第一章 孤児院
06:あり得ないわ
朝起きると、いつもよりも孤児院は騒がしかった。いつもならばロージーの甲高い声で怒られるのだが、今日は同じ部屋の子供達の声で起こされた。起きたくないとアデラが駄々をこねれば、ロージーはいつも手を出してくるので、今日の朝はまだ目覚めがいい方だった。
子供達は、賑やかに話をしながら、身支度を整えていた。。小さい女の子の髪を梳いていたロージーと目が合ったが、すぐに逸らされる。
特に何も言われないということは、今日は仕事はしなくていいのだろうか。
すぐに上機嫌になって、アデラはまた寝台に身体を預けた。まだまだ眠たいので、朝食まで優雅に二度目を決め込むつもりだったのだ。
だが、軽く瞼を閉じたところで、優しく揺り起こされる。この起こし方はロージーではないな、とアデラは渋々目を開けた。
「アデラ、今日は外に出かけましょう」
そうして目に入る、タバサの優しい微笑み。
「外? どうして? 何しに行くの?」
「みんなでお洗濯しに行くのよ」
「洗濯?」
アデラの顔が一気にげんなりする。使用人がするようなことを、どうして私がしないといけないのよ、と。
「そうよ」
しかし、アデラのそんな心境などさっぱり理解してくれないタバサは、鷹揚に頷いて見せた。
「アデラのその服だって、とても素敵だと思うわ。でも、毎日着ていたら汚れちゃうでしょう?」
「…………」
彼女の言うことも一理あるかと、アデラは不満げに言い返しはしなかった。
孤児院には、アデラは自分が所持しているドレスの三分の一も持ってくることができなかった。現在一週間ほどこの孤児院に滞在しているが、孤児院自体綺麗な場所ではないため、ドレスが汚れるのが嫌で、アデラは同じドレスを毎日着ていた。それに加え、毎日多少なりとも仕事もしているので、普通に過ごす以上に汚れてしまうのだ。
今日も、食堂で隣の席の男の子にスープを飛ばされ、ドレスにシミが残ってしまった。アデラはそのことが不満でならなかったので、このシミがなくなるというのであれば、多少の労働くらい許容してもいいのかもしれないと思い直していた。
「ほら、アデラも行きましょう。今日はいいお天気よ」
柔和な笑みに絆され、アデラは渋々身支度を始めた。とはいっても、ドレスに着替え、適当に髪を梳かすだけだ。孤児院に来たばかりの時は、自分で着替えることすら時間がかかったものだが、最近ではドレスの胸元を整える余裕まであるのだから、多少の適応能力はあるのだ。
皆で軽めの朝食をとった後、一行は早速外へ出かけた。
孤児院に来て初めての外出に、アデラが少しだけ興奮していたというのも事実である。子供達が二列になって隣の者と手を繋いで歩く中、一人アデラが遅れてついていっていたとしても、高揚していることに違いはない。そもそも、手を繋ぐことを拒否したのはアデラ自身で、遅れて歩いているのもわざとである。孤児院の子供なんかと同列に見られたくはなかったし、はな垂れの子供と手だって繋ぎたくなかったのだ。
代わりに、アデラは風景を見ながら楽しんで歩いた。市場に売り子に煙突に草原。場面は次から次へと変化した。町中から草原へと風景が変わったときは、アデラも内心ホッと息をついたものだ。――二列になって騒がしく歩いて行くみすぼらしい子供達の姿に、皆の視線が集まっていることは、痛いほど分かっていたのだから。
どこへ向かっているんだろうと、アデラがそんな風に思い始めたとき、列の歩みは止まった。見晴らしの良い丘の近くである。近くには小さな森もあって、春の暖かな日差しを感じるにはもってこいの場所だった。
「じゃあ洗濯を始めるわよ。皆さん、洗濯したいものをもって川へ入りましょうね」
子供達は返事をしながら各自荷物を下ろす。彼らの様子を見て、アデラは自分のシーツを忘れたことに気がついたが、すぐにまあいいかと思い直した。毎朝メイドが寝台を整えていたのだから、忘れるのは仕方がなかったし、少々埃っぽいシーツだとはいえ、自分で洗うことを考えると、今のままでいいかとも思ったのだ。
アデラは、荷物を下ろし、くたくたになってしまった己のドレスを取り出した。たった一週間とはいえ、昼夜を問わず孤児院で過ごしたこのドレスは、あちこちに染みもついているし、薄汚いし、変な臭いもするしで散々な有様だった。自分で洗わなければならないのは非常に不服だが、他の気に入りのドレスを普段着として着るわけにも行かず、アデラは渋々ドレスを胸に抱え、丘を降りていった。
丘の下の浅い川では、子供達の声で溢れていた。楽しそうね、とアデラが思ったのも束の間、彼女は一瞬にして身体を硬直させた。
「な……どうして」
唇が震える。
どうして、子供達皆裸なのか。
アデラは険しい形相で辺りを見回すと、すぐにタバサの元へ駆けていった。彼女は川から少し離れた場所で子供達のことを嬉しそうに眺めていたが、アデラはそんなこと構いもせず彼女のスカートの裾を引っ張る。
「どうして皆裸なの!? はしたない!」
「はしたない?」
アデラの必死の言葉に対し、タバサはきょとんと聞き返した。
「お洗濯ついでに水浴びもできていいでしょう? ほら、アデラも遠慮せず行ってきていいのよ」
「行くわけないでしょ!」
ドレスをギュッと握りしめ、アデラは叫んだ。
あり得ない。男の子ならまだしも、女の子が人前で裸になるなんて。
もしそんなことをしたと母に知られたら、呆れるどころか失望されて、もう二度と迎えに来てくれなくなるかもしれない。
アデラは血相を変えると、そのままバタバタと丘の上へ駆けていった。
今日の洗濯は無しである。川下は汚いだろうから、川上でなら洗濯をしてもいいような気がするが、すぐ傍らには裸の少年少女がいるのだ。いくら年下とはいえ、男の子の裸なんか見たくもなく、アデラは眉根をつり上げて丘まで戻った。
どうして私がこんな目に。
そう思わずにはいられない。ただ洗濯をしたかっただけなのに、男女の別なく裸で遊び回る馬鹿がどこにいるのか。
しかし、一人丘まで戻ってはみたものの、辺りには誰もいない。皆荷物を放り出して、川で遊んでいるのだ。
孤児院へ来て初めて一人きりのこの状況に、アデラは少々寂しいような気すら思えた。すぐに気のせいだと頭を振ったものの、底から忍び寄ってくるもの寂しさには適わない。
アデラは、気を取り直して森へ行ってみることにした。春の陽光も気持ちはいいが、木々の生い茂る場所も涼しそうだと思ったのだ。
しかし、次第に森へ近づくにつれ、端の木の根元に、誰かが座っているのが目に入った。目を細めて近づいてみれば、なんてことはない、ただのロージーだった。
彼女は、微かな春風に吹かれながら、静かに読書をしていた。
いつもはギャーギャーうるさい彼女だが、今だけは、まるで絵本の挿絵のようだとアデラは感じた。
初めて遠いところまで外出したという高揚感も相まってだろう、アデラは無意識のうちに彼女に近づいていった。
「あなたは行かないの?」
そうして小さく声をかける。いつものアデラならば、絶対にしない行動である。
ロージーは、目を瞬かせてアデラを見上げたが、すぐにまた本に目を落とした。
「この年で裸になれるわけないでしょ」
いくら小さい子供しかいないからって、とロージーはブツブツ言う。アデラは少しだけ親近感を抱いた。
「そうよね。裸なんてなれるわけないわ」
口角を上げて、アデラは更に近づいた。ロージーが腰掛けている幹の裏側に、同じく腰を下ろす。
「何の本を読んでるの?」
「この国の歴史についての本よ」
「ふーん」
歴史と聞いた瞬間、アデラは興味を失った。もとよりあまり興味はなく、単に世間話のつもりで始めたのだが、思った以上につまらなさそうだったため、一層興味を失った。
アデラはぼうっと空を見上げた。ほとんど雲もない、快晴が広がっている。早速感じる退屈さに、アデラは聞かずにはいられなかった。
「いつまでここにいるの?」
「大体は夕方くらいまでね。水浴びして洗濯をして、そして服を乾かしている間に、遊び疲れた子供達をここで昼寝させるの」
「長くなりそうね」
アデラは嘆息した。洗濯もできないうえに、夕方までここにいるなんて。
アデラのそんな心境を察したのか、ロージーはふと本から顔を上げた。
「あたしは、子供達が寝た後に水浴びするようにしてる」
「えっ」
アデラは反射的に嫌そうな声を上げた。子供達に裸を見られないのは嬉しいが、結局外で裸になる事実は変わっていないからだ。
「あたしだって少しは抵抗あるわよ。でも、ずっと水浴びしなかったら気持ち悪いし。あんたもそうしておいた方がいいわよ。次またいつ来れるか分からないもの」
「そ、そうね……」
一応は頷いたものの、それでもアデラの嫌そうな顔は変わらない。
どうにか、裸にならないで水浴びできる方法はないものか。
そうこねくり返して思考するものの、アデラの頭では良い案は浮かばない。
結局洗濯と水浴びをする時間になると、アデラはドレスを着たまま身体を洗うこととなった。近くにはロージーしかいないということは分かっていても、やはりどうしても外で肌を見せる気にはならなかったのである。