第三章 伯爵邸

42:自分が情けない


 一日の授業が終わり、ようやく一息つけるという貴重な頃合いに、アデラは何故だかグレイディに呼び出された。アデラは戦戦恐恐とした。何か伝達事項があるのであれば、朝食の時間に話せば良いこと。それをわざわざ呼び出すというのは、何か良くないことの前触れではないのか。
 伝言を伝えてからと言うものの、アデラが見るからに落ち込んでいるので、エリックは黙っておくことなどできなかった。

「お嬢様……すみません。僕のせいです。旦那様に、今日お嬢様はどこに行かれたのかと聞かれたので、アトラリア孤児院にと答えてしまったんです。旦那様は、それを良く思われなかったようで……」
「そう……でも、別に良いのよ。隠すことでもないし」

 浮かない顔でアデラは答える。頭にシェリルの言葉が浮かんだが、首を振ってすぐに追いやった。
 アデラが呼び出されたのは、グレイディの書斎だ。緊張を最大限に高めて、アデラは深呼吸する。頑張れとでも言うようにエリックがこっくり頷くので、それを合図に、アデラは扉をノックした。

「アデラです」
「入れ」

 留守だったら良かったのに、という願いも空しく、グレイディは返事をした。アデラは書斎へ入った。
 仕事部屋だというのに、中は暗かった。不気味でもあった。この暗さが、今のグレイディの気持ちを表しているようで、余計に。

「――今日は孤児院に行っていたそうだな」

 奥の肘掛け椅子に、グレイディが腰掛けている。アデラは彼の前に立った。

「……はい」
「お前が孤児院で育ったことは知っている。お前達は隠し通すつもりだったのかもしれないが、家に引き入れるのだ、調査くらいはしている」

 悪意のある言い方だが、アデラは何も言わない。そんな彼女を見て、グレイディはため息をついた。

「私が言いたいのはつまり、今後孤児院には行くな」
「……なぜですか?」

 口答えするつもりはなかったが、アデラは反射的に問うていた。

「どうして行ってはいけないのですか?」
「分からないのか? お前は……血は繋がってないとは言え、グレイディ家の娘だ。その娘が孤児院で育ったと言えば外聞はどうなる。弱みだ。グレイディ家の弱点になり兼ねない」

 弱点とまで言われ、アデラは自身が否定されたような気がした。両手をギュッと握りしめ、自分を鼓舞する。

「私は……お荷物にはなりたくないです。お母様に恥じない人になりたい。でも、アトラリアには、お世話になった人がいるんです。挨拶くらい……」
「もしそんなに行きたいのなら、慈善活動だということにして大々的に行きなさい。そういうことならば、こちらも馬車を手配する」

 グレイディの言葉に、アデラの肩はピクリと動く。視線を右に左にと動かし――やがて、決心したようにグレイディの所で止まった。

「慈善活動って言葉、孤児院にいたとき一番嫌いでした。哀れまれたくなかったし、施しなんか受けたくなかった。でも、そうしないと生きていけなかった。お金なんてなかったし、ご飯を食べるところも、寝るところも、孤児院じゃないとできなかった。そこが私の家でした。……それなのに、この家に引き取ってもらったからって、今度は、私が慈善活動する身になるなんて、そんなの……おかしい。私は何一つ変わってないのに」

 慈善活動だなんて言葉で、線引きをして欲しくなかった。してしまったが最後、今度こそ――ロージーに嫌われてしまう。

「アトラリアに行くことが不名誉だというのなら、行くときはただのアデラで行きます。出入りは裏口からするし、絶対にグレイディの名前は出しません」

 アトラリアにいるときのアデラは、アデラ=グレイディではなく、ただのアデラだ。それは昔も今も変わらない。
 明らかに異質な存在のアデラを、皆は受け入れてくれた。面倒な奴だと思ったかもしれないが、それでも家族の中に入れてくれた。今でも、アデラの一番はシェリルで変わりはない。しかし、アトラリアという場所がアデラの心の拠り所の一つとなったことも事実だ。
 そんな場所を、慈善活動だなんて言葉で穢したくない。
 譲る気のないアデラに、グレイディは頭を抱えた。両手を組み、そこに頭を押し当てる。

「情が移ってしまったようだな。もう手遅れか」

 つかれたため息は、重く深い。

「挨拶もできない、マナーもできない、ダンスもできない。出来損ないのお前をなんとか一人前として出せるようにしてるというのに、私に楯突くのか。何かかもが遅かったようだ。孤児院なんかにいたせいで……」
「――っ」

 カッとなって、アデラは握りこぶしを作った。冷静にならなくてはと思うのに、出てきた声は鋭く冷たい。

「孤児院にだって、私よりも小さいのにずっとお裁縫がうまい子がいる。ちゃんと敬語だって挨拶だってできる子がいる。王立学院の奨学金を勝ち取れる子だっている。全部私ができないから悪いのに、アトラリアのせいにしないで!」

 惨めだった。できないのは、全部私が悪いせいなのに。グレイディがアトラリアを馬鹿にすればするほど、余計自分の駄目なところばかりが頭に浮かんできて、空しくなってくる。
 グレイディ家に入る娘が頭の良いロージーだったら喜ばれただろうか? 愛想の良いコニーだったら? 礼儀正しいルイスだったら?
 きっとアデラは見向きもされなかっただろう。たまたま――そう、たまたまアデラがシェリルの娘だったというだけで。

「もういい。下がれ」

 これ以上は無駄だとでも言うように、グレイディは手を振った。まるで駄々っ子を相手にするような素振りに、アデラは口をパッと開けたが、結局何も出てこなかった。怒り、悲しみを押し殺すようにして唇を結ぶと、乱暴に頭を下げて出て行った。

「お嬢様?」

 エリックはすぐそこにいた。が、返事もせずにアデラはずんずん進む。とにかくこの書斎から離れたかった。向かう先なんてない。
 ――アトラリアにはもう行けない。グレイディに駄目だと言われ、それでも無視して行く勇気などアデラにはなかった。グレイディに睨まれれば、シェリルに嫌われてしまう。グレイディ家でうまくやっていこうとするシェリルの足を引っ張ってしまうことになる。
 行く宛のないアデラがたどり着いたのは、東屋だった。
 自分の部屋か東屋。
 アデラには、このどちらかにしか居場所がなかった。すっかり座り慣れたこの場所に腰を下ろす。立てた膝に、アデラは顔を埋めた。
 一人になりたかったのに、彼はついてきていた。

「お嬢様……すみません」
「どうして謝るのよ。いずれこうなったわ」
「でも……」
「悪いのは、分からず屋のあの人の方だわ」

 アデラはますます唇を尖らせる。

「でも、何も言えないのが悔しいの。私がもっと……ちゃんとできていたら、自信を持って言い返せるのに。私、自分が思っていた以上に、何もできないのよ。出来損ないなのよ。お母様に呆れられて当然だわ」

 自分で言っていて悲しくなってくる。アデラは一層頭を下に沈めた。鍵をかけるように、腕を縮こまらせる。

「ロージーみたいに頭良くないし、ルイスみたいに礼儀正しくない。コニーみたいに可愛くないし、フリックみたいに人なつっこくない。お母様だって、きっともっとよくできた子が良かったんだわ。私みたいな……落ちこぼれで嫌に決まってる」

 何度落ち込めば気が済むんだろうと、アデラは自分でも嫌気が差していた。シェリルが迎えに来てくれたときは、今までで一番幸福だと実感したのに、これからもずっと幸福が続くと思っていたのに、今のありさまはどうだ。
 アデラは自分を叱りつけるように両腕を強く握りしめた。

「お嬢様」

 すぐ側にエリックの気配を感じた。が、アデラは微動だにしない。

「…………」
「あの、お嬢様」
「何よ」

 控えめではあるが、押しの強いエリックの声に、アデラは渋々顔を上げた。そうして、すぐ顔の前にあった赤色に、目を点にする。

「……なに、これ」
「バラがお好きだと聞いたので」

 エリックは、一輪のバラを差し出していた。見事な大輪のバラで、鮮やかな赤色が目に眩しい。

「怒られるわよ?」
「え?」
「こんな風に千切ったら。私も前の家で怒られたことがあるの。お母様のためにバラを摘もうとして、適当に千切ったから、庭師の人にね」
「そ、そうですか……」

 しょんぼりするエリック。そんな彼が何だか可愛く見えてきて、アデラはスッと彼の手からバラを引き抜いた。

「でも、ありがとう。これは私たちだけの秘密ね」

 くるくると手の中でバラを回しながら、アデラは微笑んだ。
 しかし、そうしている内に、手が水気のようなものを感じ取り、バラに目を落とす。始めは真っ赤な花弁に目がいくが、茎の部分に本来あるはずのない赤色がついているのを見て、アデラはハッとしてエリックの手を掴んだ。指先から僅かに血が出ていた。

「怪我してるじゃない」
「これくらいなんともないですよ」

 エリックはやんわりアデラの手を押しとどめる。アデラはお姉さんぶってポケットからハンカチを取り出した。

「ちゃんと手当てしないと。これ使って」
「お嬢様のハンカチを、そんな……大丈夫です」
「昨日の授業で練習用に縫ったものだから。気にしないで。あげるわ」

 無理矢理ハンカチを押しつけると、エリックは不承不承といった様子で受け取った。だが、ハンカチの隅に刺繍された模様が気になったようで、手当はそっちのけで刺繍をじっと見つめた。

「チューリップですか?」
「……バラよ」
「……すみません」
「謝られると余計虚しくなるわ」

 ふんとそっぽを向いたアデラだったが、次に返ってきたのはお礼の言葉だったので機嫌は通常に戻った。
 そう、通常に戻ったのだ。どうしてあんなに落ち込んでいたかも、今となってはどうでも良くなってきた。アデラは最後に長く息を吐き出し、心を落ち着かせると、小さなかけ声と共に、シャキッと立ち上がった。