第三章 伯爵邸

39:失望されたくない


 どこからか響く遠慮がちな物音に、アデラは目を覚ました。ぼうっとする頭で何度か瞬きをし、いつもと違う天井を疑問に思う。柔らかい布団は暖かかったし、眠りに落ちる一歩手前は心地よかった。再び深い眠りにつこうとして寝返りを打つアデラの瞳に、白い仕着せの女性が映る。サーッと血の気を引かせ、アデラは布団を押し上げて上体を起こす。

「どうしてここにいるの」

 茫然としてアデラは呟く。自分だけの部屋だと言っていた。安全地帯だと思ったのに、どうして。

「どうして勝手に入って来たの」

 アデラの視線は鋭い。
 なぜこんなに怒っているのか分からず、メイドは狼狽えた。

「ノックをしましたが、お返事がなかったので、まだ寝てらっしゃるのかと……」
「何のために」
「お着替えを手伝うよう申しつかりましたので」
「いらないわ」

 アデラはピシャリと言い放った。布団を皺になるまでギュッと握る。

「手伝いなんていらない。一人でできる」
「あの……では、洗顔のための湯、こちらに置いておきますね。朝食は、食堂に用意しております」

 ぎこちなくサイドテーブルに洗顔器を起き、女性は頭を下げて出て行った。緊張の糸が切れ、アデラは息を吐いた。
 ベッドに腰掛け、しばらくじっとしていると、ようやく心身に落ち着きが出てきた。洗顔器で顔を洗って、軽く髪を整える。途中で朝食という言葉を思い出し、アデラは冷静になって自身の格好を見下ろした。――ドレスはすっかりシワシワになり、目も当てられない惨状を。
 折角お母様に買ってもらったのに、とアデラはしょんぼりした。元はといえば、着替えもせずに寝てしまった自分が悪いのだが、着替えるにしても、誰かに背中のファスナーを下ろしてもらわなければならなかったので仕方がないとも言える。
 とはいえ、問題は、こんな格好で階下に降りていくことなどできないと言うことだ。アデラは、昨日一日だけで、すっかりグレイディが苦手になっていた。これ以上彼に嫌われたくなくて、シェリルに失望されたくなくて、アデラは立ち上がると、そうっと扉を開けた。期待はしていなかったが、そこにいる人物を見て、アデラは歓喜を浮かべる。

「エリック! 丁度良いところに! ねえ、ファスナー下げてくれない?」
「僕が……ですか?」

 エリックは困惑しているようだった。だが、アデラはそんな些細なことは気にしなかった。後ろを向き、早く早くと身体を動かす。

「侍女に頼めば――」
「エリックが良いの。ねえ、早く」
「では……失礼します」

 エリックは躊躇いがちにファスナーを下げた。露わになった白い肌をなるべく見ないようにして視線を斜め上に向ける。

「できました」
「ありがとう!」

 それだけ言うと、アデラはさっさと部屋の中に入っていった。そうして昨夜の荷物を広げ、買ってもらったドレスを見聞し、適当に一着見繕う。お淑やかとはほど遠い仕草で豪快にドレスを脱ぐと、新しい綺麗なドレスに頭を通した。新品の匂いが鼻腔をくすぐり、くすぐったく感じる。それなりに格好がつくと、アデラはまた外に出た。

「エリック!」

 自分が呼んだ名前の主が、げ、という表情になったことに、アデラは気づきもしなかった。

「ファスナーあげてくれる?」
「…………」

 エリックはしばらく口をパクパクしていたが、結局何も言わず、ファスナーを上げた。

「ありがとう。じゃあ食堂に行きましょう」
「……はい」

 スカートを翻し、アデラは階下へ降りた。とはいえ、食堂へ続く扉を開くには、勇気がいった。何を勘違いしたのか、エリックが楚々と扉を開けてくれたので、アデラは入らざるを得なくなった。
 食堂には、人影が一つあった。アデラが期待していたシェリルではなく、むしろ絶対嫌だと思っていたグレイディである。先に朝食を食べ始めていたらしく、アデラが入ってきたのを見ると、視線を上げた。

「お、おはようございます」
「おはよう」

 とりあえずは挨拶を返してくれたことにホッとし、アデラは昨夜と同じように彼の斜め前の席に座った。二人きりのこの状況が耐えられず、誰か来てくれないかと願うアデラだが、飲み物が注がれ、パンが運ばれてもなお人の気配が全くしないので、諦めるしかなかった。
 会話の全くない、針のむしろのような時間が続く。ただ、昨夜の夕食よりはまだまともだった。今日はナイフを使う食事ではなく、簡単なサラダやスープ、パンが主だったのだ。
 毎日こんな食事だったら良いのにとアデラは幾分か落ち着いてやり過ごすことができた。
 早くこの場から抜け出したいと、アデラはいそいそと朝食を食べ終え、席を立った。食堂を出るとき、グレイディが一言アデラに発した。

「今日から教育が始まる。部屋で待ってるように」
「は、はい」

 承知したと何度も頷いて、アデラは食堂を出た。途端に全ての力が抜け、その場にしばし留まる。エリックの気配には気づいていたが、顔を上げられない。脱力したまま、アデラは訊ねた。

「お母様はどうしてるか知ってる? もう起きたかしら」
「さあ……存じ上げません」
「そう」
「聞いてきましょうか?」
「いえ、大丈夫よ」

 昼食になったら会えるかもと、アデラは重い足取りで自室へ向かった。
 部屋に一人きりになると、アデラは部屋の散策を始めた。片っ端らからタンスや引き出しを開けていって――何も入っていないのは分かりきっているが――これが全て自分のものなんだと胸をワクワクさせた。昨日買ってもらったバレッタはドレッサーの一番上の引き出しにしまった。ついで皺になってしまったドレスや、その他買ってもらったものを、クローゼットにまとめて吊した。
 圧巻だった。シェリルとの思い出がここにはあった。満足げに微笑むと、アデラはクローゼットを静かに閉めた。
 その後、ソファに座ってみたり、窓を開けてみたりと、アデラは終始ソワソワしていた。しかしそれもやがて収束を迎える。三回ノックの音が聞こえたのだ。
 アデラが返事をすると、講師らしい女性が入ってきた。黒に近い茶髪を後頭部でまとめ上げ、つり上がった眼鏡をかけている。鋭角な眼鏡が、それだけ彼女の性格を表しているように見えた。

「これからマナーの講師を担当するパトリス=モリンズよ」

 キビキビとした発声に、アデラは自ずと背筋を伸ばした。

「アデラです。よろしくお願いします」
「あなたは自分の名前もちゃんと言えないのかしら」

 パトリスは深々とため息をついた。彼女の言葉は初日を彷彿とさせ、アデラは顔色を悪くした。

「姿勢も悪いし、淑女がお辞儀? 挨拶の形が全くなってないわね」

 ツカツカと部屋の中央まで歩み寄り、アデラを見下ろした。

「良いこと、アデラ=グレイディ嬢? これから日常のちょっとした仕草、言葉遣いも授業の一部だとお思いなさい。全てが私の監視下に入ります。あなたの評価は私の評価。私の今後に繋がっていくから、厳しく接していきます。さて、まずは挨拶の仕方です」

 スッと背筋を伸ばし、パトリスは教鞭を執った。

「初対面の方には、まず本名を。名前や愛称は容易に許してはいけません。必ず親しくなってから。基本的には紹介を受けてから自己紹介。自らしゃしゃり出ては品がありません」

 パトリスはアデラの背中を叩いた。

「立ち姿が悪いわ。まず両膝のかかとをつけなさい。つま先は四十五度に開いて! 天井から頭頂部を糸で吊られているような意識を持ちなさい。目線は常に真っ直ぐに! 手は前に重ねて、笑顔は絶やさない!」

 昼食のときには、食事の作法も学んだ。常にパトリスに見られているので、ほとんど何の味も感じなかった。グレイディ家に来てからと言うものの、アデラはまともに食事にありつけたことがなかった。

「カチャカチャ音を立てない」
「はい」
「ほら、違う! 小手先だけで動かすんじゃありません。腕ごと使いなさい」

 突然左手に痛みが走り、アデラは小さく悲鳴を上げた。見れば、少し赤くなっている。何が起こったのか分からず、アデラはパトリスを見上げた。彼女は左手に長くしなる鞭のような棒を持っていた。

「育ちが知れますわ」

 まるで卑しいものを見るようにパトリスは見下ろしていた。

「一度染みついた汚れはなかなか取れないもの。あなたが今までどう過ごしていたかなんて容易に想像がつきます。全く嘆かわしい。どうしてこんな子がグレイディ家に入ることになったのやら」

 彼女の一言一句が身に染みた。パトリスの言葉が、そのまままるごとシェリルに言われているような気がした。
 昼食の後は、もう一度挨拶の復習、歩き方、言葉遣い等など、マナーの講義は留まることを知らない。たった一日だけではもちろんやりきれる内容ではなかったし、一日の授業が終わる頃には、手の甲は真っ赤に腫れ上がっていた。
 また明日と言い残したパトリスを見送った後も、アデラはしばらくその場から動けなかった。まだ彼女が見ているような気がして、気が抜けない。

「お嬢様?」

 エリックに声をかけられ、ようやくアデラは我に返った。初めてエリックの存在に気づいたように、瞬きをして彼を見やる。

「……エリック」
「夕食は下にご用意できております」
「お母様は?」

 短く問うたアデラだったが、この数日で、エリックは彼女が聞きたいことを十二分に理解できるようになった。

「もう食事は終わられたそうです」
「……そう」

 無意識のうちに左手を撫でながら、アデラは一歩後ずさった。ゆっくり扉を閉めようとしているのを見て、エリックは慌てて声をかけた。

「夕食は食べられないのですか?」
「食欲がないの。エリックももう休んで良いわ」

 それだけ言うと、アデラはパタンと扉を閉めた。要約の一人きりの空間が嬉しい。そう思う一方で、やはり心の底からこみ上げてくる寂しさはどうしようもなかった。