第三章 伯爵邸
44:まさか風邪だなんて
朝から晩まで詰め詰めの授業に、常に緊張感のある食事。
アデラは精一杯やっていた。やっていたが……それにも限界が来た。慣れない環境に先に根を上げたのは、身体の方だった。知恵熱とでも言うのだろうか、頭を働かせすぎたのか、気を張りすぎたのか、とにかくアデラは熱を出した。
始め、アデラは自分が風邪を引いたのだとこれっぽっちも思わなかった。身体が熱かったし、怠かったし、頭痛もするしで、気分はもう最悪だった。だが、それでも風邪だとは思わない。フラフラになった状態で着替えをし、髪を整え、顔を洗って、ようやく外に出た。今日も今日とて、早くからアデラの部屋の前で待機していたエリックは、彼女の顔を見てギョッとした。
「あの……お嬢様?」
「……なに?」
返事をするのすら億劫だった。アデラは熱い息を漏らしながら小さく応える。
「お加減はいかがですか? もしかして、体調が優れないのでは?」
「……体調? 気分は悪いけど」
階段にさしかかった。手すりを見ながら、ここを滑り落ちたらどんなに楽だろうとそんな悠長なことを考えていたせいで、アデラは階段を踏み外した。一瞬の浮遊感を感じ、アデラは次に続くはずの衝撃に反射的に目を閉じた――が、思っていたほどの痛みはない。あるのは、上半身に感じる圧迫感。
アデラは、エリックに後ろから抱え上げられていた。
「あっ……れ? ごめんなさっ――」
自力で立ち上がろうとしたアデラだったが、ヒールが滑り、またもや落ちそうになる。下からの重力に、つんのめったエリックだったが、何とか踏ん張り、アデラごと後ろに倒れ込んだ。
突然の事態に、双方理解が追いつかず、二人ともしばしそのままの体勢でいた。どちらからともなく安堵の吐息が漏れる。
「ありがとう、助かったわ」
「いえ……ご無事で何よりです」
エリックはようやく腕を離した。胸の圧迫感がなくなり、アデラは息をつく。
「それよりも、やはりお風邪を召されてるようですね。身体が熱かったです。今日の授業は休みにしてもらうよう伝えてきます」
「私? 風邪?」
回らない頭で散々考えて……ようやく、アデラは自分が風邪を引いたのだと悟った。自覚した瞬間、どっと疲れが襲ってくる。アデラはその場で項垂れた。
「部屋まで歩けますか?」
「…………」
返事をする気力もなさそうなアデラを見たエリックの行動は早かった。彼女の膝裏に腕を差し込み、もう一方の腕は背中で支え――アデラを抱え上げた。
突然高くなった視線に、アデラは当然大慌てである。
「なっ、何――」
「じっとしていてください」
慣れない体勢に、アデラは非常に居心地が悪かったが、自力で部屋に帰れるかどうかもおぼつかなかったので、結局エリックの腕で大人しくしていた。
片手で器用に扉を開け、エリックはベッドにアデラを横たえた。
「人を呼んできます。何か食べたいものはありますか?」
「お水が欲しいわ」
「持ってきます。大人しくしておいてくださいね」
何度も念押ししてエリックは部屋を出て行った。そう間をおかずにメイドが一人やってきた。
「お風邪を召されたとか。お着替えを手伝いますわ」
「いらない……」
アデラは力なく首を振った。
「一人で着替えられるもの」
「では、何かご入り用のものはございますか?」
「エリックに頼んだから大丈夫」
「さようでございますか」
つれないアデラに、メイドはそれ以上聞くことはせず、失礼しますと出て行った。アデラとしては、他人に居座られるよりは、一人きりのこの状況の方がよっぽど落ち着いたので、内心喜んだ。
そろそろ着替えようかと、アデラはごろんと仰向けになる。昼用のドレスは締め付けがきつく、寝るには不適切なのだ。だが、背中に手を回した所で、今日はファスナーだったことを思い出した。首元まであるファスナーなので、当然一人では着替えられない。先ほどのメイドに、せめてファスナーだけでも下げてもらえば良かったとアデラは脱力した。どうしてこうも頭が回らないのだろう。
アデラはそのままの体勢でエリックを待った。いつの間にかうとうとしていたようだったが、物音でハッキリ目を覚ました。
「……エリック?」
「何でしょう」
「ファスナー下げて」
うつ伏せになったままアデラは力なく頼んだ。
「……もうすぐメイドがやってきます。着替えを手伝ってもらってください」
「さっき追い返しちゃったわ、一人でできるって。ねえ、ファスナー下げて」
「…………」
いろいろ面倒くさくなって、エリックは仕方なく背中のファスナーを下げた。そしてため息交じりに終わりましたと声をかける。
「気に入らないメイドでもいましたか?」
続けて問うと、ピクリとアデラの肩が揺れた。
「別に……そういうのではないわ」
「そうですか。お水持ってきました。飲まれますか?」
「ええ」
ごろんと仰向けになり、アデラは起き上がろうとした。すかさずエリックは背中に手を当て、身を起こすのを手伝った。コップ半分ほどの水を飲んだところで、アデラは力尽きたようにまたベッドに横になった。そんな彼女にエリックは甲斐甲斐しく毛布を掛ける。
「お腹はお空きですか?」
「今はまだそんなに」
「じゃあ昼頃に軽いものをお持ちしますね」
「ええ」
「しばらくはゆっくり休んでください」
軽く微笑んで、エリックは静かに退室した。ほうと熱い息を吐き出し、アデラは目を閉じた。
次にアデラが目覚めたのは、人の気配と、鼻腔をくすぐる香りに反応したときだった。もうそんな時間か、とアデラは寝転がったまま目線だけを動かす。視界に映る仕着せに、アデラは眉を寄せた。
「お加減はいかがです?」
アデラが起きたことに気づくと、メイドは傍らに近寄ってきた。トレイをサイドテーブルに置き、水の補充をする。
「良くはないわ」
「お食事をお持ちしましたが、召し上がりますか?」
「いらない……」
「スープだけでもいかがですか? 食べやすい冷たいスープですが」
「いらないわ。お腹空いてないから」
「そうですか……」
テーブルに並べた朝食を片付けかけたメイドだったが、やがて思い出したようにその手は止まる。
「果物だけでも」
「いらない」
三度断られ、さすがのメイドももう聞くことはしなかった。
退室しようとする彼女を見て、アデラは声をかけようかと迷った。シェリルのことを聞きたかったのだが、しかし弱みを見せてはならないとアデラの中で警鐘が鳴り響き、結局聞くことができなかった。