第三章 伯爵邸
50:会いたかったわ
朝食の際、グレイディに突然言われたのが、夕方にアトラリア孤児院の院長がやってくる、という伝達事項だ。あまりに唐突に言われたので、アデラは始め理解ができなかった。
「そ、そんな急に……?」
「なんだ、会いたいんじゃなかったのか?」
「それは……もちろん会いたかったんですけど」
アデラはもごもごと口ごもった。確かに、会いたいのは会いたいが、正確に言えば『行きたい』だ。来てもらうのではなく、アデラの方から行きたかったのだ。それに、グレイディの口ぶりでは、タバサたった一人しか来てくれないようだ。それならば、やはりアデラの方から出向いて皆に一気にあった方が効率が良いというもの。
だが、折角タバサとの面会の機会を設けてくれたグレイディに対し、そんな恨みがましいことを言えるわけがなく、アデラは言いたいこと全てを飲み込んだ。
そうして夕方、そわそわと落ち着かない様子で部屋を行ったり来たりしていると、エリックから声がかかった。ようやくタバサが来たのだ。アデラは急いで扉を開けた。
「久しぶりね」
約二月振りに見たタバサは、少しだけ小さくなって見えた。
「もう二月も会ってないかしら? 何だか変な感じだわ」
「中へどうぞ」
会って話したいことはいろいろあったが、アデラはとりあえずタバサを部屋に引き入れた。たった二月会ってないだけなのに、どう接すれば良いか、アデラは少し困惑していた。年上には敬意を払えとか、行儀良くしろとか、パトリスに耳にたこができるほど言われ、そして身についてきた今のアデラとしては、以前のように気軽に接することができなかった。淑女としては、それは良いことなのだろうが、しかし、アデラにはそれが壁のように思えてならない。
「ここでの生活はどう? 慣れた?」
アデラの心中とは裏腹に、ソファに座るタバサはゆったりとしていた。
「それなりには。毎日勉強で忙しいけど、やりがいはあるわ」
「勉強? ここでも勉強しているの?」
「ええ。一般教養だけじゃなくって、マナーとか、ダンスとか」
「そうなの。貴族には必要なことだものね。ダンスは踊れるようになったの?」
「あんまり……うまくは。ステップがうまく踏めないの」
「激しい曲だと、脚がもつれそうになるものね。私も、若い頃に習ったきりだから、今踊れと言われても困るわ。ちゃんと継続してやらなきゃね」
ふふふとタバサは笑みを深くした。アデラもぎこちないながら、調子を取り戻していく。
「皆はどうしてるの?」
「ええ、ちゃんと元気よ。アデラのお別れ会ができず仕舞いなことは、皆すごく残念がってるけど」
「……会いたいわ」
「アトラリアには来られないの? やっぱり忙しい?」
「お爺様が許可してくれないの」
「そう……」
表情を曇らせ、タバサはティーカップをテーブルに置いた。
「外出はできるの?」
「たぶん……」
「だったら、慈善学校に行けばいいんじゃないかしら」
えっと顔を上げたアデラに対し、タバサは茶目っ気たっぷりにウインクをした。
「アトラリアに行っちゃ駄目ってことなら、こっそり学校に行けば、嘘ついたことにはならないわよね?」
だが、すぐにその楽しげな表情は消え、慌てたように両手を振る。
「あっ、こんなことを言ったらあなたのお爺様に怒られるかもしれないけど……。でも、コニー達も寂しがってるの。もし、ちょっとした外出の合間に、会いに行けることがあるのなら、行ってあげて。きっとすごく喜ぶわ。もちろん、ロージーの仕事場にも」
ロージーという名に、アデラは眉を下げた。だが、それはほんの少しのことで、タバサには気づかれなかった。取りなすようにアデラは背筋を伸ばした。
「後ね、もう一つ報告があるの。私、学院に通えることになったのよ!」
ちょっと得意げに胸を反らせば、タバサはパアッと満面の笑みになった。
「そうなの!? おめでとう! 努力が適ったのね!」
「努力というか……でもまあ、やったことが無駄にならなかったのは嬉しいわ」
「無駄になるわけないわ。アデラが今までやってきたことに、何一つ無駄なことなんてない。全部あなたのためになっていくわ」
「そうかしら」
大袈裟すぎて、アデラは少し半信半疑になったが、もう今のアデラはそこまで捻くれていないので、さっと流す。代わりに思い浮かんだのは。
「ああ……それで、ロージーにはこのこと内緒にしてくれる?」
「どうして?」
「…………」
純粋に問われて、アデラは内心首を傾げた。理由なんて考えたことなかった。人づてに伝わるのは嫌だし、かといって直接言う気は今となってはない。となると……なんとなく――そう、なんとなく。
「びっくりさせたいから?」
そう答えれば、タバサは笑みを深くして了承した。
それからも、タバサとはいろんな話をした。グレイディや新しい父親のこと、面倒な授業のこと、フリックが働き始めたこと、アトラリアで最近起こったこと――。
思っていた以上に話が盛り上がるので、それに比例して、ケーキも食べ過ぎた。そのせいで、夕食の際あまり食べられなくて、グレイディに小言を言われることとなった。
*****
数日後、学用品の買い物という名目で、アデラは外出の機会を得ることができた。そんなものエリックかメイドに頼めばとグレイディには渋られたが、たまの息抜きということでなんとかアデラが押し切った。いつもより少しだけ気合いを入れて身支度をし、アデラはエリックをお供に久しぶりに外に出た。
エリックには、事前に学校に寄りたいということは伝えておいた。グレイディには黙っていて欲しい、という無言のお願いを視線で伝えたら、『帰り道に通るだけですから、報告義務もありません』と粋なことを言ってくれた。
気もそぞろに学用品を買い集め、アデラはとうとう慈善学校までやってきた。あまり誰かに見られたくないので、アデラはコソコソと曲がり角に隠れては、僅かに見える門をじいっと睨み付けた。
しばらくして、授業が終わったのか、生徒がぞろぞろと門から出てきた。皆が連れ立って出てくるので、アデラはコニーを見逃さないように目を凝らした。
ようやく見つけたとき、アデラの口からは、思っていた以上に大きな声が飛び出した。コニーだけでなく、周りの生徒がアデラの方を見るくらいには大きかったらしい。アデラは恥ずかしくなって、今すぐ回れ右をしたいなったが、コニーの円らな瞳がそれをさせてくれなかった。
「おねーちゃん?」
こてんと首を傾げられたが、アデラはそれ以上なんて声をかければ良いか分からなかった。ただ黙って居住まい悪くその場に立ち尽くす。
「おねーちゃんだ! 久しぶり!」
アデラは大した反応も返せなかったが、それでもコニーはアデラだと気づいたようだ。彼女はパタパタと小さく手を振って走ってきた。その懐かしい顔に、声に、アデラは知らず知らず満面の笑みになった。
「コニー!」
他の生徒に隠れて見えなかったが、コニーのすぐ隣にはンネもいた。彼女もまたコニー同様嬉しそうに駆けてくる。そして二人一緒に勢いをつけてポフッとアデラに抱きついた。アデラはそれが別に嫌ではなかった。
「コニー達に会いに来てくれたの?」
「……そうよ」
「嬉しい!」
抱きついたまま、コニーはにまにま笑ってアデラを見上げた。ミンネもきゃっきゃと笑った。
「私たち、ずっとアデラちゃんに会いたかったのよ、ね?」
「うん! 皆おねーちゃんのお別れ会やろうって、準備までしてたんだから」
「あっ、コニーちゃん、それ言っちゃ駄目だよ! アデラちゃんには内緒なんだから!」
「あっ……」
途端にコニーはしゅんとして、おどおどし始めた。そして窺うようにアデラを見る。
「ちっ、違うの。お別れ会じゃないの。あのー、えーっと……」
慌てたコニーは、どうにかしてアデラの気を別の所に持っていこうと必死だった。そしてその円らな瞳は、アデラの後ろの少年に向けられる。
「この人、おねーちゃんのお友達?」
「……そんな感じ?」
アデラは適当に答えた。コニーとミンネは、エリックの前まで近づき、頭を下げた。
「こんにちは! コニーです!」
「ミンネです!」
「エリックです。お嬢様方」
エリックも柔らかく微笑んで挨拶を返した。コニーとミンネは顔を見合わせ、くすぐったそうに笑う。
「おじょーさまだって……」
しかしすぐに我に返り、彼女たちはアデラにひっついた。
「ねえ、どーして最近会いに来てくれないの?」
「私たち、アデラちゃんのことずっと待ってたのよ」
「ちょっと忙しくてね。なかなか会いに行けないの」
「おねーちゃんが忙しいなら、コニー達で会いに行こうか?」
コニーの提案に、ミンネはパアッと笑みを浮かべた。
「それいいね! ロージーちゃんみたいに、私たちがアデラちゃんの様子を見に行くよ!」
「そうね、それなら良いかも」
アトラリアに行くなとは言われているが、会ってはいけないと言われてはいない。完全な屁理屈だが、元々の言い分としてもアデラが孤児院出身であることが露呈しなければいいのだ。小さな女の子が二人グレイディ家に来たとして、それが気づかれなければ良いのだ。幸い、グレイディ家の庭園は広い。コソコソと庭園まで引き込めば、誰に気づかれることもないだろう。
「それなら、ロージーちゃんも呼ぼう!」
「ロージーは呼ばないで!」
アデラは敏感に拒否した。
「いい? 絶対にコニーとミンネと二人だけで来るのよ。私に会うってことも言っちゃ駄目よ」
「どうして?」
「そりゃあ……」
不思議そうに聞き返され、アデラの頭は目まぐるしく回転する。そして導き出されたのが。
「そりゃあ、これが秘密のお茶会だからよ! 他の人も知ってたら秘密じゃなくなるでしょ? このお茶会は、三人だけの秘密。いい?」
「それって楽しそう!」
「うん、三人だけの秘密!」
「じゃあそういうことでね」
アデラはホッと胸をなで下ろした。
「待ち合わせは……えっと」
アデラは頭の中で、グレイディ家までの地図を展開させた。慈善学校からグレイディ家まで、近ければ良いのだが、距離はなかなか遠い。道も複雑だ。それに、地理に疎いアデラはうまく説明できない。仮に説明できたとしても、小さい子二人だけで来させるのは不安だ。
「エリック、当日二人を迎えに行ってくれる?」
「はい、もちろんです」
「その間に私もお茶会の準備をするわ。お願いね」
アデラはぐっと身をかがめ、コニー達の目を見た。ロージーやルイスがいつもそんな格好をして子供達の相手をしているので、アデラもすっかり癖になっていた。
「良いこと、コニー、ミンネ。当日になったら学校の前にエリックが来るから、ついて行くのよ。顔を覚えてね」
「うん!」
「エリックさん、よろしく!」
「よろしくお願いします」
二人に手を振られながら、アデラとエリックは学校を後にした。心なしかアデラの足運びも軽い。
「楽しみね」
ついでに口もすっかり緩くなっていた。ポロリと無意識のうちに出てきた呟きは、久しぶりの、心の底から出た言葉だった。