第二章 慈善学校

35:暇つぶしかしら


 遠慮がちな足取りで、カルロは朝早くアトラリア孤児院の前にいた。約束した時間よりはまだ大分早い。早すぎるくらいだ。だが、家でゆっくりとはしていられなくて、気づけばついここまで来てしまっていた。
 この街にいくつかある孤児院の一つ、アトラリア。
 評判は悪くない。街で出会えば、孤児達は皆人なつっこく挨拶をするし、時折街の掃除もする。問題を起こす子供も少なく、働き始めた子達の評価も良いものだ。
 なぜこの孤児院が嫌いだったかと問われれば、それはカルロにも分からなかった。何か嫌がらせされたわけでも、悪口を言われたわけでもない。
 何となくの、憂さ晴らしだったのかも知れない。それには、自分よりも弱い立場の彼らが適任だった。ただ、それだけ。
 自分がなぜここにいるのか、カルロは分からなかった。ここにいて良いわけがない。矜恃が邪魔をする。勉強はしたい。家でだってそれはできる。いや、できない。父が邪魔をする。そんなことをする暇があったら家業を手伝えと言ってくる。正論だ。でも、未だ燻り続ける胸の中の小さな炎を、これから先もずっと抱えていくのかと思うと、やりきれない。焦がれる。

「――いらっしゃい」

 ハッと顔を上げると、自分と同じくらいの背丈の少女がいた。ロージーだ。両手に桶を持っている。どちらも限界まで水を張っていた。

「早かったのね。ルイスさんはまだ来てないわ」
「ああ……いや、早く目が覚めたから」
「まさか、朝食もまだの時間に来るなんて思いも寄らなかったわ。朝食は食べたの? 一緒に食べる?」
「いや、食べてきたから良い」

 咄嗟にカルロは嘘をついた。なんとなくではあるが、孤児院の食べ物を奪ってはならないと思ってしまったのだ。同情なんていらないと言われてしまうだろうが、食べてしまえば、カルロは余計罪悪感に苛まれる。
 孤児院の中に入ると、子供達の賑やかな声が耳に飛び込んできた。一体何人いるのかというくらい騒がしい。
 物珍しく、カルロは落ち着きなく辺りを見回した。そうして壁に隠れるようにして少女がこちらを覗いているのに気づいた。

「おはよ―ございます!」

 目が合うと、少女は嬉しそうに挨拶をした。くりくりとした大きな瞳で一回瞬きをずると、おずおずと出てきた彼女は、カルロの周りをぐるりと回る。

「おねーちゃんのお友達?」
「そうよ。学校の同級生」
「カルロだ」
「コニーは、コニーって言うの、よろしく!」

 無邪気に抱きつかれ、カルロは盛大に狼狽した。親戚などなかったので、カルロは年下の子と触れあう機会などこれまでなかった。初対面の自分に対し、無条件で抱きついてくる彼女をどう扱えば良いのか全くもって分からなかった。

「院長先生に紹介したいから、食堂まで来てくれる?」
「ああ」

 断る理由もなく、カルロはロージーについていった。コニーはロージーの両手が空いてないので、仕方なしに彼女のスカートの裾を握った。とはいえ、カルロに対しての興味は失っていないようで、とことこ歩きながらも、時折カルロを観察しいた。
 それは、食堂に行ってからも変わらない。むしろ、子供達の視線が増える分、増した。
 そこは、まるで一つの大きな家族のようだった。年長が年少に甲斐甲斐しくお世話をする光景は兄弟にも見える。そうなると、兄弟があまりにも多すぎる家族になってしまうが、一つの大家族としたとしても、納得がいくような気がした。
 呆気にとられるカルロの前に、一番の年長――院長が立つ。

「ようこそ、アトラリアへ。私はここの院長のタバサよ。よろしく」
「カルロです。お世話になります」
「カルロは食べていかないの? 朝食はもう食べた?」
「もう食べました。ありがとうございます」

 礼儀正しく頭を下げるカルロにタバサは嬉しそうに頷いた。食事をしないと言っても、立ったままでは所在ないので、ロージーは隅の席に案内した。斜め前がアデラだったが、彼女は挨拶もしなかった。
 やがて食事が始まり、自由に会話が生まれた。カルロは手持ち無沙汰だったが、あちらこちらから聞こえてくるのんびりとした会話に耳を傾けていた。
 ちらほらと食事が終わっている子供達も見受けられる頃合いに、ルイスは到着した。大きな荷物を抱え、食堂に入ってきた彼に、子供達は一斉に歓声を上げる。あまりの興奮具合に、一体何事かとカルロは目を白黒させた。

「こんな時間から珍しいね!」
「ロージー達と勉強するんだから、当然だろ」
「えっ、わたし達とは遊んでくれないの?」
「ちょっとくらいいいよな? な?」

 群がる子供達に、ルイスはしゃがみ込んで目線を合わせる。

「ごめんね。今日は教えるって約束だから、皆とは遊べない」
「えー、そんなのってないよ!」

 地団駄を踏むランドの頭に手を乗せ、ルイスは宥めるように言った。

「その代わり、昼食と夕食はここでお世話になるからさ、その時は一緒に食べよう」
「うん!」

 何とか子供達を諫め、ルイス達は二階へ移動した。前を行くルイスが大きいリュックを背負っているので、ロージーは思わず声をかけた。

「すごい荷物ですね」
「まあね」

 このリュックを武器として振り回したら、それはそれは強力な破壊力を持ちそうだ。
 教室に着くと、地面にリュックを置き、ルイスはカルロに向き直った。

「さて、騒がしくてごめんね。改めて、初めまして。僕はルイス。よろしくね」
「こ、こちらこそ。カルロです。よろしくお願いします」

 差し出された右手を、カルロはおずおず掴んだ。自分よりも一回りは大きい右手に包まれる。

「そういえば、アデラは?」
「まだ朝食を食べてると思います」
「そっか」

 短い会話だったが、カルロは挙げられた名に反応する。

「ひょっとして、あいつも来るんですか?」
「アデラ? ええ、一緒に勉強するわよ」
「学院目指してるのか?」
「特にそういったことは聞いてないけど。でも、暇だから勉強だけはするって言ってた」
「暇だからって……」

 暇だから、何て理由で一日勉強漬けになるなんて、なかなか根性がないとできないだろう。お嬢様のような見た目でそんなことを言い出すなんて、やっぱりあいつのことは分からないとカルロは頭を振った。

「あっ、アデラ。ようやく来たね」

 そうこうしているうちに、最後の一人アデラが姿を現した。カルロのことは気にくわないようで、相変わらず一言の挨拶もなしに彼女は席に着く。

「じゃあ、揃ったから始めようか」

 ルイスはコホンと咳払いをした。
 目の前には、たった三名の生徒。だが、皆瞳に闘志を宿している。内一名が、どことなくつまらなさそうな顔をしているのにも気づいていたが、ルイスはそんなことものともしなかった。若い年下達にあてられ、同じくワクワクするような気持ちで彼らを見つめ返す。

「王立学院の入試に向けて一年間、これからみっちり勉強を教えます。僕がここに来るのは、君たち皆の休みに合わせた週一日の、朝から晩まで。僕が出した宿題の答え合わせと、分からなかったところの復習及び、入試の過去問の応用テスト。難問は皆で解き方を考えていこうと思う。さしあたっては、これ」

 重たいあのリュックをドンと教卓に上げた。

「暗記用の教科書と、宿題の問題集。課題別に分けられてるから、今から配るね」

 生徒は三人なので、すぐに配り終えた。だが、生徒たちの顔は、引きつっていたり絶望していたりと様々である。それはそうだろう。授業で使う教材が入っているのかと思えば、中身は全て自分たちに配られる問題集だったのだから。

「週一日みっちり頑張るってだけじゃなくて、他の日にどれだけ頑張れるかも重要になってくるよ。基本的に僕は暗記物については触れないから、君たちで頑張って。もちろん、何か疑問に思うところがあればすぐに言って」

 ぐるりと三人を見回し、誰にも質問がないことを見て取ると、ルイスはにっこり笑う。

「これから厳しくいくからね」

 望むところですとロージーは背筋を伸ばし、カルロは少しだけ怖じ気づき、アデラはやっぱり止めようかしらと現実逃避をした。