第三章 伯爵邸

37:お母様!


 アデラはその場に立ち尽くしていた。自分の目が信じられなかった。だが、何度瞬きをしても、彼女はそこにいる。アデラの口角はゆっくり上がっていき、しまいには泣きそうな笑顔になった。

「お母様!」

 アデラは咄嗟に書けだしたが、うまく走れず、最終的には足をもつれさせて転びかけた。しかし、リシェルがうまく抱き留めてくれた。温かいぬくもりがアデラを包み込む。懐かしい匂いだ。アデラはそれだけで胸が幸福で一杯になった。

「アデラ。大きくなったわね」
「うん……うん!」

 自分は成長したかもしれないが、お母様は変わらない。
 アデラは胸いっぱいシェリルの香りを吸い込んだ。

「お母様、私を迎えに来てくれたの?」
「ええ、もちろん。荷造りをしてきなさい。新しい我が家に行くのよ」
「本当!? お母様と一緒に暮らせるの?」
「もちろんよ」

 当たり前のように帰ってきた返答に、アデラは満開の笑顔を咲かせた。今日ほど幸せな日はないと思った。お母様を待たせるわけには行かないと、名残惜しくも彼女の腕から離れると、アデラは一目散に孤児院の中へ入っていった。

「あっ、おかえりなさ――」

 コニーの挨拶も耳に届かない様子で、アデラは寝室に飛び込んだ。ベッドの下からトランクを二つ取り出し、そのうちの一つを開ける。普段使いのものをそこにポンポン詰めていき、あらかた自分のものを詰め終わったところで、ようやくトランクを閉める。アデラの私物などドレス以外ほとんどないので、荷造りはあっという間だった。二つのトランクを抱え、アデラはよたよたと寝室を出た。コニーやミンネが慌ただしいアデラを目を丸くしてみていたが、アデラはそんな光景は目に入っていなかった。

「おねーちゃん」
「――なに?」

 呼びかけられたところで、ようやく彼女たちの存在に気づく。だが、アデラの頭の中には、お母様のことしかなかった。

「おねーちゃん、どこか行っちゃうの?」
「ええ。お母様が来てくれたの。お母様のところに行くのよ」
「ほんとに行っちゃうの?」
「ええ」

 寂しそうなコニーの声に、アデラは全く気づかなかった。気分は鼻歌でも歌いたいくらい高揚していたので、些細なことは目にもとまらなかった。

「お母様! 待たせてごめんなさい!」

 パタパタと駆け足でアデラはリシェルに歩み寄る。いつの間にか、彼女の近くには大きな馬車があった。帰ってきたときには母親しか目に映らなかったので気づかなかったが、本当は入り口近くに重厚な存在感を放っていたのだ。アデラは口をあんぐりと開けて馬車を見る。

「大きい馬車ね! これに乗っても良いの?」
「もちろんよ。もうこれはあなたの馬車だから」

 アデラは嬉しくなって頷いた。バーンズ家では、馬車は窓から見下ろすもので、父親やイアンが乗っていたのは見かけていたが、乗ったことはなかった。彼らと同じになれたような気がして、アデラは頬を紅潮させる。

「さあ、エリック、アデラの荷物を積んで」
「はい」

 アデラは、更にようやく少年の存在にも気がついた。馬車の陰になっていたので、分からなかったのだ。

「この子は?」
「従僕よ。アデラ付きの」
「エリックと申します、お嬢様。よろしくお願いいたします」

 手を前にして、エリックはお辞儀をした。小綺麗な服装に、きちんとした挨拶。アデラは急に落ち着かなくなって、何度も頷いた。

「アデラよ。よろしく」

 挨拶を交わした後は、エリックはテキパキとアデラの荷物を詰め込んだ。アデラと変わらないくらいの年の頃だが、さすがは男の子と言ったところか、容易く二つのトランクを持ち上げ、馬車に積み込んだ。ついで、エリックは流れるような動作でアデラに右手を差し出す。

「お手をどうぞ」
「アデラ、早く乗りなさい」
「あ……ええ」

 高い段差だったが、アデラはなんとか馬車に乗り込む。フカフカの座面に腰掛け、人心地ついたとき、外から焦ったような声をかけられる。

「――っ、アデラ!」
「なに?」

 ロージーの声だった。アデラは前屈みになって馬車の入り口を見る。入り口の前にはシェリルが立っていて、外の様子はよく見えなかった。

「こんなに早く……行くの? もう遅いし、泊まっていけば……」
「ごめんなさいね。今日は他に行くところがあって、ゆっくりしていられないのよ」

 アデラが応えるよりも前に、シェリルが申し訳なさそうに割って入った。アデラは強く頷いた。

「また来るわ」

 そういえば、まだちゃんとした挨拶もしていないと、ようやくアデラは思い出した。入り口に身を寄せ、顔が見えないかと覗き込もうとしたが、乗ってきたシェリルに遮られる。彼女の後には、エリックが続く。彼が乗ったところで、扉が閉められた。

「行ってちょうだい」

 シェリルの声に、馬車が徐に動き出す。アデラは入り口に小窓があるのに気づいた。トントンと叩けば、ロージーが顔を上げる。アトラリアから、タバサやコニー、フリック達が出てくるのが見えた。
 最後に挨拶をしたくて、アデラは小窓を開けようとしたが、やり方が分からず四苦八苦した。ようやく開いたと思ったときには、もうアトラリアは見えなくなっていた。


*****


 馬車の中では、アデラの興奮した声が響いていた。孤児院でのこと、慈善学校でのこと、山や川で遊んだこと。アデラの毎日は、思い返してみると意外に刺激に溢れていて、シェリルに話しかけるための話題は困らなかった。だが、何度も何度もアデラがアトラリアでの話をするので、シェリルは片手を挙げて制した。

「もうあそこに行くのはやめなさい」
「えっ?」

 彼女の言うあそこ、がどこを指すのかが分からず、アデラは固まった。

「孤児院に決まってるじゃない」
「どうして?」
「外聞が悪いからよ。孤児院で暮らしていたことは決して誰にも言っちゃ駄目よ」

 再度どうして、と問いたくなったが、アデラはすんでのところで堪えた。頭の中は疑問で一杯だった。だが、うまく言葉にできない。反論したくなったのだが、嫌われたくなくて、アデラは言葉を自分の中に押し込んだ。
 代わりに、次の話題が頭に浮かんだ。これなら大丈夫だとアデラは身を乗り出す。

「そういえばね、この前王立学院に合格したの。すごいでしょう?」
「学院?」
「ええ、学校よ! 貴族の子なら皆が入りたがる学校なのよ。入るつもりはなかったけど、試しに受けたら合格したの」

 褒めて褒めてと言わんばかりに、アデラはシェリルを見上げる。シェリルはため息をついた。

「女の子に学は必要ないわ。むしろ、今後はマナーやダンスを身につけるべきでしょうね。今まで全くそんな考えに至らなかった自分が恥ずかしいわ。アデラ、明日から忙しくなるわよ」
「え? ええ……」

 アデラは曖昧に頷いた。孤児院の話も駄目で、勉強も駄目。ならば何を話そうかとアデラは思ったが、その二つ以外、アデラには何もなかった。

「それよりもアデラ、取り急ぎ、あなたの格好を何とかしなくちゃね。ねえ、次の通り沿いで止めて」

 御者台に続く小窓に向かってシェリルは呼びかけた。しばらくして、馬車が止まる。シェリルは懐から財布を取り出し、アデラに渡した。

「あそこの浴場で湯浴みをしてきなさい」
「お母様は?」
「私はいいわ。早く入ってきなさい」

 財布を押しつけ、アデラは馬車から降ろされた。公衆浴場など初めて入るので、アデラは勝手が分からなかった。とりあえず人の波に従って中に入る。アデラの格好は、ここではひどく浮いていた。使い古されたドレスとはいえ、ドレスであることに変わりはない。しばらく立って眺めていると、男性は右側の入り口に、女性は左へと入っていくのが分かった。アデラはその流れに従って、番台に金を払い、脱衣所に足を踏み入れた。
 そそくさと着替えて、アデラは一人浴場に足を踏み入れた。湿気た暑い熱気がアデラを出迎える。視界は良くはないが、いくつか湯船があることは分かった。ポツリポツリと幾人かの女性達が浸かっている。まずは温まろうとすぐに向かいかけたアデラだったが、自分の後から入ってきた女性が、まずは入り口近くでお湯を身体にかけているのを見て、倣うことにした。周りを観察する、ということを覚えた分、アデラも成長したのである。
 一番近い湯船に足を浸し、思い切って腰まで浸かった。湯は温かく、いつも冷たい川の水でしか身体を洗ったことがなかったので、新鮮な気分だ。肩まで浸かると、思わずほうっと息が漏れ出る。お母様と一緒に入りたかったな、とぼんやり思った。
 もう少し浸かっていたい気分だったが、お母様を待たせるわけにはいかないと、アデラは速攻で湯から上がった。一目散に身体と頭を洗い終え、ほくほくした顔でアデラが戻ると、馬車はすぐに出発した。
 浴場の次に連れて行かれたのは、洋服店だった。様々な既製品のドレスが立ち並ぶお店で、アデラは店の前で気後れしていたものの、シェリルは気にすることなく店内へ入っていった。

「適当に見繕ってあげるわね。アデラは確かピンクが好きだったのよね」

 言いながら、シェリルはたくさんのドレスを流し見していく。高級そうなお店に、アデラは居住まい悪く、シェリルの後をついて回った。

「ほら、これなんかどう?」

 シェリルが薄いピンク色のドレスを掲げた。袖口や裾にはふんだんにフリルが使われており、胸元の繊細なレースがポイントだろう。

「素敵だと思うわ」

 アデラは嬉しそうに頷いた。
 お母様が選ぶものなら、どれでも。

「今日はもう時間がないから既製品だけど……次はちゃんとオーダーメイドのものを買ってあげるわ」
「うん!」

 店の奥で、アデラは細かく寸法を合わせてもらった。バーンズ家から持ってきていたドレスは、今や全てのものが身体に合っておらず、裾は短いし、袖口はすり切れているしで、目も当てられない状態となっていた。だからこそ、新しいドレスがくるぶしまであることにアデラは感動した。肩も足も動きやすいし、何より色あせてない。

「似合うわ、アデラ」
「ありがとう」

 出てきたアデラを見て、シェリルは目を細めた。ちょいちょいと手招きをして、アデラを側まで呼び寄せる。

「そのドレスに合わせて、髪飾りも買ったの。後ろ向いて」

 お母様に髪を結ってもらうのなんて、いつ振りだろう!
 アデラはワクワクしながら完成を待った。アデラの髪はまだ濡れていたが、シェリルは構わず髪を解き、結い上げた。銀細工のバレッタは、アデラの髪によく映えた。

「どう?」
「ありがとう! とっても可愛い!」

 鏡の前で、アデラは何度も角度を変えて自分を見つめた。ドレスは可愛いし、バレッタは綺麗。あっという間にちゃんとしたお嬢様に変身した自分に驚きだったし、そして何より、隣にお母様がいることが嬉しくて堪らない。

「アデラもお年頃なんだから、たまにはこういうものもつけないとね」

 鏡越しにリシェルと目が合う。アデラはにっこり微笑んだ。
 リシェルやエリック同様、アデラもようやく身ぎれいになったので、ようやく新しい家に向かうようだ。アデラは緊張で次第に鼓動が早くなるのを感じた。

「次の家は、どんなところなの?」
「大きなお屋敷よ。伯爵邸。そう言えば言うのを忘れていたわね。私、再婚したの。シドニーっていう男性よ。グレイディ伯爵のご子息で、次期当主。アデラは伯爵令嬢になるのよ」
「伯爵……?」

 いまいちアデラは理解ができなかったが、とりあえず頷いた。前のお父様と別れ、新しい人と結婚したというのが分かっただけで充分だ。
 今度のお父様とは、仲良くなれるかしら。
 アデラは不安の面持ちで、目まぐるしく変わる市街を眺めていた。
 伯爵邸に到着したのは、もうすっかり日が落ち、辺りが真っ暗になった頃だった。とはいえ、道路や、もちろん伯爵邸の入り口にもポツリポツリと街灯があるので、地面が暗いということはない。馬車はガタガタ音を立てながら、ポーチまで進んだ。
 入り口の前で停止し、エリックのエスコートでアデラとリシェルは馬車から降り立った。

「お荷物、お部屋まで運んでおきます」
「ありがとう」

 新しいお屋敷は、まるで宮殿のようだった。左右均等に作られた邸宅は、見るものに安心と威圧を与える。取り立てて何か細かい装飾が施されているわけではないが、とにかく横にも縦にも大きい。自分の背丈の何倍あるんだろうとアデラは考えていた。
 入り口は少なくとも三つあり、アデラは中央の一番大きい扉の前に立っていた。ただでさえ気後れして戸惑うアデラに対し、リシェルは堂々と邸内へ入っていく。

「お帰りなさいませ、若奥様」
「ええ。シドニー様は?」
「もうすぐおいでになられます」

 暗闇から一転、途端に明るい場所に出たので、アデラはしばし立ちくらみを起こした。目を細め、シェリルのドレスの影に隠れて周りを見渡す。目に飛び込んでくる情報量が、慌ただしかった。大きなシャンデリアに、柔らかい絨毯、高そうな壺に肖像画。そのどれもアデラを威圧するには充分だった。まるでここはお前にふさわしくないと言っているようで、小さく縮こまる。
 その時、音を立てて正面の扉が開いた。杖をついて、ゆったりとした足取りで一人の老人が歩いてくる。アデラとシェリル、二人を射貫くその眼光の鋭さに、アデラは恐れおののき、思わず下を向く。

「ご挨拶なさい」

 リシェルはアデラの背をトンと叩いた。アデラはドギマギと老人を見つめる。

「こ、こんばんは」

 アデラはぎこちなく頭を下げた。突然挨拶を、と言われてアデラは正直戸惑った。ドキドキと相手の反応を待っていると、上からため息が降ってきた。

「挨拶もきちんとできないのか」

 その言葉は、アデラを凍り付かせるには充分だった。

「見目ばかり整えても無駄だ。教養なぞないのは見れば分かる。親子揃って行儀もマナーもなってない。親が親ならば子も子。これだからどこの馬の骨とも分からない女を引き入れるのは嫌だったんだ。コブ付きがどうやって息子をたぶらかしたのかは知らないが、ここでも同じような手が通じると思うな」

 老人は冷たく鋭い目をしていた。何もかも見通すその目がアデラは恐かった。ごめんなさいと思わず視線を逸らせば、老人は鼻を鳴らし去って行った。彼の姿が見えなくなってようやくアデラは人心地ついた。

「――全く!」

 シェリルは苛立たしげに呟いた。

「何て嫌みな人。頑固で偏屈、あの人も可哀想ね、こんな所で育って」

 ふん、と顔を逸らした先には、アデラがいた。

「アデラ! どうしてちゃんと挨拶できないの。私恥ずかしく思ったわ。まさか自分の名前すら言えないなんて。やっぱり徹底的にマナーの教育が必要ね」

 責めるような瞳で見られ、アデラは初めて自分のことが恥ずかしくなった。
 ――お母様が、私のことを恥ずかしいと。
 その事実は、すごく辛くて苦しくて、アデラはその場から消えてしまいたくなった。