第三章 伯爵邸

49:緊張するわね


 晩餐会当日、朝からひっきりなしに招待客達が訪れた。グレイディはその対応にてんてこ舞いで、アデラはと言うと、まだ正式に紹介されたわけではないので――もちろん粗相しないためというのもあるが――自室に引きこもり、大人しくしていた。下手にのこのこと顔を出して、社交界に疎いアデラに世間話を持ちかけられても困るのだ。

 アデラの身支度は、昼過ぎから行われ、終わったのは夕方頃だ。全身を磨かれ、香油を髪の毛に塗りたくられ、髪を結い上げられ、ドレスを着せられ、アクセサリーを身につけさせられ……。準備し始めるのがあまりにも早すぎるのではないかと思ったアデラだったが、終わった頃にはなかなかに時間が経過しており、ぞっとしたものだ。デビュタントをした後は、毎夜このような晩餐会やら舞踏会やらパーティーやらが開かれるという。それを考えると、今から寒気がするアデラである。

 今宵のドレスは、アデラの瞳の色に合わせた爽やかなアップルグリーン色だ。アップにされた髪には、これまた新調した髪飾りが煌めいている。林檎の花をイメージしたもので、ドレスの色と合わせてわざわざ作ったのだと仕立屋には鼻を高くされた。アデラもこれにはなかなか気に入っていた。シェリルに、まるで林檎の妖精ねと褒められたからだ。

 晩餐会の時間になると、アデラはエリックのエスコートで階下まで降りた。招待客はもうかなりの人数が集まっていて、屋敷中央に位置する応接室に集まって談笑していた。その中にごく自然に溶け込んだアデラだったが、グレイディがすぐ彼女を呼び止め、招待客に紹介していった。晩餐会の前にもう緊張でどうにかなってしまいそうだった。

 食事の支度が整うと、執事が呼びに来た。皆が順々に食堂へ赴き、それぞれ着席した。アデラ達子供は末席に集まった。

 長々としたテーブルが満席になったところを見たのは、この時が初めてだった。空席だらけのテーブルもわびしくて嫌だったが、いざここまで人が集まると、今度は緊張してくるので困ったものだ。

 晩餐会は、グレイディの軽い挨拶で始まった。上席ではグレイディを中心に穏やかな会話がなされているようだ。対する末席では、緊張したようにシンと静まりかえっている。

 私だけじゃなくて、他の子も初めて会うのかしら。

 そんな風に気を取られていたアデラは、ナイフを取るとき、間違えて内側のものから取ってしまった。慌てて外側のものを取り直したが、それを隣の少女に見られていたらしい。ふっと鼻で笑われる。

「こういった場にあまりふさわしくない子がいるみたい」

 自分に向かって言ったのか、とアデラはちらりと彼女を盗み見た。バッチリ目が合う。

「あらごめんなさい。別にあなたに言った訳ではないのよ」

 気に触ったかしら、と少女は目を細めた。アデラも同じような笑みを返す。

「そうね。私もそう思うわ。折角の素敵な食事の場で人の悪口を言うなんて、確かに淑女としてふさわしくないもの」

 少女は急に無表情になった。しかし、アデラは見た。彼女のナイフを握る手に力が込められるのを。

「あなた、グレイディ家の養女になったんですってね。一体どんな手を使ったのかしら、あなたのお母様」
「あら、それはもちろん誰よりも深い愛でその心を射止めたに決まってるじゃない? それ以外の方法が、あなたはあると思って?」

 引っかかった、と少女は嬉しそうに笑った。アデラには彼女の心情が手に取るようによく分かった。

「噂に寄れば、あなたのお母様の方から言い寄ったって聞いたわ。それも、身体を使って。そんな娼婦のような真似事をして、よくもまあ堂々と正妻の座を射止められたものだわ」
「まあ、まさかあなた、そんな噂を信じてるの?」

 アデラは大袈裟に驚いた顔をしてみせた。

「そんな低俗な噂話を好むなんて、器が知れるわね。あなたはつまり、お母様達の間に愛がないって言ってるんでしょう? ――随分と夢がないこと言うのね。今からそんなんだと、将来碌なことがないわよ」

 ひくっと少女の頬が引きつる。あなただって似たようなものでしょうが、とでも言いたげな顔だったが、しかしさすがにその文言は飲み込むことにしたようだ。それが利口だとアデラは微笑んだ。

「さあ、あなたともっとお話ししていたい所だけど、食事が冷めちゃうからこの辺りで止めておきましょ。他の子とも話してみたいし」

 アデラはそう言ってようやくおいしそうな夕食と向き直った。隣からは、未だ文句を言いたげな空気が発せられていたが、アデラは全く気にしなかった。

 しばらくして、少女も大人しく食事を始めたが、決して先ほどの出来事を忘れた訳ではない。むしろ、いつまでも屈辱が泥のように纏わり付くので、アデラを無視して鬱憤を晴らそうとした。アデラを挟み込んで、彼女の隣の女の子と話したり、アデラには絶対分からないだろう内輪だけの会話をしたり。

 一方でアデラは、彼女たちの会話に聞き耳を立て、先ほどの少女がマドラインという名前だということを理解した。そして同時に、その場の会話の流れから、どうやら彼女が子供達の主導権を握っているというのも。

 とはいえ、この展開はアデラも好都合だった。始めから下に見られることがなくて良かったとすら思った。アデラは我慢が効かないので、むしろ無視されて良かったくらいだ。実害がなければ、アデラは何も気にしない。四面楚歌のこの状況は、バーンズ家で充分経験済みだ。

 つつがなく晩餐会が終わると、男性陣はその場に残り、煙をふかし始めた。女性陣は、別室に移り、歓談の時間だ。だが、食事中大して交友関係を広げることができなかった彼女は、どうにも彼女たちについていく気にはなれなかった。どうせ部屋を移っても、また仲間はずれにされるだけだ。

 アデラはふと思い立って、庭へ出ることにした。昼の庭と、夜の庭はまた雰囲気が違う。折角自由時間があるのだから、有効に使わない手はない。

 夜の庭園は、月明かりのおかげで、幾分か明るかった。足下は覚束なかったが、屋敷から漏れる明かりも相まって、散歩するには充分で、アデラはホッと胸をなで下ろした。

 暗いところは苦手だ。いくら煩わしさから逃れるためとはいえ、のこのこ弱点となる場所へ赴くほどアデラも馬鹿ではない。

 本当のところ、東屋まで行きたかったが、遠征は窓明かりが漏れる所までにした。

 だが、それがいけなかったらしい。ふと顔を上げたとき、窓越しにマドラインと目が合ったのだ。彼女は嘲笑の笑みを浮かべ、視線を逸らした。ちょっと腹が立ったが、別に何を言われた訳でもない。アデラは気にしないことにしたが、しばらくして彼女がわざわざ庭園へやってきたのだ。取り巻きを従えて。

「あら、こんな所で一人何をしているの?」

 わざとらしく聞いてくるマドラインとその取り巻き達。皆一様に意地悪そうな顔をしていた。

「お寂しいのね。一緒にお散歩してくれる友達もいないなんて」
「取り巻きがいないと何もできない人にはなりたくないもの」

 こてんと首を傾げ、アデラは微笑んだ。薄暗い中でもよく分かるほど、マドラインの頬は赤く染まった。

「でも残念だわ。あなたも私たちといれば、面白い話が聞けたのに」

 聞いてもいないのに、マドラインはべらべらと話し始めた。

「あなたのお母様の話で持ちきりだったわ。皆私と同意見みたい。シドニー様を誘惑したんだって。それに、今日だってどうしてあなたのお母様は参加していないの? 仮にもグレイディ家に嫁いだくせに、晩餐会に顔も出さないで、今夜はどこの男性の所に顔を出したのかしらって――」
「黙りなさいよ」

 アデラは冷え冷えとした声を放った。

「あなたはそうやって私のお母様を貶すことしかできないの? キャンキャン犬みたいに吠えて馬鹿みたい。――ああ、もしかして、ここへ来たのも、その子達に散歩に連れられてきたの? 邪魔してごめんなさいね」

 暗がりでもはっきり分かるほど、マドラインは顔を真っ赤にしていた。ツカツカ歩み寄ると、右手を勢いよく振りかぶってアデラの頬を叩く。乾いた音が闇夜に響いた。

「なんて口を利くのかしら! これだから娼婦の娘は――」
「何をしてるんですか!」

 怒鳴るのを精一杯抑えたような声が響いた。振り返る間もなく、アデラとマドラインとの間にはエリックが割って入っていた。

「お嬢様に手を上げましたね?」
「そ、それが何よ」

 マドラインは、乱入者が使用人だということに安堵の表情を浮かべたが、動作は盛大に狼狽えていた。反対にアデラは取り乱しもせず場を静観した。

「このことはしっかりとご主人様にご報告させて頂きます」
「――っ、勝手になさいよ! 私だってお父様に言いつけてやる!」

 マドラインはアデラとエリックを憤怒の表情で睨み付け、蜘蛛の子を散らすように散り散りになって取り巻き達と屋敷の中へ入っていった。

 彼女たちの姿が見えなくなった途端、エリックは心配そうにアデラに向き直る。

「大丈夫ですか……?」

 アデラの頬まで上げられた彼の手は、中途半端なところで止まった。

「これくらいなんともないわよ」

 アデラは素っ気なく言い返した。

「でも、やり返さないのは驚きました。てっきりお嬢様のことですから――」
「やり返したって、意味ないもの。多勢に無勢だし、言いつけられたら、それでもう私は終わりだわ。向こうの方が人数も多いし、お祖父様はきっと向こうを信じる」
「でも、悔しくないんですか?」

 エリックの問いに、アデラは口元を歪めて笑った。

「むしろ、あの子の方が惨めさを晒しただけよ。うまいこと言い返すことができないからって暴力に出ただけ。情けないわね。それを自分で暴露したようなものじゃない」
「お嬢様は……なんというか……」

 エリックの顔が微妙なものになる。アデラは別に気にしなかった。自分の性格が捻くれているということは孤児院で嫌というほど自覚したし、かといって、自分を変えるつもりもないし、エリックにどう思われようと気にしない。

「行くわよ。身体が冷えてきたわ」

 アデラは短く言って屋敷へと歩き出した。折角環境が変わったというのに、どこまで言っても意地の悪い人はいるんだと、アデラは小さく嘆息した。