第三章 伯爵邸
47:私が?
恒例になりつつあるアデラとグレイディ二人きりの朝食。
食事の時間も、会話は一つもない。時折勃発する会話とすれば、アデラのマナーへの注意か小言、教育についてである。そして本日、珍しくアデラの方を向いたかと思えば。
「――昨日は体調不良で授業を休んだと」
ギクリとアデラの肩が揺れた。昨日のアデラが、シェリルとシドニーと、楽しいお茶会の時間を過ごした反面、今日のアデラは、そのツケを食らい、恐ろしい朝食の時間を過ごしていた。
視線を逸らすアデラを、グレイディは逃がすまいと鋭い眼光で射貫いた。
「しかしおかしいな。使用人の話では、仲良く三人で庭から戻ってくる姿が見受けられたとか」
「……す、すみません」
「全く情けない。二月と経たないうちに授業を怠けるとは。これから先が思いやられるな」
きゅうっとアデラは更に身を縮こまらせた。返す言葉もなかった。アトラリアに行く許可を――などと大きな口を叩いたくせに、数日と経たずに授業をすっぽかすなんて。
自己嫌悪で気分が悪いくらいだったが、しかし、グレイディはそれ以上アデラを叱ることはなかった。拍子抜けする思いだったが、これ幸いとアデラはもくもくと食事を続けた。無駄に話を続けて、墓穴を掘るなんてことはしたくない。さっさとこの気まずい雰囲気から脱出しようと思っていたアデラだが、意外なことに、先に食事を終えたのはグレイディだった。紅茶で食事を締めると、立ち上がり、食堂を出て行く。いつものことだが、一人きりになった瞬間アデラはほうっと息を吐き出した。
だが、安寧もそう長くは続かなかった。険悪な声が外から漏れ聞こえてきたからだ。それは、グレイディと、その息子シドニーの会話だった。
「どこへ行くんだ」
「……ちょっと知り合いのところへ」
「毎日出掛けるほど、お前の知り合いはそんなに多いのか?」
「貴族には伝手が必要だとおっしゃったのは他でもないあなたでしょう」
食堂の扉は厚いが、興奮して大きくなった声くらいは聞き取れた。
聞くつもりではなかったが、彼らの声はアデラの耳にも入ってきた。
「社交界にはろくに顔も出さないくせによくもまあいけしゃあしゃあと」
「おべっかを扱うのは性分に合わないもので」
「次期当主としての当然の責務だ」
グレイディはイライラと片足を踏みならした。
「来月ここで晩餐会を催す。分家を集めての大々的な催しだ。お前にも参加してもらう」
「生憎と、その日は知り合いと約束があるんです」
「いつでもできる約束と、他家の当主も参加する晩餐会、どちらが大切だと思っている」
「そりゃもちろん、約束の方でしょうか。何しろ、僕が面と向かってこの日に会おうと約束したものですから。一方的にこの日だと急に言われた晩餐会よりはよっぽど重要かと」
飄々とシドニーが返した後、しばらく何の物音もしなかった。ひょっとしてグレイディがシドニーを殴るんじゃないかと、そんな風に思った矢先、シドニーが冷たい声を発した。
「いつまでも放蕩の限りを尽くせると思うな。私の限界は近い」
底冷えするような声だった。アデラは思わず背筋を伸ばした。よくあのグレイディに口答えできるなと、アデラは内心シドニーのことをすごいと思った。かといって、どちらが良い、悪いかまでは判断つかなかったが。
会話もなくなり、去って行く足音が聞こえたので、もうさすがに誰もいなくなっただろうと高をくくり、アデラはしずしずと食堂を出た。早いところ自室に戻って心の底から安心したいところだった。だが、目を上げて、アデラは固まった。未だ玄関ホールにグレイディがいたのだ。
「……アデラ」
アデラの登場には気づいていたようで、グレイディは静かに彼女の名を呼ぶ。
「話は聞いていたな?」
「……はい」
「そろそろ人前に出られるくらいにはマナーも身についただろう。お前には必ず出席してもらう。くれぐれも私の顔に泥を塗らないようにな」
「はい」
「昼に仕立屋を呼ぶ。ドレスを見繕ってもらうように」
「はい」
何かもの言いたげにグレイディはジッとアデラを見つめていたが、結局何も発さず、彼も書斎へと戻っていった。もう何度ついたか分からないため息をつき、アデラも部屋に戻った。
*****
午後の授業を取りやめて、アデラは晩餐会用のドレスを仕立てることになった。バーンズ家にいたときもドレスを仕立てたことはあったが、いつも洋裁店でやっていたので、家にいながら仕立てるという状況に、ほんの少しの高揚感があった。その上、初めて母以外で、特別にアデラのために仕立ててくれるというグレイディのことが嬉しかった。
だが、仕立屋がやってくると、アデラのその高揚した気持ちもへなへなと萎んでいった。
まず下着姿で両手を広げて立たされ、全身のあちこちを巻き尺で測られ、書き留められ、難しい顔で考え込まれ……。
次に様々な布地を見せられ、レースやリボンを選ばされ、好きな色や着たい色を聞かれ……。
淡々と仕立てが終わると考えていたアデラはかなりの疲労を負った。
正直なところ、ドレスの布地がツルツルでもフワフワでもサラサラでも、アデラにとっては大した違いはなく、どれでもいいのだ。それでも、お嬢様がお気に召したもの全てを使って仕立てて見せます! とやる気満々に言われれば悪い気はしない。
それに、アデラも女の子だ。最終形態であるデザイン画を見せられている内に、心境の変化を見せ、身を入れて意見を出すようになった。デザイン画を見る前は、どんなにさわり心地の良い布地でも、素敵なレースでも、いまいち想像がつかず、消極的だったアデラでも、デザイン画があれば、胸元のここにこのレースを、という意見が具体的に出せる。一気に自分のドレスが形を持ったのだ。高揚しないわけがない。
ただ、この時アデラが一番嬉しかったのは、この場にシェリルが現れたことだ。どこから聞きつけたのか、終盤になってシェリルが現れ、アデラのドレス選びを一緒に手伝ってくれたのだ。今まで何度もアデラのドレスを仕立て、そしてアデラと違って社交界にも出席した経験のある彼女の意見は重宝され、それからはトントンと話はまとまった。
また近いうちに来ますという嬉しくない言葉を残し、仕立屋は去って行った。
シェリルはニコルにお茶の準備を言いつけて、ソファに腰掛けた。まだここにいてくれる雰囲気を感じ取り、アデラはニコニコと彼女の隣に座った。
「お母様は晩餐会に出席するの?」
「シドニーも出ないって言うし、私も出ないわ」
「えっ、出ないの?」
肯定の返事を想定してでの質問だったので、アデラはかなり狼狽えた。初めての社交の場に、できればアデラが一番安心できる存在が側にいて欲しかったのだが、その思いが遂げられそうもなく、あからさまに落ち込んだ。そんな娘の頭に手を置き、シェリルは苦笑する。
「普通のパーティーならまだしも、グレイディ家の親族が集まるの。気を遣うだろうし、どんなこと言われるか分かったものじゃないしね」
「私も……何か言われるかしら」
膝の上に置いた手を、ギュッと握りこんだ。
「テーブルマナーだって覚えたてだし、きっと偉い人も来るんでしょう? 私、お爺様に怒られるかも」
「大丈夫よ。アデラはやればできる子よ。それに、エリックから聞いたわ。最近色々マナーも板についてきてるみたいじゃない」
「本当?」
アデラは嬉しさに身を乗り上げた。
アデラの状況を誰かに尋ねる。その行為自体が本当に嬉しかった。
「晩餐会、どうだったか教えてね」
「もちろんよ!」
会話に一区切りついたところで、紅茶が運ばれてきた。ケーキが並べられ、これを食べ終わるまで、おそらくシェリルはここにいるだろう。
そう思って、アデラは一層笑みを深くした。