぐはぐな男の子だ。この孤児院の子供ではないくせに、どうして虫退治をしてくれるのか。
 ――もしかして、使用人の子供なのだろうか。
 そう考えれば、全て合点がいく。多少身なりがいいのも、給金をもらっているからだろう。
 この孤児院には、院長先生か、食事を作るためにやってくる通いの職員数名ほどしか大人はいない。そんな中、子供の使用人というのも珍しかった。他にも何人かいるのだろうかとアデラが思考を飛ばしかけたとき、少年が近寄ってきた。

「君は? 見ない顔だね。新しく入った子?」

 ――新しく入った子。
 その言葉にアデラは苦い顔になったが、応えないわけにもきかず、渋々頷いた。

「……アデラよ」
「僕はルイス。これからよろしくね」

 そう言って、彼は自然な形で右手を差し出した。アデラはその手を握ることなく、暗い面持ちで見返す。

「私はここに預けられてるだけで、またすぐにお母様が迎えに来てくれるもの。そんなに長い間いるつもりはないわ」
「そっか。じゃあそれまで精一杯ここでの生活を楽しまなくちゃね。一気にこんなにたくさんの兄弟ができるなんて、早々味わえない経験だよ」
「兄弟なんかいらない」

 ――私には、お母様だけでいい。
 アデラが短く突っぱねれば、ルイスは目を瞬かせて彼女を見返した。
 沈黙に耐えきれず、アデラが立ち上がろうとしたとき、どこからともなく嬉しそうな声が響き渡る。

「まあまあ、ルイス。来てくれたのね!」

 タバサの朗らかな声と共に、子供達が歓声を上げてアデラ達の元へやってきた。彼らはすぐにルイスの足下に群がると、彼に抱っこをねだるため、我先にと手を伸ばす。
 ルイスは一人一人順々に抱えながら、タバサを見て微笑んだ。

「院長先生、先ほど除虫作業が終わりましたよ。一、二日はまだ薬が残ってるかもしれないので、子供達には近づかせないようお願いします。それ以降は遊んでも大丈夫ですよ」
「本当にありがとう。まだ手紙を送って数日だっていうのに、こんなに早く来てくれて助かったわ」
「いえ、院長先生には随分お世話になりましたから」

 穏やかに会話をする間にも、ルイスは子供達を抱っこする手は止めない。

「そうそう、紹介が遅れたわね」

 ポンと手を叩くと、タバサはいそいそとアデラの元へ歩み寄り、彼女の肩に手を置いた。

「ルイス、手紙でも簡単に伝えたけど、この子がアデラよ。最近この孤児院に入ってきた子なの」
「ああ、先ほど少し話してたんです」

 確認するようにルイスは微笑んでアデラを見たが、彼女はすぐにふいっと横を向く。ルイスはそのことにきょとんとしたが、気を取り直してタバサに向き直った。

「院長先生が子供達に読み聞かせをしている間に除虫をしようと思っていたので、どうして彼女が庭にいたのか不思議ではあったんですけど」
「えっと……それはね」
「――お姉ちゃん、抱っこして」

 院長にルイスを盗られてしまい、抱っこしてもらえなくなった少女が一人、アデラの元へやってきた。椅子に座っている彼女の膝に手を置き、アデラを見上げる。

「抱っこ」
「嫌よ。どうして私がそんなことしないといけないの?」

 だが、対するアデラは同然のようにすげなく断った。
 ――重たいものなんて持ちたくないし、汚れたくもないのにどうして私が。
 抱っこと一言言えば、相手がすぐに抱き上げてくれる。
 それを信じて疑わない少女の目が、アデラは憎たらしくて仕方がなかった。
 ふんとアデラがそっぽを向けば、少女の瞳には、次第に涙が堪っていく。ついには嗚咽を漏らし始めたとき、金縛りが解けたタバサが、慌てて彼女に駆け寄った。

「まあまあコニー、そんなに泣かないの。代わりに私が抱っこしてあげるわ」

 軽々とコニーを持ち上げ、ついで彼女の背中を優しく撫でるタバサ。
 居づらくなって、アデラはさっとその場から退散した。コニーをあやしながらタバサはその後ろ姿を見送る。そっとため息をついたのを見て、ルイスはタバサに近寄った。

「彼女、いつもああなんですか?」
「……まあ、そうね」

 はっきり肯定するのも忍ばれたが、しかし取り繕うこともできず、タバサは躊躇いがちに頷いた。

「――彼女、ね。あんまり詳しくは分からないんだけれど、上流階級らしいお母様から預かったの。生活を苦にして、いつかアデラを迎えに来るとおっしゃって、ここに。でも、アデラはなかなかここに馴染めないみたいで、少し心配なのよ」
「上流階級、ですか」

 ふと呟き、ルイスはアデラが去って行った方向を見つめる。

「その方、もう彼女をここに迎えに来ることはないのでは?」
「滅多なこと言わないで」

 タバサはピシャリと言い切った。

「あの子、お母様との約束をすごく大切にしてるのよ。だからそんこなとアデラの前で言わないで。それに、きっとお母様だって迎えに来てくれるわ」
「……そう約束したきり、二度とここに現れなかった親はどれだけいるんでしょうね」

 思わずそう嘆息するルイス。タバサは彼の低い声が聞こえなかったわけではないが、肯定も否定もしなかった。

「コニー、寝ちゃったみたいだから、寝室に連れて行くわね」

 泣き疲れたのだろうコニー抱え、タバサはゆっくり寝室へと歩いて行った。残ったルイスは、遊んで遊んでとせがむ子供達の相手をしながら、しかし頭では全く別のことを考えていた。
 ――この孤児院には、親などいない子供がほとんどだ。親を病気で亡くした子供、まるで捨てるかのように門の前に黙って置いていかれる子供、両親から預けられた子供――。
 わずかにいる親によって預けられた子供は、結局どんなに待ち望んでも、迎えに来ることなどほとんどなかった。もし天地がひっくり返って、親が子供を迎えに来たとしても、それは利用価値があってこそだ。純粋な理由なくして、一度手放した子供を迎えに来る親なんていない。そんなことをするくらいなら、手放す前に可能な限りもがくはずだし、それができなくとも、何年も放ったらかしにするわけがない。この孤児院には、もう何年も親の顔を見ていない子供なんて、ざらにいるのだ。

 結局、期待するだけ無駄だ。
 どんなに信じたくなくとも、結局は裏切られることになるのだから。

 ルイスは再び駆けていったアデラの方向に視線を走らせると、口をきゅっと結んだ。