第三章 伯爵邸

45:お腹空いた


 メイドが出ていった後は、入れ替わり医者がやってきた。診察してもらった後、薬を飲んで再び寝た。次に目覚めたのは、夕方だった。お腹は非常に空いていたが、メイドを呼ぶ気分にはなれなくて、寝返りを打つ。ふとシェリルのことが気になった。お母様は、私が風邪を引いていることを知っているのだろうか、と。
 一度気になってしまうと、もうそれ以外のことは考えられなくなってしまう。アデラは、力を振り絞ってベッドから這い出した。身体を支えるためにベッドについた細腕は、思っていたよりも力が入らず、カクンと折れる。

「あっ」

 体勢を崩し、アデラは地面に転がり落ちた。ドスンと自分でも痛そうな音が響く。実際痛かった。アデラは涙目になりながらその場に丸まる。間をおかず扉が開いた。

「お嬢様!?」

 エリックだった。彼は、アデラが風邪を引いているときも護衛をしていたらしい。

「大丈夫ですか? 何があったんですか?」
「別に……。ちょっと外に出ようと思って」
「声をかけてくだされば、いつでも駆けつけますのに。それで、ご用は何ですか?」

 改めて問うエリックを、アデラはしばらく見つめた。聞くことは簡単だった。だが、熱を帯びた身体は、アデラから勇気をも奪っていた。

「……何でもない」

 小さい声はエリックには届かず、聞き返された。アデラは今度は力強く返答した。

「何でもない」

 もの言いたげな視線を感じた。しかしアデラはかたくなに口を開こうとはしなかった。

「ベッドに戻ってください」

 有無を言わせない口調に、アデラは大人しくベッドに戻った。随分体力を消耗してしまったようで、横になった瞬間疲れたような吐息が漏れ出た。
 エリックはアデラに毛布をかけ直した。

「食欲がないって本当ですか? 少しでも食べないと、体力がつきませんよ」
「……分かってる」

 お腹は空いてる。しかし、食べたくない。

「エリックは私のことどう思ってるの?」

 アデラの口が勝手に動き出した。

「どう……というのは?」
「私なんかの従僕になって、嫌だなあって思ってるでしょ?」
「そんなこと……」
「いいのよ、分かってるから」

 拗ねるように言い、アデラは毛布を被った。

「どうしても疑ってしまうのよ。噂してるんじゃないかって。また悪口言われてるんじゃないかって。娼婦の娘って言われるのが嫌なの。私は何を言われても良い。でもお母様を馬鹿にするのは許せない」
「誰のことをおっしゃってるんですか? もしかして、僕たち使用人のことですか?」

 心配そうな問いにもアデラは答えない。熱で浮かされた頭が考え出すことは支離滅裂で、自分自身何を言っているのか分からないのだから仕方がない。

「嫌がらせされてるんですか?」

 毛布の固まりがもぞもぞ動き、エリックはその動きから否定だと受け取った。

「でも、これからどうなるか分からない」
「ここの方達は、悪い人たちじゃありませんよ」
「どうして分かるの? どうしていい人だって分かるの? 表面上ではニコニコしていても、心の底では、何考えてるか分からないじゃない」
「それは……」
「弱みを見せちゃ駄目なの」

 何かを決意するような強い声に、エリックは何も返せずにただそこに立っていた。


*****


 アデラの風邪は長引いた。それもそうだ。ろくに食べることもせず、終始寝てばかりだったので、体力がつかなかったのだ。嫌そうに薬は服用するが、食べ物は、エリックが持ってきた物しか口にしない。エリックはほとほと困り果てていた。
 三日も寝込んでいれば、アデラの風邪についてはグレイディの耳にも入ってきていた。始めは日常の些末な出来事として聞き流していたグレイディだったが、さすがに三日目ともなるとソワソワしていた。医者から容態を聞き、エリックに様子を尋ね、心配なら見に行かれてはと提案されるものの、お見舞いに行ったからといって容態が回復するわけでもないと断る。
 加えて、アデラがグレイディのことを苦手としていることも、アデラの部屋へ向かう足を躊躇わせる要因の一つだった。
朝食でアデラと同席することになると、彼女が全身を緊張に硬くしていることには気づいていた。そんな自分が弱っているときに見舞いに行ってどうなるというのか。更に神経を張り詰めさせ、体力を消耗することなど目に見えている。
 四日目にまで突入したとき、グレイディの腰はようやく上がった。とはいえ、当主として日々の仕事が忙しいのはもちろんのことだったので、暇を作れたのは真夜中。ただ、顔を見るだけのつもりだったので、むしろアデラが寝ている時間帯で良かったと思った。
 月が煌々と輝く時間帯、主に忠実なエリックもさすがにアデラの所にはいなかった。寝ているところを起こすのも悪いと、グレイディはノックをせず静かに扉を開けた。
 夜とはいえ、カーテンを閉めていない部屋はほんのりと明るかった。屋敷の中でも相当に大きい窓がある部屋の一つをあてがったのだから、それも当然か。
 流れるようにベッドに目を移したグレイディだったが、思いのほか大きい影に当惑する。寝ているものと思っていたが、アデラは身を起こしていた。

「まだ起きておったのか」

 青白いアデラの顔が確認できるまで近づくと、傍らの椅子に腰掛けた。

「夜更かしをするから風邪を引くんだ」
「……ちゃんと規則正しい生活をしてました。今日は一日中ずっと寝ていたので、夜眠れなくなってしまっただけです」

 言い訳のように口から出た声はか細かった。少し見ないうちに、ただでさえ小さい身体が一層小さくなってしまったように感じられる。

「食欲がないと聞いているが」
「そう……ですね。あんまりお腹が」

 空いてないんです、と言おうとしたのだろうが、アデラの身体は正直だった。くうううっとお腹が助けを求める音を出す。周りが一切の音を出さないものだから、余計にその音は哀れに響き渡った。
 アデラは反射的にお腹を押さえ、縮こまった。熱のせいもあって、彼女の頬は真っ赤っかだった。

「節食しているのか」

 グレイディは素っ気なく訊ねた。

「え?」
「体型を気にして、食事制限しているのかと聞いている」
「そういう訳じゃ……」
「じゃあなぜ食べない」
「…………」

 アデラは頑なに口を開こうとしなかった。放っておいてと言わんばかりに僅かに視線を逸らす。
 呆れたように小さく嘆息つくと、グレイディは何も言わず部屋を出て行った。ポカンとそれを見送ったアデラだったが、やがて何かに痛むように顔を顰めた後、前を向き、またぼうっとする時間を過ごす。
 だが、束の間の静かな時間はすぐに破られた。唐突に扉が開き、グレイディが入ってきたのだ。つかつかとベッドまで歩み寄ると、椅子に座りもせずにアデラに左手を差し出す。

「食べろ」

 困惑したようにアデラはグレイディを見た。彼の手には、皿に載ったパンが置かれている。

「これは……?」
「調理場から持ってきた。お腹が空いてるんだろう。温かいスープはなかったが……そういうものは正しい食事の時間に食べるんだな」

 アデラはパンとグレイディとを見比べながら、やがてそっと手を伸ばし、千切って食べ始めた。パンはパサパサしていて、決して食欲が増進されることはなかったが、今感じている空腹は紛らわせることができそうだった。
 大人しく食べ始めたアデラを見て、グレイディもようやく椅子に腰掛けた。そして同じく調理場から持ってきた林檎の皮むきを始める。慣れた手つきに、アデラは咀嚼することを忘れた。

「お上手……ですね」

 まさかグレイディ家当主に皮むきができるなんて思いもよらず、アデラはそう言うしかなかった。彼女の純粋な驚きに、グレイディは自分でも気づかないうちに薄い苦笑を浮かべていた。

「昔狩猟で野宿をしたこともあったからな」
「へえ」

 器用に剥かれた林檎を差し出され、それもアデラは大人しく口に入れた。乾いたパンで丁度喉が渇いていたところだったので、夢中で食べているうちに、いつの間にか林檎はまるごとなくなっていた。

「さあ、もう寝ろ」

 片付けをしながら、グレイディは素っ気なく言った。

「あの……ありがとうございました」
「早く治してもらわないと困るからな。ただでさえ他の子女よりも出遅れているというのに、これ以上授業を休まれたら敵わん」
「はい。早く元気になります」
「当たり前だ」

 そう言って頷いたアデラだったが、グレイディはなかなか部屋から出て行かない。射殺さんばかりに見てくるので、もしかして寝るまでここから出て行かないつもりだろうかとアデラは内心焦った。今日は本当に一日中寝ていたので、もうこれ以上眠れる気がしない。にもかかわらず、グレイディは寝るまでここに居座りそうな雰囲気だ。アデラはあまりの気まずさに毛布を口元まで引っ張り、無理矢理ギュッと目を瞑った。
 しかし不思議なもので、風邪っぴきのときはいくらたくさん寝ていても身体の方が回復に力を使うのか、どれだけ寝ても乾いたスポンジのように睡眠を必要とするらしい。つい先ほどまでの不安はどこへやら、アデラはすぐに寝入ってしまった。
 アデラの決して穏やかとは言えない寝顔を見ながら、グレイディは濡れた手巾で汗を拭ってやる。

「全く……手を煩わせおって」

 テーブルの上にあった水桶で一旦手巾を冷やしたが、ふと気になってその上に指を滑らせた。グレイディの目は誤魔化せなかった。軽く埃が溜まっている。
 メイドには、部屋の主が不在のとき――食堂で食事をとっているとき――に部屋の掃除をするよう言いつけている。グレイディ家の使用人は職務に忠実で、仕事の手を抜くなんてことはあり得ない――あり得なかったのだが、これは一体どういうことか。
 顔を顰めながら、グレイディは立ち上がった。
 何はともあれ、全ては明日だ。明日聞いてみようと扉へと向かう。ドアノブを回し、静かに開けたところで。

「お母様……お母様」

 不意に聞こえた寝言に、グレイディは後ろを振り向いた。
 変わらずアデラはベッドに身を横たえている。グレイディはしばらくそこに留まったままだったが、もう寝言は聞こえてこなかった。