第三章 伯爵邸
53:意外な一面ね
ルイスの屋敷では、アデラは彼の部屋で日がな一日を過ごした。話し相手がいるわけでもなし、裁縫道具があるわけでもなし、できることといえば、読書くらいしかないのだ。
とはいえ、ルイスの所有する本は小難しかった。半分以上が歴史やら外国の文化やら何かの論文やらで、開いてみようともしなかった。
とすると、アデラの興味を惹くものといったら、申し訳程度に置かれた小説くらいしかない。その小説も、アデラの好むような類いのものではなく、眠たくなるような推理小説や堅苦しい歴史小説ばかりだった。ソファに腰掛け、小説を読み進めては、根を上げて居眠りし、また起きて読んでは、諦めて居眠りしの繰り返しだった。
もはや完全に降参して昼寝一択を決め込んでいたところ、何かの物音でアデラは目を覚ました。昼寝をしすぎて、眠りが浅かったのもある。靄がかかったような頭の中で、複数の足音が次第にこちらに近づいてくるのを察知した。ぼんやりとした意識が覚醒するのは早かった。
ハッとして飛び起きると、何の理由もなくアデラはキョロキョロする。その行動に意味はなく、ただ足音がやってくるまでの時間を浪費したに過ぎず、アデラは焦った。ルイスと、もう一人の話し声が聞こえる程の距離だった。大した行動を起こす余裕もなく、ガチャリとドアノブが回った。
間違いなく、今この部屋に危機が訪れていた。そこからのアデラは早かった。小部屋まで移動する時間無しと見切りをつけて、脱兎の如くソファの裏に蹲った。
見られてはいけない、と反射的に思ったのだ。アデラは居候の身。ジェラルドや使用人ならまだしも、それ以外の知り合いであれば、どうしてこんな所にいるのかと聞かれることは想像に容易い。
「――だから、書斎で話しましょう」
「構わん。またすぐ出る。それまでの間だ」
入ってきたのは、ルイスと、壮年とみられる男性の声だった。二人はツカツカと部屋の中央まで進み出、それぞれ対面するソファに腰を下ろした。
「また孤児院に行ったらしいな」
座って早々、男性がそう発した。
どうやら、アデラ側のソファに座ったのはルイスではないようだ。アデラは少し焦った。どうか彼が、突然ソファの裏を見るなどという奇行をしませんように。
「いい加減立場を自覚しろ。孤児院なんかに行って何になる」
「あなたに迷惑はかけていませんが」
ルイスの返事はつれなかった。いつもとは打って変わって雰囲気が違う。
「このことが世間に露呈したらどうする」
「そんなヘマはしませんよ」
「現に私には気づかれただろう」
「それは、わざわざあなたがコソコソと嗅ぎ回るからでしょう」
仮にも父親に向かってなんて物言いだろう。
アデラは一人ソファの後ろでビクビクしていた。
「お前は一体何が望みなんだ?」
男性は疲れたように問いかけた。
「聞かなければ僕の願いも分からないんですか?」
ルイスの声は失望していた。
「僕はずっと行動で示してきたつもりですが」
「それが叶えられないからこうして話し合いの場を設けているんだろう」
何か別の望みは、と男性は言外に匂わせていたが、ルイスがそれ以上口を開くことはなかった。
やがて、痺れを切らした男性が徐に立ち上がった。ルイスに何か言葉をかけるでもなく、黙って部屋を出て行く。
男性の足音が遠ざかってもなお、アデラはその場からピクリとも動かなかった。ここに自分がいることを、彼には気づかれたくなかった。アデラとて、今の父息子の会話がとても私的なないようだということは理解している。もしアデラが彼の立場なら、絶対に知り合いに聞かれたくない話だっただろう。
早く出て行ってくれれば。
必死にそう祈っていたアデラだが、やがて徐に立ち上がったルイスにひょこっとソファの上から覗き込まれ、終わりを悟った。
「あ、あの、誤解しないでね? 私盗み聞きしようとしていた訳じゃないのよ。ここで本を読んでいたら、急にあなた達が近づいてきたから……」
これが証拠よ、とアデラはポンポンと分厚い本を叩いた。ルイスは困ったように首を傾けた。
「分かってるよ。別に気にしてないし。こっちこそ急に入ってきてごめんね。体勢きつかったでしょ?」
「……私は大丈夫よ」
目を逸らしながらアデラは起き上がった。ルイスの方がよっぽど大丈夫じゃないと思った。
「でも、アデラが推理小説に興味を示すとは思わなかったな」
「これが一番マシだったのよ」
あからさまな話題転換だったが、アデラは気にしなかった。
「全部読んだの?」
「まさか。二章も終わってないわ」
「じゃあまだ事件すら始まってないんじゃないの?」
「そもそも登場人物が多すぎて把握しきれないわ」
ルイスはクスクス笑った。上機嫌なその様子からは、先ほどの父親に対する冷淡な対応は欠片も見つからない。
「僕は宿題でもするから、また読書の続きでもしててよ」
それともお昼寝かな、とルイスは悪戯っぽくアデラを見た。彼の視線は、アデラの皺だらけのドレスを見据えていた。
*****
夕食を食べた後、アデラは客室へと移動した。ルイスの部屋よりは小さいが、それでも充分広い部屋だ。
ルイスのベッドは優に子供三人は横になれそうなくらい広いが、さすがに同じベッドという訳にはいかず、ルイスの右隣の部屋をあてがわれたのだ。
今日は一日中ゴロゴロしていたわけだったが、慣れない読書で疲労も感じていた。早速柔らかそうなベッドに倒れ込みたい所だが、しかし、アデラは着替えの必要性を感じていた。今日明日とここに泊まるのだから、さすがにずっと同じドレスというのはいただけない。アデラは家から着替えを持ってきていなかったが、小部屋に古着ならふんだんにあった。小部屋にあるのは、成長し、ほとんど着られなくなってしまったドレスばかりだが、外着として着られないだけであって、家で着る分には充分である。――とアデラはそう決断し、ルイスの部屋をノックした。
「入ってもいい?」
「アデラ? どうぞ」
ルイスは本棚の前に立っていた。一冊の本を手に振り返る。
「どうしたの? お腹空いた?」
「私をなんだと思ってるの」
まるで子供に対するような質問に、アデラは頬を膨らませた。
「ちょっとこっちの部屋に用があって」
言いながら、アデラはさっさと小部屋に移動した。慣れた手つきでタンスを探り、一着の寝間着を手に取る。宙に広げてみれば、少し小さいかもしれないが、充分着られる大きさに見えた。寝間着を胸に抱え、アデラはまたルイスの部屋に移動した。
「ねえ」
ルイスはまだ本棚の前にいた。ページをめくり、軽く流し読みしている彼に向かって、アデラは背中を突き出した。
「寝間着に着替えたいの。ファスナー下げてくれる?」
「えっ、僕が?」
「ええ」
「いや……あの、メイド呼んでくるから、着替え手伝ってもらって」
「着替えくらい一人でできるわ」
私のことを一体何歳だと思っているのか、とアデラは少々腹を立てた。エリックもルイスも、メイドメイドと、たかがファスナーを下げるだけなのに、どうしてこうも見当違いのことを言い出すのかアデラはさっぱり分からなかった。
「君は――ああ、もう、今日だけだからね。本来はこういうことはいけないんだからね」
「はいはーい」
間延びした返事を返し、アデラは相変わらずうるさい小言を聞き流した。ファスナーが下まで下げられ、背中が少しひんやりとする。アデラはお礼を言って、軽い足取りで扉へ向かった。
「あっ、ちょっ、そのまま部屋出るの!?」
「ええ。駄目なの?」
「いや……外に誰がいるかも分からないのに、そんな格好で」
「そんな格好って」
おかしくなってアデラは最後まで言えなかった。別に裸でいるわけでもあるまいし、とお休みの挨拶をした後、また客室に戻った。
鍵を閉めた後は、ベッドの上に寝間着を置き、着替え始めた。短い袖口から腕を抜き、ストンと地面に落とす。足を抜いて、頭から一気に寝間着を被った。しばらくゴソゴソして、両腕を通す。皺を伸ばすように寝間着をなでつけながら、アデラは自分の様相を見下ろした。
アデラの身体を優しく包んでいるのは、淡い色合いの、薄手のネグリジェだ。胸元や裾にレースが施されていて、可愛くて気に入っていたのだが、小さくなってそのうち着なくなってしまった代物。あれから更に身長が伸びたので、ワンピース調の裾は膝が少し隠れる程度だ。元はくるぶしまであったので、そう考えると、アデラも随分成長したものだ。
着替えに納得すると、アデラはつい先ほど着ていたドレスをクローゼットに吊した。そうして寝る準備が全て整ったので、勢いよくベッドに飛び込んだ。
柔らかいベッドに、肌触りの良いシーツ。アデラはごろんと仰向けになった。
頭に浮かぶのは、盗み聞きする形になってしまった、今日のルイスとその父親の会話。あんなに品行方正で、真面目なルイスと、その父親はあまり仲が良いとは言えないようだった。完璧に見えるルイスにも、悩みがあるんだろうかと少し不思議な気がした。
全く眠たくないアデラの思考は、どんどん深みにはまっていく。
そういえば、母親はどうしたのだろう。何日かルイスの家に通って、ようやく今日父親の存在を認めた。だが、母親は? 一緒に暮らしているのだろうか? それにしては、姿が見えないような――。
母親、という単語で昨日のことを思い出し、アデラは嫌な顔になった。アデラはまだシェリルのことを許していなかった。それはそうだろう。幼いコニーにあんな言い方して良いとは思えない。コニーを盗人扱いし、アデラがあげたものだと説明しても、コニーが着てくること自体が恥ずかしいとのたまった。
お母様のことは、変わらず好き。でも今回のことはどうしても譲れない。腹が立ってるのに、でも嫌いになりたくはないから、何とか理由をつけてシェリルを悪者にしない理由を探してしまう。
そう、例えば、折角自分がプレゼントしたものが、他人に譲られているのを見て、気分を害したと。そう考えると、彼女のとった行動も自然じゃないだろうか。
――アデラの頭は、すっかり冴えていた。こんなに頭が目まぐるしく思考する状態では、きっとしばらく眠れるはずもない。
隣室からはまだ小さく物音が聞こえていた。まだルイスは起きているようだ。ゴロゴロ床を転がり、迷った挙げ句、アデラは身を起こす。そこからはもう早かった。アデラは駆け足で客室を飛び出した。