第三章 伯爵邸
38:もっと話したかった
ドレスの端を握り、アデラがごめんなさいと言うと、シェリルはようやく溜飲を下げたようで、アデラから視線を逸らした。
「とにかく、今日はもういいわ。エリックに部屋に連れて行ってもらいなさい。その後で夕食よ」
「お母様は?」
「私はもう休むわ。今日は何だか疲れたの」
ヒラヒラと手を振って、シェリルは中央階段を上がり始める。アデラも彼女の後についていった。二階の踊り場に出て、更に三階へ続こうとしたところで、エリックは声を上げた。
「お嬢様。お嬢様のお部屋は二階です」
「え? でも」
アデラは三階へと上がるシェリルとエリックとを見比べた。
「一緒の部屋じゃないの?」
「アデラもお年頃なんだから、その方が良いでしょう」
「え、ええ」
アデラとしては、むしろ同室が良かったのだが、何となく言い出しづらい雰囲気だったので、頷いておいた。結局、就寝の挨拶をする間もなくシェリルは自分の部屋に行ってしまったが、後で部屋に行ってみようとアデラは思った。折角久しぶりに会えたのだから、アデラはまだ母の温もりが恋しかった。
エリックの後に続き、グレイディ家の長い廊下を歩く。一定間隔を開けて部屋が配置されているようで、その数は計り知れない。自分の部屋の見分けがつくかしらと早くもアデラは不安だった。
「ここです」
あまりにも静かにエリックが止まるので、アデラは危うく通り過ぎるところだった。エリックが扉を開け、アデラに中に入るよう軽く頭を下げた。ゆっくりとアデラは部屋に足を踏み入れた。
「わあ」
そこは、白とピンク色で統一された部屋だった。今まで通ってきたホールや廊下は、全て落ち着いたセピア色で統一されていたので、違和感はあるが、きっとお母様がわざわざ自分のために用意してくれたんだわと、アデラは嬉しくなってその場でくるくると回る。
天蓋付きのベッドに、白い柔らかな材質のタンス、シックで大きなスタンドミラーに、細やかな装飾が施されたドレッサー。どれもアデラの胸を高鳴らせるには充分だった。中でも、外に張り出した大きな窓は異彩を放っていた。アデラの膝下程から、天井近くまである大きな窓は、邸宅の前が一望できて、前庭の大きさがうかがい知れる。上から見ても整った左右均等の庭園に、アデラは惚れ惚れとした息をついた。
しばらく座って窓からの景色を楽しんでいたアデラだったが、ふと夕食のことを思い出した。ルイスにケーキを奢ってもらってからと言うものの、何も口にしていなかった。そろそろいい加減お腹に何か収めたい所である。
そう思って扉を開けたところで、すぐその先に人の姿が目に映り、アデラは叫び声を上げた。まさかこんな所に人がいるなんて、誰が思うだろう。
人影はエリックだった。年の割には落ち着いた表情で、アデラを見返している。心臓を落ち着けて、アデラは問うた。
「どうしてこんな所にいるの?」
「護衛を申しつかりましたので」
「護衛? 誰の?」
「お嬢様の」
「私?」
護衛なんて大層なものが自分に必要とも思えない。だが、お嬢様とはそういうものなのだろうとアデラは自分を納得させた。
「側仕えも務めますので、ご用があればなんなりとお申し付けください」
「ええ……じゃあ、食事ってどうなるのかしら」
「階下でご用意しております」
その言葉を受けて、アデラは途端に表情を明るくした。これだけ立派な邸宅なのだから、食事もさぞ豪華だろう。どんなご飯が出るのだろうと、アデラは内心胸をわくわくさせた。
だが、そのトキメキは食堂に入室するや否や萎む。ガーデナーが椅子に腰掛けこちらを見ていたからだ。
「どうした、早くかけなさい」
「は、はい」
促され、アデラはおずおずと椅子に腰掛けた。ゆうに十人以上は座れそうな広いテーブルで、アデラはグレイディの斜め前に腰掛けた。すぐに給仕がやってきて、飲み物を注ぐ。喉はカラカラだったが、アデラはグラスに口をつけられずにいた。
テーブルマナーがなんたるか、アデラはさっぱり分かっていなかった。皿の上にある布は何なのか、どうしてナイフやフォークがたくさん並べられているのか。アデラは内心盛大に狼狽えたが、もう失敗はしたくないと、グレイディの方を盗み見た。バッチリと視線が合ってしまったので、彼女は慌てて下を向く。
給仕が前菜を運んできた。まだ皿の上に謎の布が置いたままだったので、アデラはそれを横に退けた。大皿の前菜を給仕はグレイディとアデラは、両方に取り分ける。アデラは目についたフォークを手に取り、サラダを食べた。ほどよくドレッシングがかかっており、きっと味も美味なのだろう。だがアデラは、極度の緊張から、味が全く分からなかった。あれほど空いていたお腹も、今では可哀想なくらい縮んでおり、食欲が湧かない。
何とか食べ終えると、次はスープが運ばれてきた。グレイディを見て、アデラもスプーンを手に取って口に運んだ。冷たいスープが身体に染み渡る。ようやく緊張がほぐれかけ、アデラはいそいそとスープを食べ終えた。ガーデナーが時折アデラの方を観察するように見ていることには気づかなかった。
酷かったのは魚料理の時である。グレイディ同様ナイフとフォークを使って挑んだが、力加減がうまくできず、ナイフが皿と擦れ、嫌な音を立てる。自分でもまずいと思っていたが、どう改善すれば良いか分からない。
「静かにしなさい」
ついにはグレイディに注意された。アデラはすみませんと小さく謝り、なお一層萎縮して食事に取りかかった。お腹も膨れ、残したいのはやまやまだったが、しかしそうすれば更に怒られるのではないかと思って、頑張って口に運ぶ。
すると、突然立ち上がり、呆気にとられるアデラを余所に、グレイディはナプキンをテーブルの上に置いた。
「不快だ。食事はもう良い」
茫然とするアデラを置いて、グレイディはさっさと食堂を出て行った。彼の皿にはまだ料理が残っている。動転したまま、何とか魚料理を食べ終えたと思ったら、また更に料理が運ばれてきた。威圧感を放つガーデナーはもういないというのに、時々現れる給仕からも評価されているのではないかと、アデラの心は安まる時を知らない。
それでもなおまだまだ運ばれる料理に、終わりが分からず、アデラは泣きそうになった。たった一人での食事は、寂しくて、惨めだった。
*****
永遠とも思えた食事の時間は、デザートで終わりを迎えた。運ばれてきた小さなケーキを見て、終了を確信したアデラは、急いでケーキを食べ終え、席を立った。食堂を飛び出し、階段を上がっていると、いつの間にか側にエリックがいることに気がついた。
「今日はお母様のお部屋で寝るわ」
アデラはそう宣言した。
「ねえ、お母様の部屋知ってる?」
「はい」
「連れて行って!」
アデラは縋るようにエリックを見る。エリックは困ったように何度か瞬きをしたが、やがては頷いた。
「こちらです」
「ありがとう!」
シェリルの部屋は、三階の端にあった。一番端なので、分かりやすくて一瞬で覚えられたので、アデラの気分は上々だった。軽快にノックをしたアデラは、返事を待たずに扉を開けた。
「お母様!」
シェリルはベッドにいた。室内は暗いが、サイドテーブルの明かりはついている。アデラは足音を忍ばせてベッドに近づいた。
「ねえお母様。まだ起きてる? 一緒に寝ましょう?」
「……アデラ?」
シェリルの声は、間延びした眠たげな声だった。
「もう一人で寝られるでしょう。部屋に戻りなさい」
「でも」
「私、明日朝早いの。もう寝させてちょうだい」
そう言って、シェリルは寝返りを打つ。背中を見せつけられ、アデラはそれ以上何も言うことはできなかった。
しばらく諦め悪くベッドの近くにいたアデラだったが、やがて穏やかなシェリルの寝息が聞こえ始め、力なく立ち上がった。サイドテーブルの明かりを消し、静かに部屋を出る。
エリックはまだいた。用が済んだなら、もう帰れば良かったのに。
のこのこ戻ってきたアデラを見てどう思っただろう。
アデラはカーッと頬が熱くなるのを感じた。自分でもどうしようもなく目頭が熱くなる。くるりときびすを返した。
「帰る!」
そう宣言はするが、似たような扉が並ぶ中、己の部屋を当てることなど不可能に近い。それはエリックも承知の上か、アデラの前に立って黙って道案内をした。
「……おやすみ」
「おやすみなさいませ」
顔も見ずに挨拶をすれば、エリックはちゃんと返してくれた。扉を閉め、アデラはようやく一人きりになる。
大きな窓からは、月光が降り注いでいた。明かりをつけずとも、充分明るい。
着替えなくては、と頭では理解しているものの、気が乗らない。ドレスを購入したときに、いくつか寝間着と普段着用のドレスも買ったので、着替えには事欠かない。だが、今はどうしようもなく動くのが億劫で、アデラは着の身着のままベッドに倒れ込み、目を閉じた。