第二章 慈善学校
36:寂しくなるわ
勉強づくしの一年が流れ、季節が一巡した。その間、取り立てて何か目立った事件はなかった。強いて挙げるのであれば、タバサの誕生日会をやったとか、ルイスへの悪戯が成功したとか、カルロがフリックに謝罪して、フリックが受け入れたとか、ちょっとした出来事はポツポツとあったのだが、それは当人達にとっての事件であり、アデラは知るよしもなかったし、知っていても、別段どうこう言うことでもない。
そんな中、アデラにとっては驚きの出来事があった。なんと、王立学院の試験に合格したのである。
とはいえ、もともと王立学院の試験は簡単なものなので、合格自体は容易い。貴族がこぞってここに子息を入れたがるのは、多種多様な授業があることや、異文化交流ができること、そして、卒業すること自体に箔がつくからである。学院側は、貴族を誘致するために合格のラインを下げ、財力さえあれば誰でも入れるようにしている。入学するには膨大な入学金と学費を支払わねばならず、それが学院の維持と発展に繋がっているのだ。
ロージーは、当然アデラと同じく優に合格ラインを超え、そうして念願の奨学金を勝ち取った。一銭もなくとも、学院に入り、そして思う存分学ぶことができる。ロージーは今までにない程幸福な顔をして入学までの日々を過ごしていた。
今のアデラは、昨年のロージーと同じ立場だった。とはいえ、もともと冷やかしで受けただけなので、自分が奨学金をとれるとも思っていなかったし、入学できなかったからと言って、別段悲しいわけでもない。ただ、自分が何かをやり遂げたという充足感はあった。それだけで充分だった。
何かを学ぶことは、アデラにとって、それなりに楽しいものがあった。知識を吸収するのはやりがいがあったし、ルイスの考えたテストで良い点を取ると、してやったりと鼻を高くした。
学びたいという意欲はあったので、アデラは、特別に一年だけ慈善学校で同じ授業を受けさせてもらえることになった。学校に通い始めたばかりの最初の数ヶ月は、読み書きもできない状態だったので、ほとんど授業内容など理解できておらず、そのことが考慮された結果、異例ではあるが、認められたのだ。単なる冷やかしならともかく、アデラが勉強に身を入れていたことは教師から見ても明らかだったからだ。
日中は学校に行って、週一日の休みには、ルイスに勉強を教わる。
そんな毎日を送り、時が経ち、学院の合格発表も終わり、いよいよもうすぐアデラも慈善学校を卒業する――そんな時期だった。
*****
慈善学校は夕方になる前に終わる。校門前でコニー達を待っていると、どこからともなく颯爽と現れた、なんとも爽やかな笑みを浮かべたルイスに拉致された。彼の隣にはロージーもいる。アデラは何が何だか分からなかった。
引きずられるようにして連れて来られたのは、町中のカフェ。ここまでアデラに一言もの申す機会も与えずに、問答無用でテラス席まで連れて行った。
「好きなの頼んで」
着席するや否や、ルイスはこう言い放つ。本題はと問いたいところだったが、それを口にすれば何だか負けたような気もするので、アデラはとりあえずメニュー表に目を落とした。
アデラとロージーとルイス、好きなものをそれぞれ頼んでしばらく。ルイスはようやく二人と目を合わせた。
「――聞いたよ。試験に合格したんだって? まずは二人ともおめでとう!」
「ありがとうございます、ルイスさん!」
ロージーは心から嬉しそうだった。対して、アデラはなんとも冷めた表情。
「確かにロージーはおめでたいけど。私はどうせ行かないし」
そもそも、アデラとロージーとでは、合格の種類が違う。一緒にされたらロージーの方が不快だろう。
「それでも、本当によくやったよ。二人の頑張りは、僕がよく分かってる。ロージーは今まで以上に苦手の穴を埋めようと努力していたし、アデラはメキメキと実力をつけていった。本当頑張ったね」
「ルイスさんのおかげです。大切な休みを割いてまであたし達のために勉強を教えてくださって……むしろ、あたしが奢らないといけないくらいなのに」
「気持ちだけでも充分嬉しいよ。ここは僕に出させて」
甲斐甲斐しくルイスはカトラリーの準備をし始めた。ロージーは居たたまれずあわあわとしていたが、アデラはどこ吹く風で二人を見ていた。
「それにしても、残念だな。カルロも来られたら良かったのに」
「何か用事でもあるの?」
アデラは思わず聞き返す。確かに、合格祝いというのであれば、カルロがここにいないのが奇妙だ。
「ええ、今日はちょっと無理みたい。残念がってたわ」
ロージーが小さく返答した。もしかして気まずいのでは、とロージーは薄ら考えていた。
カルロもアデラと同じく、合格ラインには達した。だが、ロージーのように奨学金を受けるには至らなかった。彼の希望はもちろん、奨学金を受けること。願いが果たせなかった時点で悔しいだろうし、合格祝いの場に出ていくのもやりきれないだろう。
ロージーは話題を変えるようにアデラを見た。
「それよりもアデラ、もうすぐ学校卒業でしょう? これから先のことは考えてるの?」
「別に……」
途端にアデラは嫌そうな顔になる。成人はまだなので今すぐに仕事をしないといけない、というわけではないが、しかし、成人を過ぎずとも仕事をする子供達は世の中にごまんといる。学校を卒業した身で、仕事を始める気はあるかとロージーは聞いているのだ。
アデラの世界は、お母様が全てだった。今もそうだ。彼女の願いはお母様に迎えに来てもらうことだし、それ以外の選択肢などない。ロージーは、母親が迎えに来ないことを前提に話しているのだ。アデラが聞く耳持たないのも当然だった。
アデラの世界にお母様以外が入る余地はなく、従って、これから先のことはつゆほども考えていなかった。
「全く、いつまで経っても子供なんだから」
「ロージーに言われたくないわよ。合格してピーピー泣いてたくせに」
「何ですって!」
「まあまあ、二人ともその辺で」
例によって小競り合いから口論に発展しそうな二人を、ルイスは苦笑して収める。
「ほら、ケーキ来たよ。早く食べよう」
甘い物の力は偉大だ。二人はすぐに大人しくなった。
「それよりもロージー、引っ越しの方は進んでる?」
「はい、ほとんど終わりかけです。もともとそんなに荷物もなかったですし」
ケーキをつついてる間に、話題は学院の話になった。アデラはすぐ頭に疑問符を浮かべる。
「引っ越しって?」
「学院に移るための引っ越しよ」
「学院って、寮生活だったの?」
「そんなことも知らずに試験を受けてたの?」
呆れかえってロージーは頭を振った。
「だって誰も教えてくれなかったもの」
「興味があったら自分から調べるでしょう」
別に興味なんてないし、とアデラは唇を尖らせた。が、多少は場を弁えるようになったので、言葉に出すことはなかった。
「学院は原則寮生活。休日は外出自由だけど、予習復習で忙しいだろうし、アトラリアに帰るのはきっと滅多に無理ね。長期休みには帰る予定だけど」
「じゃあ、しばらく会えないのね」
無意識にか、アデラはそんなことを口にする。思ってもみない言葉だったので、ロージーは一瞬言葉を詰まらせた。
「……そうね」
「清々するわね」
「なっ……こっちの台詞よ!」
またも口論になりかけたところを、ルイスに宥められて鎮火する。
それから、新入生ロージーから先輩ルイスへの質問会が始まった。アデラはいい加減飽き飽きしていたが、ロージーがこんなに瞳を輝かせていることなんて滅多にないので、大目に見ることにした。
やがて質問がつきかけ、お腹が膨れたところで、会話が途切れる。
「さあ、そろそろ帰ろうか。皆待ってる」
「そうですね。ルイスさん、今日は本当にありがとうございました」
「二人の頑張りに比べたら、これくらい何てことないよ」
「ありがとう……おいしかったわ」
「良かった」
テーブルの上を簡単に片付け、椅子を立とうとしたところで、ルイスはロージーを制し、右手を差し出した。
「ロージー、学院で待ってる」
「……はい。先輩、どうぞよろしくお願いします」
ルイスとロージーは握手をした。アデラは、そんな二人をちょっとだけ晴れ晴れとした気分で見つめた。
「じゃ、本当にもう行こう。送るよ」
「まだ明るいし、大丈夫です」
「女の子二人だけだと心配だからね。気にしないで。皆にも会いたいし」
ルイスは軽く流し、三人は揃って店を出た。陽が傾きかけ、丁度眩しい位置に太陽があった。目を細めながら帰路につく。
中心街からアトラリアまで、それなりに距離はある。その間、再び疑問が出てきたロージーは、これ幸いとばかり、ルイスに尋ねていた。これにルイスは嬉しそうに答え、アデラは呆れて視線を空に向け、のんびり歩いた。
アトラリアについたのは、日が沈む直前だった。眩しかったのもなくなり、代わりに闇が訪れようとしていた。まだギリギリ視界は確認できる。孤児院の前に、何者かが立っているのが分かった。シルエットは女性だった。
「お……」
近づけば分かる、その髪型、佇まい。ドレスは見たことのないものだったが、彼女を表すかのように、裾は綺麗な真紅色だった。
「お、母様?」
一歩近づけば、女性はアデラに気がついて、こちらに顔を向ける。
「――アデラ」
他の誰でもない、お母様の声。
アデラが一番会いたかった人。
アデラの大好きな大好きな、お母様がそこに立っていた。