第三章 伯爵邸

46:優しそうで良かった


 グレイディの来訪を経て二日後、ようやくアデラは全快した。どうしてあんなにも気持ちが悪いと思っていたのか不思議なくらいの元気っぷりだった。とはいえ、アデラが臥せっていた期間は長く、その分を巻き返すが如く、パトリスの授業は厳しく濃くなった。頑張りすぎでまた倒れるのではないかと思うくらいで、アデラは一日を終えるだけで手一杯だった。
 そんな忙しい生活を支えるため、アデラには侍女がついた。アデラよりも一回り離れた年上の女性で、どこか成長したコニーを思わせる人だった。

「ニコルと申します。よろしくおねがいしますね、アデラ様」
「……アデラよ」

 邪気のない笑顔に、アデラはどうして良いか分からず、逃げるように背を向けた。

「侍女なんてつかなくても良いのに。ルイスだけで充分だわ」
「そんな。着替えのお手伝いなど、エリック様ではできないこともございますでしょう? それに、お出かけされるときは侍女がつくものですわ」

 胸に手を当て、自信満々に言うニコル。アデラが口出す暇も無く矢継ぎ早に続ける。

「掃除についてですが、アデラ様のお食事中にさせていただいてもよろしいですか? 以前アデラ様が掃除はいらないとおっしゃったので、私どももアデラ様の私室は手をつけられずにいたのですが……。先日、旦那様からお言葉があり、アデラ様の私室もきちんと掃除をするよう言いつかりました。よろしいでしょうか?」
「……分かったわ。でもテーブルの上やタンスには絶対手をつけないで。勝手にものを捨てないで。いい?」
「もちろんでございます。アデラ様のご了承なくして勝手にものは捨てません」
「…………」

 本当かしらとアデラは思ったが、それ以上相対するのが面倒に思えて、適当に頷いた。

「良かったですわ。では、これからよろしくお願いいたします」
「よろしく」

 ソワソワした動作で返事をし、アデラは部屋を出た。
 ニコルのことを思うと、気が重たくなって、しばし扉を背に動けなかった。身の回りのことなど自分でできるのに、他人がズカズカと部屋に入ってくることに我慢がならない。とはいえ、今更どうにかできることでもなく、アデラは重たい気分のまま階下へ降りた。
 しかし、そんなアデラの暗澹とした心情を吹き飛ばす存在が現れた。アデラが待ち望んでいた人物シェリルである。

「お母様!」

 家の中に入ろうとしたところ、物々しく馬車が入ってくるので、一体誰だろうと眺めていたアデラ。そこから降り立ったのがシェリルだと見て取ると、授業のことなんかすっかり頭から抜け落ち、一目散にシェリルに抱きついた。

「アデラ、久しぶりね」
「ええ!」

 一週間ぶりだろうか。アデラは久しぶりにシェリルの顔が見られて大満足だった。とはいえ、一度抱きついたら離れたくなくなって、アデラはしがみついたまま彼女の胸に顔をすり寄せる。昔、アデラの身長はシェリルの太ももほどだったが、今では胸元程までに成長していて、以前よりもシェリルに近づけたとアデラは嬉しく思った。

「この可愛いお嬢さんは?」
「ああ、シドニー」

 突然聞き慣れない男性の声が降ってきて、アデラは顔を上げた。金髪の、涼しげな顔をした男性と目が合う。アデラは慌ててシェリルから離れた。

「二人とも、会うのは初めてだったかしら。この子がアデラ。私の娘よ。そしてアデラ。彼はシドニー=グレイディ。あなたのお義父様よ」
「君がアデラ。よろしくね」

 シドニーの友好的な笑みに、アデラは頬を赤く染めた。スカートの端をつまみ、腰を深く落とした。

「アデラ=グレイディと申します」

 ――うまく挨拶ができた。アデラはおずおずとシェリルを見る。彼女はこちらを見ていなかった。

「さ、早く食べましょ。折角のケーキがぬるくなっちゃうわ」
「ケーキ?」
「ええ、そう。有名店で買ってきてもらったものなの。アデラも食べる?」
「ええ!」

 思わぬ誘いに、アデラは何度も頷いた。だが、すぐに我に返る。

「あ、でも、この後授業があって……」
「授業? 何の?」
「マナーの授業」
「そんなのすっぽかしちゃえば良いのよ」

 シェリルはあっけらかんと言い放った。

「一度くらい大したことないわ。それに、折角の家族水入らずの時間じゃない? これくらい許してくれるわよ」
「……うん!」

 アデラの顔はみるみる花開き、満面の笑みを咲かせた。家族、と言う響きが堪らなく魅惑的だった。

「じゃあ食堂に行きましょ」
「食堂で食べるの? 私、外に素敵な場所があるの知ってるわ。お母様、そこで食べましょう!」
「外? この暑いのに?」
「良いじゃないか、たまには。アデラ、案内してくれるかい?」
「はい!」

 こくこくっと頷き、アデラは二人を先導した。迷うことなく庭園を突き進み、東屋にたどり着く。花のアーチはアデラ同様お気に召したが、東屋自体はシェリルは気にくわなかったようだ。何しろ、屋根がなく、直射日光が当たっている。

「日が当たって暑いわね、ここ」

 シェリルはパタパタ手で仰いだ。

「それにテーブルもないじゃない。ねえ、エリック。ここにテーブルを運んでちょうだい。あと、メイドにお茶の用意をするよう頼んで」
「かしこまりました」

 頭を下げ、エリックは早速邸宅へと向かった。一応ここでお茶会をするということになったようで、アデラはホッと息をついた。それぞれ三角形の頂点になるよう東屋に腰掛ける。

「さて、改めてだけど、これからよろしく、アデラ」

 人好きのする笑みで、シドニーは右手を差し出した。アデラは満面の笑みでそれを握りしめる。

「よろしくお願いします!」
「元気の良い子だね」
「アデラは昔から元気よ」

 シェリルは肩をすくめた。

「それに、君にそっくりだね」
「そう?」
「本当ですか!?」

 母親に似ていると言われるのは嬉しい。アデラは勢い込んで訊ねた。

「うん。髪の色はもちろんだけど、瞳や鼻が似てる。可愛いよ」
「あ、ありがとうございます」

 アデラは照れっとした笑みを浮かべる。シェリルは呆れたように首を振った。

「アデラを口説かないで」
「あんまり可愛いものだからさ。でも安心して、俺は君一筋だから」
「もう、シドニーったら」

 アデラのことをものともせず、二人はついばむようなキスを交わした。アデラには少々刺激的で、赤面したが、恥ずかしさよりも喜びの方が勝った。シェリルが幸せそうなのが嬉しかったし、父となるシドニーが優しいので尚更だ。
 丁度折よくテーブルが運ばれてきた。東屋の中央に配置され、ティーセットの準備もなされる。

「さあ、ケーキを食べましょう」

 シェリルはトンとケーキの箱をテーブルの上に置いた。

「アデラ、好きなものを選びなさい」
「いいの?」
「もちろんよ」

 箱を広げ、アデラは思い悩んだ。シェリルは遠慮なくと言ったが、ケーキは全部で四つあった。シェリルが好きなのはモンブランだ。だからそれは除外。
 シドニーが好きなのは何だろうとアデラは頭をこねくり回したが、この短い時間で彼が何を好むのか判断がつくわけがない。
 内心冷や汗をかきながら、アデラはチーズケーキを選んだ。シドニーの顔色を窺ったが、別段変化は見られない。アデラは胸をなで下ろした。

「じゃあ私はモンブラン」
「僕はチョコケーキにしよう」

 エリックが紅茶を入れるのを横目に、三人は同時にケーキを口に入れる。ほどよい甘さに、アデラはうっとりと目を閉じた。

「おいしい!」
「そりゃそうよ。この街有数のお店よ。かなりの時間並ばないと買えないんですって」
「へえ……」
「そういえば、もう授業が始まってるって言ってたね? もしかして、マナーの講師はモリンズ夫人?」
「あっ……」

 アデラは慌てて頭の中を整理し、パトリスの家名がモリンズであったことを引き出した。

「はい、そうです。知ってるんですか?」
「知ってるも何も、俺もモリンズ夫人に行儀作法を教えてもらったからね。辛いでしょ、あの人」
「……そう、ですね」

 なんと言ったものか、アデラは曖昧に笑った。それだけで全てを察したようで、シドニーも同じように笑った。

「俺も苦手だったなあ、あの人の授業。厳しくて厳しくて」
「変えてもらうことはできないの?」
「難しいなあ。グレイディ家は代々モリンズ家にお世話になってるから」
「いじめられたら私に言いなさい? 文句言ってやるから」
「うん!」

 アデラは元気よく頷いた。
 アデラが長年恋い焦がれていた幸せな家族の形がここにはあった。ケーキを食べずとも、アデラは胸が一杯になった。