第三章 伯爵邸
40:会いたいな
厳格なグレイディに、休む暇のない授業。
非常に閉鎖的で苦しいこの環境を、アデラは時々、庭園に逃げ込むことで息抜きしていた。
グレイディ家の庭園は本当に美しかった。来たときは夜でその全貌が全く分からなかったのだが、朝起きてふと窓から見下ろしたときに驚嘆したのだ、なんて綺麗な庭園なんだろうと。
左右均等の庭園は、やはり上からの眺めの方が圧巻で惚れ惚れとしたが、アデラとしては、実際に近くで見た方がより感動的だった。
低木のトピアリーに囲まれた噴水には細かい彫像が施され、暑い夏でも清涼感を感じさせた。上からでは分からなかったが、中心部のトピアリーはまるで迷路のようで、邸宅を振り返らなければ、どちらが北か分からない。導かれるように先へ先へと進めば、花壇に囲まれた小道に出、やがては花のアーチにたどり着く。アデラは、アーチを通り抜けた先の、鳥かごのような東屋が大のお気に入りだった。おとぎ話のようで本当に可愛い。アデラが昔絵本で見た夢のような光景がそこにはあった。
骨組みだけの東屋は、外からは丸見えであったが、立地自体は周囲を垣根で囲まれた場所なので、遠目からは隠され、秘密基地のようでもあった。部屋以外で一人きりになれるこの場所を、アデラはいたく気に入っていた。
とはいえ、アデラの護衛として常日頃から彼女について回るエリックがこの場所を知らないわけがなく、更に言うならば、実際アデラは一人きりではなく、彼女から見えない場所にエリックはいた。影が薄いのでアデラが気にしないようにしていただけで、アデラとてその存在はちゃんと理解している。
昼食を済ませた後、少しの間だけでも休息をとろうとアデラは休んでいた。アデラを気遣ってか、エリックはしばらくの間離れていたが、やがて戻ってくる。
忍び寄る気配にアデラは目を開けた。
「お嬢様。もうすぐ授業が始まりますよ」
その声は躊躇いがちだ。アデラの心情を汲んでくれたのかもしれない。
「分かってるわ。ちゃんと分かってる」
アデラは勢いよく立ち上がった。憂鬱だったが、逃げたり泣き言を言ったりという選択肢はもとよりない。重たい足取りで邸宅へ向かった。
*****
朝起きるとき、アデラは部屋の明かりは点けない。窓はいつもカーテンを開けているので、朝日が入ってきており、明かりなど点けずとも充分明かるいからだ。
そのため、部屋に戻ってきて、明かりがついているのはおかしい。アデラは、扉を開けて早々気づいた。
――私の部屋に、誰かいる。
アデラの顔は強ばった。
「そこで何してるの」
その表情に違わぬ固い声が出る。アデラのベッド付近にいたメイドは慌てて姿勢を正した。
「そ、掃除をしようとして……」
「掃除なんていらないわ」
無碍なく突っぱねられ、メイドは目を白黒させる。
「で、ですが」
「いらないって言ってるでしょ! 出て行ってよ!」
金切り声に、メイドの顔は強ばった。自分の感情を押し殺すため、彼女の声はつい固くなる。
「かしこまりました。ご用がございましたら、お申し付けくださいませ」
頭を下げ、メイドは部屋を出て行った。彼女の後ろで、エリックが驚いたように見ているのが分かったが、アデラは気にせず、彼の鼻先で扉を閉めた。
アデラは憤慨していた。
言いつけられているのだから仕方がない。彼女に罪があるわけではない。
それでも、アデラに染みついた積年の記憶というのはなかなかに払拭することができない。
一度荒ぶってしまった感情を落ち着かせるために、アデラはせり出した窓に腰掛け、景色を眺めた。
とはいえ、アデラの心は一向に落ち着かない。無意識のうちにポケットから鍵を取りだし、手の上で転がした。
この鍵――ルイスからもらった鍵は、アトラリアにいたアデラにとって、お守りのような存在だった。時折――ほんの時々、少しだけ寂しくなったときに、こっそりアトラリアを抜けだし、ルイスの屋敷へ行くときに必要な鍵。
彼の小部屋にあるアデラの宝物は、寂しい心を慰めてくれた。たとえ父親からの贈り物が偽物だったとしても、買ってくれたのは母親であることに変わりはない。それに、純粋にシェリルがアデラのためを思って買ってくれたものだってたくさんあった。それに囲まれていると、アデラは心安らいだ。
一人きりになれる、という空間も一役買っていた。アトラリアは一人部屋ではないし、常に周りに誰かがいる。最近ではそれも煩わしくはなくなってきたとはいえ、それでもやはり時として一人になりたいときもあるというもの。
そういえば、まだちゃんとしたお別れの挨拶もしてないと、アデラはぼんやり思い出した。また来るわと適当に返事をしたきり、それ以来一度も会ってないのだ、アトラリアの皆に。
その上、今朝、朝食の席では、今後授業が増えるとグレイディから宣言されていた。というもの、令嬢には、行儀作法だけではなく、ダンスやピアノ、裁縫などは当然のたしなみであり、これから社交界デビューを控えているアデラには必須事項なのだという。それに加え、一般教養程度には学問も嗜ませると言われた。アデラとしては、ダンスなど聞き慣れない、耳慣れないものよりは、学問の方が興味があった。今までやってきたことが役に立つのであれば、それほど嬉しいことはない。
しかし、そうなると、いよいよアトラリアに行くことなどできなくなってくる。今ですら休憩時間は食後のちょっとした一時しかないというのに、授業が増えたとあらば、今まで以上にアトラリアに行く暇を見つけるのは難しいかもしれない。
――それとも、私のことなんか、忘れてるかしら。厄介払いできたと清々してるかもしれない。
そんなわけないとは思う。だが、自分だったらそう思うだろうなと感じてしまうのを止められない。
アデラは協調性がなかった。皆でワイワイやるのが好きではなかったし、何事も一人でやるのを好む。皆で仲良く遊んでいる光景を見て、自分はここにいてはいけない存在ではないのかとアデラは時々ふとそう思うのだ。
それに、若干の負い目もあった。アトラリアの子供達はそのほとんどに両親がおらず、いたとしても、コニーのように金銭的事情から預けられていることがほとんどだ。そんな中、自分だけが母親と暮らせるようになった。皆の前で、まるで自慢するようにシェリルに甘えてしまった。
――もう少し、周りのことを気遣えれば良かったかもしれない。
そんな風に考えられるくらいには、アデラは成長していた。
まだ日もそんなに高くはなく、温かい日差しに、アデラはいつの間にか眠気を誘われていた。窓の下では、ツカツカと邸宅に向かってくるパトリスの姿が会ったが、目を閉じた彼女の視界にはもう映らなかった。
そうしてしばらく。
『なんて所に座ってるんですか!』
『スカートから足が見えてますよ、はしたない!』
『さてグレイディ嬢。私の授業を忘れて居眠りをしていたことについてはどう言い訳されますか?』
とまあ、息つく暇も無いくらいに怒られたのは、苦い思い出である。