第三章 伯爵邸
54:愛されたかった
軽快に扉をノックすると、返事は思っていたよりも早く返ってきた。
「どうぞ」
アデラはおずおずと扉を開けた。隙間からひょっこり顔だけを出すようにして、中を覗き込む。
「どうしたの?」
「眠れないから、遊びに来たの」
気恥ずかしそうな笑みを浮かべ、アデラは部屋に入った。ベッドの上で読書をしていたルイスは顔を上げ――固まった。そうとも知らないアデラは、部屋の中をキョロキョロ見回しながら、何か暇つぶしができるものがないかと検分する。
本棚の辺りをうろちょろするアデラを見て、ようやく正気に戻ったルイスは額に手を当てた。
「アデラ……こんな時間に、そんな格好で。君は女の子だよね? 女の子だっていう自覚ある?」
「もちろんあるわよ」
全く気のない返事でアデラは答えた。質問の意図を理解していないことなど丸わかりである。
ルイスは顔を顰めながら唸った。
成長した体躯に合ってないネグリジェは、ピッタリと身体に張り付き、身体の線を浮き彫りにしていた。おまけに短すぎる裾は脚の半分以上をさらけだしている。
ルイスはクッと表情を険しくして、本を閉じた。
アデラは、あまりにも無防備で、そして無邪気だった。
ルイスはアデラのことを妹のように思っているので、もちろん彼女をどうこうしようなどという邪な感情はない。だから今夜問題が起こることは、まかり間違ってもない。だが、そうだとしても、アデラは今後、大人の女性へと成長していく。自分の身を守るためにも、アデラは、己の無防備さ、無邪気さ、無知を自覚しなければならないのだ。
一言もの申そうと、ルイスはキッと顔を上げた。本来こういうことは母親など大人の女性から聞き及ぶことだろう。だが、どうにもアデラの母親はそういった教育が抜け落ちているようなので、ここは一つ、兄としてルイスが教え導かねばならない。
とはいえ、直接言うのは憚られるし、しかしフワッと伝えても、この鈍感なアデラが理解するかどうか……と、どんな風に説明したものかと思いあぐねたルイスだったが、その悩みはすぐに吹き飛ばされた。無邪気なアデラによって。
「ちょっ……なんでベッドに来るの!」
思わずルイスは叫んでいた。本を放り投げ、ベッドを死守するかのようにアデラを威嚇する。
「眠れないから、お話ししようと思って」
「いや、だからなんでベッドに!」
「こっちの方が座り心地いいでしょう?」
「いや……そういうことじゃなくて」
ルイスはだんだん訳が分からなくなってきた。
今は夜で、自分は寝間着で、アデラも寝間着で、部屋には二人きりで、更に言うなら自分たちはベッドの上にいて……という紳士淑女という立場からは大きくかけ離れた状況に、ルイスは頭痛を発症した。
「何の本読んでたの?」
ルイスの悩みも知らずに、アデラはベッドに寝転がった。繊細な生地のネグリジェが花びらのように広がる。そこから覗く素足があまりにも無防備で、ルイスは天を仰いだ。
「難しそうな本ね」
「……そうだね」
孤児院育ちの子供達は、互いのベッドの上に上がって話をする、ということに抵抗がない。とはいえ、それは子供同士、同性同士だから成り立つことであって、異性で、しかも二人きりのこの状況ではあってはならない行動である。
これ以上頭痛が酷くなるのは勘弁なので、ルイスはベッドから這い出し、端に座った。
アデラは嬉しそうにルイスがいたばかりの場所を陣取った。のびのびとベッドを占拠できるので大層嬉しそうだ。
ソファへと移動しようと立ち上がりかけたルイスだったが、折角できた話し相手をそう易々と見逃す気はないようで、アデラは彼のシャツを掴んだ。
「夏休みはどれくらいあるの?」
「一月半かな」
「結構長いのね。普段は寮生活で、長期の休みしか家に帰ってこられないの?」
「普通の休みの日でも、届け出を出せば帰れるよ」
「ふうん……。休みって何日?」
「週に一日」
話し相手を逃がすまいと、アデラの質問は矢継ぎ早だ。
「……それにしては、結構な頻度でアトラリアに来てなかった?」
「あれ? 言ってなかったっけ? 結構僕……その、学院抜けだしてて」
照れっとした表情で言ってのけるルイスに、アデラは呆れた視線を向けた。
「そんなことしてよく怒られないわね」
「幸いなことにまだ気づかれてないからね。選択授業だし、うまいことやれば意外と気づかれないよ」
「そこまでしてアトラリアに行きたいの?」
「そりゃあ、ね。皆と遊ぶの楽しいし。皆のことは本当の兄弟みたいに思ってる」
「でも、アトラリアに行くこと、お父様によく思われてないんでしょう? これからも行くつもりなの?」
「そうだね……。これだけは譲れないから」
真剣さを声に込めるルイスに、アデラも声量を落とした。
「……私もね、アトラリアに行くこと反対されてるの。お爺様にも、お母様にも」
「そうなの?」
「ええ。おかしい話だわ。自分が預けたくせに」
言いながら、恨みがましい己の声に気づいたらしく、慌ててアデラは明るい声を出した。
「ルイスは、どうしてアトラリアに?」
「僕?」
ルイスは遠い目をした。本をパタンと閉じる。
「物心がついた時には、母と二人で暮らしてたんだ。でも八歳の時に母親が亡くなって、その時は親戚も伝手もなかったから預けられたんだ」
返答を聞いて、アデラはしまったとあからさまに動揺した。孤児院に入れられる子供の境遇など、皆似ているはずなのに。
「……そう、亡くなられたの」
「うん。でも意外と思い出はあるんだよ。一緒に買い物に出掛けたことや、料理を作ったりしたこととか」
ルイスの口からは、まるで読み聞かせのようにつらつらと言葉が出てきた。寝る前の、砕けたこの空気がルイスを饒舌にしているのかも知れなかった。
「ルイスのお父様、意外に厳しそうな人だったわね」
「そうだね。勉強も貴族としての振る舞いも、厳しい人だよ」
「アトラリアからここへ連れてこられたときは、大分苦労したんじゃない?」
「そりゃもう、ね。母と暮らしてたときだって、ろくにマナーも行儀作法も知らなかったから、ここでは常にビクビクしてたよ」
私と一緒だわ、とアデラは嬉しくなった。
「努力したんでしょう?」
「そうだね、それなりには。突然父親だって言われて困惑したけど、あの時あの人は僕の唯一の家族だったんだ。だから見捨てられないように必死だったよ」
「お父様はどんな人なの?」
「どんな人……か」
ルイスは少し口ごもった。
「父上とはあんまり話したことがないから、よく分からないな。無口で、厳格で。最低限の会話しかしたことがない。今日だって、何ヶ月ぶりに話しただろう」
「私のお爺様もそんな感じだわ。世間話なんてほとんどしない」
アデラは年相応に唇を尖らせた。ルイスはクスリと笑って彼女を見つめる。
アデラからは、質問ばかりだったが、嫌な感情は湧いてこなかった。
不思議な気持ちだった。いつもはツンケンしてるアデラの声が、態度が、言葉が、今はすんなり心の奥深くまで入ってくるのだ。まるで乾いた土の上に落とされた水のように。
「……あの人にとって、僕は手駒の一つなんだろうね」
すっかりこの空気に絆されて、ルイスの口はいつになく軽かった。
「僕の家庭は、結構複雑でね。もともと、僕は母と一緒にここで暮らしてたらしいんだ。母はあの人の正妻じゃなくて、側妻だった。正妻に子供が生まれなかったから、母がウェリントン家に迎えられた。最初は、まだ良かったと思うよ。しばらくして僕が生まれて、立場上は跡取り息子を産んだわけだから、母の環境も悪くなかったと思う」
複雑な事情の行く先に、アデラは魅入られたようにじっとルイスを見つめた。
「でも、正妻に息子が生まれてからは最悪だった。母の立場は一気に悪くなって、着の身着のまま屋敷を追い出された。ろくに援助もせずに放り出したせいで、母は病に臥って、一年後に亡くなった。それからはずっとアトラリアで暮らしてたけど、跡取り息子も病で亡くなってしまって。……白羽の矢が立ったのが僕さ」
ルイスの瞳に、もうアデラは映っていなかった。
「父は僕が覚えてないと思ってるんだろうけど、僕は今までのこと覚えてるし、全部知ってる。社交界はね、狭くてすぐに噂が広まる。複雑な環境の僕を、好奇で、そして蔑む目的で、いろいろ教えてくれる人もいるんだ」
ちょっと間を置くと、ルイスは自嘲するような笑みを浮かべた。
「別に、いいんだけどね。もとからあの人に期待なんかしてないし。最初から分かってたことだ――」
そこまで言い切ったとき、ルイスの頭にポンポンと衝撃があった。ハッとして顔を上げると、思いのほかアデラはすぐ近くにいて、ルイスの頭を撫でていた。訳が分からなくて、ルイスはポカンとする。
「どうしたの?」
「私と同じね」
呟かれた言葉は、ルイスにとっては意味の分からない言葉だった。
どこがどう彼女と同じだというのだろうか? 性格だって似ていないし、考え方もまるで違う。アデラは母親が大好きだが、自分はそうではない――。
そこまで思い至ったとき、ああ、そうかとルイスはようやく答えにたどり着いた。
アデラが言っているのは、家庭環境だ。確かにそうだ。自分たちの境遇は似ている。家庭環境に翻弄される所も、自由でいるように見えて、そうではないところも。
「私と同じ……」
アデラは再び呟いた。
「あなたを見ていたらよく分かったわ。私――」
アデラは下を向いた。小さな動きだったが、その衝撃で何かが彼女の丸みを帯びた頬を伝った。サイドテーブルの仄かな明かりが反射させたのは、ほんの僅かな水滴だった。綺麗な涙だった。ルイスは思わず親指でそれをすくう。
「どうして泣くの」
「悲しいから……」
「悲しい?」
ルイスは何も考えずに聞き返した。アデラは、慣れているものと思っていた。いや、慣れていなくても、弱みを外には決して出さないと思っていた。なのに、今目の前にいるこの少女は。
「あなたを見てると、自分が惨めに思えてくるわ。気づかない振りして、馬鹿みたい……」
「どういう意味? 僕、何か変なこと言った?」
「愛されたかったんでしょう?」
アデラの返答は、要領を得なかった。ルイスは更に困惑する。
「僕は――違う。母には好きでいて欲しかったけど、父はそんなんじゃない。アデラとは違うよ」
「違わないわ」
アデラはまたポトリと涙を落とした。何がそんなに彼女を悲しくさせているのだろう。
「あなたは愛されたかったのよ」
ルイスは声もなくアデラを見つめた。アデラはまだポロポロと際限なく涙をこぼしていた。
一瞬、自分の感情に素直になれる彼女が羨ましいと思ってしまった。そのことが示すのは、すなわち。
ルイスは、泣きたい気分だった。アデラに絆されたのだろうか。母の胸に飛び込んで泣きたいと思った。抱き締められたいと思った。でもそれは叶わない。なぜなら、ルイスの目の前には、もう既に泣いている女の子がいるから。
「泣かないでよ」
アデラにされたように、ルイスは彼女の頭を撫でた。
「…………」
「泣いて欲しくない」
ルイスはふわりとアデラを抱き締めた。アトラリアの子供達を抱き締めたことは、今までに幾度とあったのに、そのどれもと今のこの抱擁は全然違う気がした。
不思議と、何故だかルイスの方も心が安らぐのを感じた。心が満たされるようだった。胸が痛くて苦しいのに、暗闇の中で光を見つけた気がした。
――僕は、僕も、愛されたかったんだ。
だが、そんなことが分かったからといって、これからのルイスの行動が変わることはないだろう。それでも、訳も分からないまま――自分自身が分からないまま突き進むよりはずっとマシだった。ようやく自分の目指すべき方向が分かった気がした。