第三章 伯爵邸

41:どうすれば良かったの


 朝食をグレイディと一緒に食べるのは、もはや常習化していた。アデラとしては遠慮したいことではあるが、朝早く行われる授業にあわせようとすると、どうしてもグレイディと時間がかち合ってしまうのだ。かといって、この時間シェリルが朝食を食べにやってくることはない。もとより朝食など食べないのか、単に食べる時間が遅いのか、はたまた自室で食べているのかは、アデラにはあずかり知らぬことだ。アデラは、未だグレイディのことが苦手でならなかった。
 一月も経てば少しくらい慣れても良いものだが、グレイディとは大した会話もしないので、近づく距離もなお遠ざかるというもの。
 とはいえ、今日はいつもと少し違った。朝食の場で、アデラは思いも寄らない言葉を頂戴することとなったのだ。

「勉強の方はまだマシみたいだな」
「……えっ?」
「講師から話を聞いている。毛が生えた程度ではあるが、それなりにはできると」
「はい……」

 アデラは呆けた返事を返した。唐突に、しかも言葉足らずだったので、すぐには何のことを指しているのか分からなかった。ようやく理解したときには、アデラの頬はほんのり色づいていた。褒められたのだと気づいたのだ。

「――てっきり読み書きもできないものと思っていたが」

 ギクリとアデラは肩を揺らした。つい数年前まで、読み書きすら満足にできない有様だったことが分かっているのだろうか。

「それならそうと、早くに学院の試験を受けさせれば良かったな」

 独り言のようにグレイディは続ける。アデラの食事の手は止まった。

「今年の締め切りは終わってしまった。来年を待つとなると、一年か……。長いな」
「あ、あの……」

 アデラは、声をかけずにはいられなかった。訝しげな視線が彼女に向けられる。

「私、学院に入れてもらえるんでしょうか?」
「……そのつもりだが」

 返ってきた答えは、思いもよらず、そして、とても嬉しいものだった。みるみるアデラの口角は上がっていく。

「私、合格しました」
「……何だと?」
「慈善学校でずっと勉強していて、この前、試験を受けたら、合格したんです」

 アデラとグレイディは、しばし視線を合わせた。初めて彼の顔をしっかり見たとアデラは思った。

「合格してるんです」
「……そうか。なら、学院に入学希望の書類を送らねばな。合格証書はあるか?」
「はい! 持ってきます!」

 アデラはガタンと音を立てて立ち上がった。

「後で良い。今は食事中だ――」

 グレイディは慌てて声をかけたが、その時にはもう既にアデラは食堂を出た後だった。そして彼女は、光の速さで合格証書を持ってくる。

「あの、私、今日の授業休んでも良いですか?」

 証書を渡した後ももじもじしている――と思ったら、アデラはこんなことを言い出した。グレイディは訝しげ聞き返した。

「なぜだ」
「あの、知り合いにも、伝えてくて……学院に通えるってこと」
「…………」

 散々黙した後、グレイディは渋々頷いた。

「午後の授業には間に合うようにしなさい」
「――っ、はい! ありがとうございます!」

 アデラは、ここ最近で一番の笑みを見せた。朝食をほっぽり出して出掛けようとするアデラに、グレイディは嘆息を返した。

「はしたない……」

 グレイディが呟いた言葉も、今のアデラには全く耳に入らなかった。


*****


 着の身着のままで、グレイディ家を飛び出したアデラは、まずアトラリアに向かった。無我夢中だったので、後ろからエリックがついてきていることには全くもって気づかなかった。アトラリアの前で呼吸を整えているとき、後ろからお嬢様と声をかけられたときには、事実飛び上がって驚いたものだ。

「どうして……こちらに? 授業を休むことは旦那様にお伝えしたんですか?」
「ええ。午後までに戻れば大丈夫だって」

 全速力で走ったというのに、悔しいことにエリックは顔色一つ変えない。主よりも体力がないのでは従僕も務まらないのだろうが、それでも何だか悔しい。
 気を取り直し、アデラは孤児院の中へ入っていった。まず向かうは食堂である。食事をしていてもしていなくとも、大抵子供達はここにいることが多い。
 何食わぬ顔で入ってきたアデラを見て、皆の視線は彼女に集まった。アデラはタバサに顔を向ける。

「ロージーは?」
「あ、アデラ……。一体どうしたの」
「ちょっとロージーに用があって。ロージーは?」
「今はお仕事中よ。まだ本屋にいるんじゃないかしら」

 なんとも運の悪い、とアデラの顔は一瞬顰められたが、すぐに眉間の皺をとき、また来るわと叫んで孤児院を出た。後ろからはなおタバサの呼ぶ声が聞こえていたが、今はそれどころではなかった。

「お嬢様?」

 孤児院に入っていった、と思ったらすぐに出てきたアデラを見て、エリックは困惑気味に声をかける。だが、本屋に行くわと答えただけで、アデラは再び走り始める。
 アデラの身体能力は、同じ年頃の少年少女と比べて圧倒的に低い。走る速度は遅いし、体力だってない。アデラは息も絶え絶えになりながら、ようやくの思いで書店にたどり着いた。

「あ、あの、ロージーは……」

 ついて早々、アデラはカウンターに駆け込んだ。だが、そこにいたのは店主とみられるポールで、店内を見渡してみても彼女の姿はない。ポールは驚いたように目を丸していたが、すぐに微笑んだ。

「用事があるそうで、今日はもう帰ったよ」
「帰った!?」

 何て運が悪いんだろうとアデラは卒倒しかけた。折角ここまで走ってきたのに、まさかアトラリアにいた方が早かったんじゃないかとアデラはがっくり項垂れた。とはいえ、ここで呑気にしていても、ロージーがやってくる可能性は皆無に等しい。アデラは渋々書店を出た。
 もはやアデラの体力は限界だった。ひょっとしたら歩くよりも遅いくらいのノロノロした足取りで、アトラリアへ向かう。

「……ロージーは?」

 一縷の望みをかけて、アデラはタバサに聞いた。タバサの表情を見て、アデラは希望が打ち砕かれたのを悟った。

「一度帰ってきて、また出掛けたわ。ねえ、アデラ。そんなに慌ててどうしたの? 何かロージーに伝言?」
「直接伝えるから大丈夫……」

 またヒラヒラと手を振って、アデラはアトラリアを飛び出しかけ――やっぱり止めた。孤児院で待っている方が、よっぽど合理的だと気づいたのだ。
 ロージーはなかなか戻ってこなかった。そうしている間にも、グレイディとの約束の時間は迫ってきている。アデラはやきもきして入り口でウロウロし始めた。
 日が随分高くなってきたので、また出直そうかと考えていた頃、ようやく彼女は現れた。見慣れた人影に、アデラは大きく手を振った。

「ロージー!」

 影はパッと顔を上げたが、足取りを速めたりはしない。アデラは気が急って彼女に駆け寄った。

「ロージー――」
「何か用?」

 思いも寄らない冷たい声に、アデラの顔は固まった。聞き間違いだろうかとアデラは笑みを浮かべる。

「ねえ、ロージー。良いお知らせがあるの!」
「その前に、何か言うことがあるんじゃないの?」
「……何を?」

 不思議そうな顔でアデラは聞き返す。ロージーは苛立った様子で腕を組んだ。

「へえ、思い当たる節がないと。あんたにとって、あたし達ってそんなもんだったのね」
「何が言いたいの?」
「言葉通りの意味でしょ」

 ロージーは視線を逸らしながら短く突っぱねる。

「母親が迎えに来たからって、ろくに挨拶もせずに出て行って。明日か明後日には来るのかと思ってたら、一月経っても来ないし。コニー達、あんたのお別れ会やるんだって、ずっと待ってんだから!」

 アデラの開きかけた口が、再び閉じられる。
 コニーが、フリックがミンネが、皆の顔が浮かんでは消えた。

「用事があるときだけ会いに来て、あんたに振り回されんのはもううんざり。良かったわね、大好きなお母様が迎えに来てくれて! もうここに用はないんだから、お母様とずっと暮らしていけば良いでしょ!」

 言いたいことは言ったとばかり、ロージーはアデラの横を通り過ぎ、孤児院へ入っていった。

「何よ……何よ」

 アデラは一言も言い返すことができず、その場に立ち尽くしていた。
 言い返したかったし、悔しかったし、悲しかった。でも頭の中はぐちゃぐちゃで、エリックに声をかけられるまで、アデラはずっとその場に立ち尽くしていた。