第三章 伯爵邸

52:ここしかないのよ


 何も考えずに家を飛び出したアデラは、当然行く宛がなかった。まだアトラリアに行く許可はもらえてないし、慈善学校は卒業してしまった。町中を彷徨い歩いた足は、無意識のうちにここ一年のうちに通い慣れたルイスの屋敷へと向かっていた。
 グレイディ家に移ってからも、ルイスの部屋の鍵はお守りのようにスカートのポケットに入れていたので、心底良かったと思った。
 屋敷の前で、アデラはずっとついてきてくれていたエリックに向き直った。

「ここまでで良いわ」
「良い……とは?」

 唐突な言葉に、エリックは目をぱちくりさせた。

「私今日は家に帰らない。だからエリックは先に帰ってて」
「なっ……泊まるおつもりですか? そもそもここはどなたのお屋敷なんですか?」
「知り合いよ。好きなときに使っても良いって言ってくれたの」
「お嬢様をお一人にはできません」
「でも、エリックも連れて行って良いか分からないもの。とりあえず今日は家に帰って。私のことを聞かれたら説明する人も必要でしょう?」

 グッとエリックは詰まった。アデラは念を押すように彼と目を合わせた。

「でも、とりあえずは私のことは何も言わないでおいて。聞かれるまでは絶対に秘密よ」
「……はい」

 エリックは、従順そうで意外とお転婆な少女のことに慣れてきていた。ここで押し問答していても、彼女が自分の意志を変えるとも思えず、頷くしかなかった。
 エリックの後ろ姿を見送り、アデラは屋敷へと足を進めた。
 久しぶりの訪れに、執事のジェラルドは驚いたように目を丸くしたが、アデラの荒んだ顔を見て、多くは聞かず、いつも通り黙って引き入れてくれた。

「夕食はお持ちしましょうか?」
「いいえ、大丈夫よ。ありがとう」

 食事する元気などない。アデラはすぐにルイスの部屋に引っ込んだ。いつも通り小部屋に直進し、疲れたように小さな椅子に腰を下ろす。
 今日は家に帰りたくない気分だった。激情のままにここまで来てしまったが、家を出たからには、しばらくは帰りたくない。要するに家出だ。アデラの頭にそんな単語はなかったが、傍から見れば家出か反抗期と捉える。しかし、当のアデラにとっては切実な問題である。――コニーにあんな言い方するなんて。
 町中を歩き回った身体は、ほどよい疲労を抱えていた。だらしがないとは分かっていても、アデラはぐでんと絨毯の上に横になる。小部屋には窓はないので、今がどのくらいの時間なのかはさっぱり分からなかった。ただ、動きたくないと思うくらいには眠気を感じているので、もう夜が近いはずだ。
 明日は何か食べ物をもらおう。そう思って、アデラは目を閉じる。固い床で眠れるかと思ったが、深く考える間もなく、アデラは眠りに落ちていった。


*****


 窓からの朝日もないのに、アデラが早起きできたのは、グレイディ家で規則正しい生活を余儀なくされていたからだろうか。それとも、人の気配を敏感に感じ取ったのか。
 むくりと起き上がり、アデラはまず猫のように大きく伸び上がった。身体のあちこちがカチコチだった。おまけにドレスのまま寝てしまったので、皺だらけだ。またパトリスに叱られるだろうなあと項垂れながら、せめてもの抵抗とドレスをなでつける。髪も簡単に整えると、アデラはしばらくぼうっとした。
 ――お腹が空いた。今は一体何時頃だろうと純粋に疑問に思った。せめて朝か夜かの判別だけでもしたくて、アデラは躊躇いもなく隣室に続く扉を開けた。
 ルイスの部屋は、眩しい朝日が差し込んでいた。いつもカーテンは開け放たれているので、それは当然だ。その朝日に照らされて、何者かが窓枠に手をかけて立っていた。その光景があまりに非現実的で――アデラはポカンとしてその場に立ち尽くす。彼の方も、まさか人がいるとは思っていなかったのか、じいっとアデラを見つめる。

「アデラ……?」

 不思議そうに目を丸くするのはルイス。珍しく寝間着姿である。寝癖もついている。いつも飄々としている姿しか見たことがなかったので新鮮だった。

「どうして、ここに?」
「ちょっと家に帰りたくなくて」
「えっと……ちょっと待って。いつからここにいたの?」
「昨日からよ。夕方ここに来て、その後ずっと寝てたの」
「そう……」

 低血圧なのか、ルイスは寝台に腰をかけ、頭に手を当てる。と思ったら、急に立ち上がった。

「隣の部屋で? ベッドなかったよね? ……いや、そこじゃないな」
「ルイスは今日ここに来たの?」
「いや、昨日の夜遅く。……うん、問題はそこだ」

 ルイスは再び寝台に腰掛けた。

「アデラ、一つ聞くけど、ここに来るまでに、使用人の誰かと会った?」
「特には……。ジェラルドさんなら会ったわ。いつも通り出迎えてくれたの」
「ジェラルドさんか……うん、まだマシかな。いや、良くはないけど」
「ここに来ちゃ駄目だった? ルイスは学院休みなの?」
「うん、夏季休暇で」

 短く答えつつ、ルイスは困ったように頭をかいた。

「いや……こういうことを想定してなかった僕も悪いけど」
「さっきからどうしたの? ブツブツと」
「いや、何でもない。それよりも久しぶりだね。一月ぶりくらい? お母さんに引き取られたって聞いて僕も嬉しかったよ。どう? 今の暮らしは」
「まずまずよ。毎日が勉強や行儀作法の授業ばかり」
「授業? お母さんは貴族の家に再婚したの?」
「ええ。家名はグレイディになったわ」
「グレイディ伯爵家か……」

 ルイスは思案するように黙ったが、結局何も言わなかった。

「そう言えば、家に帰りたくなかったって言ってたけど、何かあったの?」
「……別に」

 途端にアデラはぶっすーと頬を膨らませ、そっぽを向いた。何かありましたと言わんばかりの様子に、ルイスは苦笑いを浮かべるしかない。

「ま、アデラの年頃だったらいろいろあるよね。詮索はしないけど。朝食食べたら、馬車で送るよ」
「まだ帰らないわよ」
「えっ」

 何を言ってるのと言わんばかりにきょとんとするアデラに、そっちこそ何を言ってるんだときょとんとするルイス。
 先に我に返ったのはルイスの方だった。

「なっ――まだここに泊まるつもり?」
「まだって何よ。そりゃ押しかけて悪いとは思うけど、でもあなたの方じゃない。ここを好きなとき使っても良いって言ってくれたの」
「そう……だけどさ」
「一週間はここにいさせてもらいたいと思ってるんだけど」
「なっ――」

 盛大に爆弾を落とすアデラに、ルイスは一瞬気が遠くなった。何とか堪えて冷静になれと自分に言い聞かせる。

「さすがに一週間はちょっと……。お母さんも心配すると思うし」
「心配なんかしないわよ!」

 反射的に叫んだアデラだったが、すぐに我に返って口を押さえる。

「あっ――いえ、もちろん心配はすると思うわ。でも、喧嘩したばかりだし、すぐに家に帰ったら笑われるわ」
「そんなことないって。アデラみたいな子が家出なんて絶対に心配するよ」
「私みたいなってどういう意味よ」
「どういうって……」

 変なところに引っかかられ、ルイスは困り果てる。

「お母さんが大好きな子って意味?」
「別に大好きじゃないわ」
「アデラ……」

 それはそれは大きな喧嘩だったらしい。あのアデラにここまで言わしめるとは。

「すぐに帰りたくないっていう気持ちは分かるけど、お母さんの気持ちを考えると、あと一日。明日になったら家に帰ろう?」
「五日! まだ帰りたくないの。五日でお願い! もちろん、外出だってしないし、隣の部屋で大人しくしてるわ。我が儘だって言わないし」
「駄目だ。一日。アデラがいないことを知ったら皆心配して探し回るに決まってる。明日でも遅いくらいなのに」
「私がここにいることはエリックが知ってるわ! もし誰かに私のことを聞かれたら、ちゃんとうまく言ってくれる」

 思いがけない言葉に、ルイスは勢いを削がれた。

「うん……まあ、アデラの居場所を知ってる人がいるんならいいけど」
「五日!」
「二日。もうこれ以上は譲れない」
「三日!」
「二日間。今日と明日だけは泊まってもいい。でも明後日には家に帰るんだ」

 確定事項のようにしっかりした口調で締められ、アデラはこれ以上もう何も言うことはできなかった。不満げに唇を尖らせたが、居候の身というのはちゃんと理解しているので、文句など言えない。

「とりあえず、一旦着替えたいから、部屋に戻っててくれる?」

 大人しく頷き、アデラはまた小部屋に戻った。まさか人がいるとは思っていなかったので、アデラはもう一度念入りに身支度を調えた。だが、すぐに手持ち無沙汰になる。ルイスの着替えはなかなか終わらないようで、意味なくタンスを開けたり閉じたりしていた。やがてコンコンノックの音が聞こえた。

「朝食を持ってきたよ。一緒に食べよう」

 ルイスの声に、アデラは喜々として部屋を移動した。ルイスの部屋に足を踏み入れた瞬間、ふんわり漂ってくる良い香りに、アデラは自然と口角を上げていた。

「運良くできたてだった」

 悪戯っぽく笑い、ルイスは手早くテーブルの上に朝食を準備していった。アデラはお行儀良くソファに腰掛けた。軽やかに動くルイスを、同じく忙しなく視線を動かして見つめるアデラ。その様が、まるで待てをしている犬のようで、ルイスは小さく笑みを零した。

「さあ、どうぞ」
「いただきます」

 真正面に座り、二人は朝食を食べ始めた。しばらく夢中で食事をし、カチャカチャとカトラリーがかち合う音が響く。

「何だか……ホッとするわ」
「どうして?」

 思わず零れ出た小さな声にも、ルイスは律儀に反応した。アデラは咄嗟に答えあぐね、ナイフの手を止める。
 今まで食事と言えばグレイディに値踏みされるか、パトリスに監視されるかのどちらかだったので、そのどちらもいない食事となると、肩の荷が下り、安心して食べることができるのだ。とはいえ、それをわざわざルイスに説明するのは面倒だし、矜恃にも関わることだったので、アデラは曖昧に笑ってやり過ごした。
 朝食を終えると、ルイスは立ち上がった。

「僕の部屋は好きに使って良いよ。本もあるし、暇つぶしできると思うから」
「いいの? 邪魔じゃない?」
「これから出掛けるから。アトラリアに行こうと思ってて――そうだ、アデラも行かない?」

 名案だとばかりルイスは目を輝かせる。対するアデラは浮かない表情だ。

「……私は良いわ」
「そう? しばらく会ってないんじゃないの?」
「あまり気分が優れないから」
「分かった。じゃあお留守番頼むよ。食事はここに持ってきてもらうように頼むから。夕方には戻ってくるよ」
「いってらっしゃい」
「…………」

 ここまで来て、自分たちの会話が、まるで新婚夫婦のそれとそっくりだと言うことに気づき、ルイスは妙に恥ずかしくなった。むず痒い思いでこくこくっと頷く。

「う、うん。いってきます」

 ははっと乾いた笑い声を出してルイスは部屋を出て行った。いつもと少しだけ様子の違う彼に、どこか体調が悪いだろうかとアデラは不思議に思っていた。