第三章 伯爵邸
48:なんて言ったの?
伯爵家当主の誕生日ともなると、祝いの品はそれはそれはたくさん贈られてくるらしい。ひっきりなしに玄関のチャイムが鳴り響き、執事は大忙しである。その光景を眺めながら、早くプレゼントを渡しておけばと何度アデラが後悔したことか。
もともと、グレイディにプレゼントを贈ることは計画していた。一応家族という名の関係になったわけだし、晩餐会用のドレスを仕立ててもらったという恩もある。それ相応のお返しをしなければとは思っていた。
だが、朝食のときにプレゼントを持参するのをすっかり忘れていたのだ。そもそも誕生日だと言うことすら忘れていた。普段よりも数段豪華な朝食を見て、今日が何の日か思い出し、慌ててお祝いの言葉を口にしたのは良いが、その後、どうにも渡すきっかけがなかった。
昼食のときもだ。いつもならば一緒にとるはずが、今日は客人と早々に食事をしたらしく、アデラは一人だった。折角持参したプレゼントをすごすご持ち帰り、こうして東屋で作戦を練り返しているというわけだ。
「お渡しするのであれば、早い方がよろしいと思いますよ」
アデラがプレゼントを渡しかねているというのはエリックの目にも明らかだった。アデラは包装されたプレゼントを膝の上に置き、弄っていた。
「分かってるわよ。でもお爺様、いろんな人からいろんなものもらってるみたいだから、私のものが見劣りするのよ。私なんかのものもらっても、どうせ嬉しくないだろうし」
「そんなこと……ないとは思いますが」
エリックの返答は控えめだ。彼は正直だった。確実と判断できることでなければ、自信を持って言うことができないのだろう。
「分かったわよ。夕食の時に渡す。それでいいでしょ」
アデラはため息交じりに頷いた。自分でも、言い訳をつけて先延ばしにしても意味がないことは分かっていた。
だが、残念なことに、その機会は結局訪れなかった。グレイディは既に夕方に出掛け、夕食も外で食べてくるらしいのだ。そのことを聞いてから、アデラはホッとしたような、残念なような、複雑な気持ちだった。
とはいえ、この時点で、プレゼントを渡さないという選択肢はアデラの中になかった。屋敷に住まわせてもらっているという恩はあったし、何よりマナーがなってないと思われたくない。アデラのせいで、シェリルの評価が下がるのはあってはならないことなのだ。
包装紙に包まれたプレゼントをテーブルの上に置いたまま、アデラは窓枠に腰を下ろしていた。見下ろすのは屋敷の門で、グレイディが帰ってくるのを今か今かと待っている。普段であれば、とっくの昔に眠っている時間だ。アデラが起きていることは、扉の下から差し込む光で気づいたらしく、エリックはトントンとノックをした後、扉を開けた。
「もうお休みになられては?」
「ええ、そうね。……でも、後もう少しだけ」
「当日でなくとも、旦那様は気になさらないかと思います。それよりも、早く寝て、お身体を休めた方が」
「だったら、部屋の前に置いておくわ」
「え?」
パチパチとエリックは瞬きをした。その間に、アデラはぴょんと立ち上がり、プレゼントを持って彼の横を通り過ぎた。
「お爺様のお部屋はどこだったかしら。エリック、案内してくれる?」
「はあ……」
エリックの口元は、さももの言いたげにもごもごしていたが、結局物言うことは諦めたのか、アデラの前を歩き始めた。
前回同様、三階まで登ってグレイディの書斎へ向かう。相変わらず何度来ても覚えられないような似たような扉ばかりが続く廊下だ。その中の一つで、エリックは足を止めた。
「こちらです」
「ありがとう」
気取った様子で頷いたアデラは、そのまま扉の前にプレゼントを置いた。ボルドー色の絨毯の上に、ちょこんと鎮座した可愛らしい包装のプレゼント。小さいくせに、なかなか存在感はある。主に、違和感が仕事をしているからである。
「さあ、戻りましょう」
何故だか満足げなアデラだが、幸いなことに、エリックの方は一般的な価値観を持ち得ていた。
「……やっぱり止めておいた方が良いと思います。なんか変ですよ。明日直接お渡しした方が」
「何を言うの。私の包み方がおかしいってこと?」
「怪しいって意味です」
「失礼ね。ちゃんとカードも入ってるし、私からだって分かるから大丈夫よ」
「そこで何をしている」
ビクッとアデラ達は身体を揺らした。夜更けの、誰もいない廊下に突如響いた声は、想像以上に不気味だった。声の主はすぐにグレイディだと気づいたものの、それで驚きが消えるわけではない。むしろ、何か怒っているようにも聞こえる声の調子に、今まで以上に胸をドキドキさせた。
「お帰りなさいませ」
頭を下げながら、エリックは数歩下がった。もう自分の出番はないとでも言いたいらしい。
「あ、あの……」
一人取り残されたアデラは、もじもじした。無言で己を見下ろすグレイディが恐い。
アデラは、まるでロボットのようにぎこちない動作で、プレゼントを持ち上げ、更には一歩一歩とグレイディに近づいた。
「良かったら……お誕生日のお祝いです。あの、おめでとうございます」
グレイディの顔を見る勇気がなく、アデラは深く頭を下げた。そして次に顔を上げたとき、もうこれで役目は終わったとばかり、アデラの表情は輝かんばかりに明るかった。
「お休みなさい!」
「待て」
脱兎の如くこの場から逃げだそうとしたアデラだったが、鋭くグレイディが呼び止めた。首根っこ掴まれたようにアデラは背筋を伸ばす。
「…………」
グレイディは何も言わず、ただ黙って包み紙を開けた。アデラは戦慄した。
ひょっとして――目の前で開ける気だろうか。
目の前で開けて、すぐに感想を言うつもり?
まるで死刑宣告を待つが如く、アデラは血の気を失った。まだ心の準備ができていなかった。渡すだけでも疲れたのに、その後すぐに小言だなんて、嫌すぎる。
彼が取り出したのは、白いハンカチだ。隅にバラの刺繍が施されている。アデラの裁縫暦など、取るに足りない短さなので、最近は、馬鹿の一つ覚えのようにひたすらバラの刺繍ばかりしていたのだ。男性にバラの刺繍なんて、とアデラも思わないではなかったが、その点は目を瞑った。アデラの中で、優先事項はシェリルだったし、そのシェリルに、自分が一番うまくできたハンカチをプレゼントしたかったのだ。となると、他の男性が好むような柄を練習する時間などない。結果的にグレイディにバラのハンカチを贈ることになってしまったのはそういう経緯からだった。いくつか完成したハンカチの中で、二番目にうまくできたものを渡したのだから、それで許して欲しいとアデラは思っていた。
グレイディは、ハンカチをマジマジと見つめていた。アデラの刺繍の細部を、まるで今この場で批評を下すかのようにじっくり見ている。いい加減居心地が悪かった。渡すだけでも勇気がいったのに、どうして直接出来具合を確かめられないといけないのか。
「綺麗なものだな」
だが、今か今かと待っていた言葉は、思いがけないもので。
「大切に使おう」
「…………」
アデラは、ポカンと開けた口をなかなか閉じることができなかった。
今言われた言葉は、ひょっとして聞き間違いだろうか? それとも、たちの悪い嫌味?
「ゆっくり休め」
アデラの脳が現状を理解する前に、グレイディは動き、部屋の中へ身を滑らせた。扉が閉めきられる寸前で、アデラは慌ててお休みの挨拶を口にした。
完全に扉が閉まると、辺りはシンと静まりかえる。
『大切に使おう』
グレイディの言葉が、未だアデラの中をぐるぐると回っていた。