第三章 伯爵邸

43:私がやるべきこと


 翌日の朝食の席では、グレイディは普通だった。アデラもいつも通りだった。グレイディに、昨日のことを気にしている様子はない。しかしそれは想定内だった。彼にとって、アデラとのことは日常のほんの些細な出来事の一つなのだろう。アデラがどんな心情になろうと、彼女がアトラリアさえ行かなければ、彼はそれでいいのだ。

「アトラリアにはもう行きません」

 にもかかわらず、アデラはわざわざ過去の問題を掘り起こした。とはいえ、グレイディの言いなりになるわけでも、喧嘩を売るわけでもない。ただハッキリさせたかっただけだ。これからのアデラの目指す先を。

「でも、行きたいという気持ちがなくなったわけではありません。アトラリアでは、大変お世話になりました。そのお礼を言いに行く、恩を返しに行くことが、そんなに駄目なことなんですか? お世話になった方に挨拶もしない。それは貴族の令嬢としてどうなんでしょう?」

 ようやくグレイディの食事の手が止まった。口を挟まれないよう、アデラは早口になった。

「でも、アトラリアに行くことが、私だけでなく、他の人の迷惑になるというのであれば、私はそれを無視して行くことなんてできません。そんなことをするよりも、私がしないといけないことは、グレイディ家の……養女として、マナーや教養を身につけていくべきだと私は思いました」

 アデラはスカートの端をギュッと掴んだ。

「私も、今の自分が全然何もできない存在だっていうことは分かっています。なので、もし……私が少しでも理想の淑女に近づいたと思ってくださったときには、アトラリアに行く許可をください」

 アデラはようやく口を閉じた。長々と話したので、喉がカラカラだった。しかし、グレイディはずっと黙ったままなので、アデラも身動きができない。

「……良いだろう」

 しかし、やがてしっかりと言葉にされた肯定に、アデラは深く頭を下げた。

「ありがとうございます。――お爺様」

 雲が晴れたような笑みを浮かべ、顔を上げたアデラだったが、途端にグレイディと目が合い、気恥ずかしくなってまた顔を下げた。その後は、自分は何て大胆な行動をしたんだろうと急にソワソワし出し、早めに食堂を退室するに至った。
 食堂を出たら出たで、扉を背に、アデラはしばしその場から動かなかった。思いっきり力を抜いて、全ての緊張を身体から取り払う。

「お嬢様?」

 エリックが怪訝そうに顔を覗き込む。アデラは顔に熱が集まったのを何とかしようと、ヒラヒラ手を振った。

「何でもない、何でもないわ」
「ですが……」
「そういえば、まだ授業まで時間あるわね。東屋の方へ行こうかしら」

 いつまでもここにいれば、グレイディと鉢合わせしてしまう。アデラはサッサと立ち上がり、庭へ出た。東屋のお気に入りの定位置に腰掛け、ポケットからハンカチと裁縫道具を取り出した。自分の部屋よりも東屋の方が落ち着くので、食後に練習しようと道具を持参していたのだ。

「とりあえずは、刺繍ね……」

 慣れた手つきで針に糸を通すと、チクチクと刺していく。単調で地味なその作業は、空から降り注ぐ温かな陽光も相まって、眠気を誘う。

「私、こういう細かいの苦手なのよね」

 眠気を取っ払うためにも、アデラはエリックに話しかけた。

「それでも、チューリップって言われたとき、私本気で頭にきたわ」
「……すみません」

 居たたまれずエリックは縮こまる。アデラは笑ってそれを受け流した。

「私しばらくここにいるから、座ったら?」
「いえ、こちらで大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「……本当、エリックって堅苦しいわね。私と同い年くらいでしょう?」
「お嬢様は今おいくつですか?」
「十三よ。エリックは?」
「僕も十三です」
「やっぱり同い年なのね。……何だか悔しいわ」
「え?」

 小さく呟いた言葉は、エリックには届かなかった。同い年のくせに、自分よりも何倍もしっかりしていることが何だか悔しかった。

「そのハンカチも誰かにプレゼントされるんですか?」
「ええ、お母様に。もうすぐお誕生日だから」
「若奥様もお誕生日が近いんですか?」
「そうよ」
「偶然ですね。旦那様も来月お誕生日なんですよ。旦那様にもハンカチプレゼントされたら、喜ばれると思いますよ」
「……お爺様に?」

 アデラは嫌そうに聞き返した。別に、アデラはグレイディが嫌いなわけではない。厳しい人だとは思うが、それはアデラが普通以上に何もできないせいもあるのだから、仕方がないと理解している。ただ、問題は、刺繍の出来をグレイディに評価されるのではないかということだ。彼にプレゼントするのであれば、そうそう下手なものは渡せない。お金もないのだから、贈り物は手作りのものしかない。今のアデラにできることといったら、裁縫くらいしかないのだ。

「まあ……そうよね。私の成長ぶりを実感してもらわないと、アトラリア行きは許してもらえないんですもの」

 そう言って、アデラは渋々納得することにした。グレイディの誕生日は来月。まだ時間はある。――が、グレイディのため息をつく光景がありありと脳裏に浮かび、アデラの刺繍をする手は格段と遅くなった。

「お爺様の好きなお花って知ってる?」
「いえ……さすがに存じ上げません。直接お尋ねしてみては?」
「聞きづらいからエリックに聞いたんじゃない」

 突然好きな花を聞かれて、グレイディが訝しがるのは想像に容易い。

「そういえば、エリックの誕生日はいつなの?」
「冬です」
「まだ先ね。エリックにもちゃんとしたハンカチプレゼントしてあげるわね」
「えっ」

 エリックは驚いたように声を上げた。

「ですが、この間僕ハンカチ頂きましたが……」
「あれは失敗作よ。チューリップにしか見えないハンカチプレゼントしたって思われたら恥ずかしいじゃない」
「……はあ」

 エリックはまたも申し訳なさそうな表情を浮かべる。アデラとしては、勘違いについてはもう気にしていないのだが、エリックの反応が面白いので、この後も何度か話題にしてみようと思った。