第二章 慈善学校

34:頑張ってるじゃない


 慈善学校を卒業した後、ロージーは働き始めた。仕事は彼女らしい書店で、優しそうな老人が店主のところで働いている。始めは彼女もどこかに居を構え、一人暮らしをする予定だったらしいが、慣れない仕事で体調を崩さないか、家の賃料で給料が全て吹っ飛ぶんじゃないかと、心配性のタバサが頑として譲らず、結局ロージーはしばらくの間、今まで通り孤児院で暮らすことになった。アトラリアの子供達は大喜びである。
 朝から晩までロージーはおらず、姿を見せるのは朝食と夜くらいだったが、それでも子供達は大満足である。働き始めたら滅多に遊べないと思っていたのに、ロージーはちゃんと構ってくれる。だが、それも彼女が食事をしている間のみだった。食事が終わると、彼女はそそくさと二階へ移動し、勉強をした。以前にも増して勉学に精を出しているようだったが、そのあまりの熱心さに、さすがの子供達もちょっかいをかけることはしない。

 その代わり、とある計画を立てた。大好きなロージーを見守る計画である。食事が終わり、ロージーがいなくなったのを見計らって、子供達で固まり、話し合う。こういった子供同士の『会合』が行われるのは、何もこれが初めてではない。
 彼らが一丸となって計画するのは、時に可愛く、時に全く可愛くないものである。院長先生に内緒の誕生日のお祝いパーティーを計画したり、いつも優しいルイスに悪戯をしてみたり、婦人会の女性達のものまね大会をしたり、街の大掃除計画を実行したり……。アデラもこの会合には苦汁を飲まされたことがある。ベッドで寝転がっていたら、突然子供達数人がかりでくすぐられたのだ! 抵抗する間もなく、アデラは悲鳴を上げたりのたうち回ったりで、散々だった。数分後、くすぐりから開放されたアデラは、それはそれは恐い般若の形相で子供達に叱りつけた。だが、半泣きになって、『おねーちゃんの笑顔が見たかった』と言われたときには、怒って良いものか、寛大な心で許した方が良いのか迷いに迷った。しかしそれも一瞬のことで、より一層強い雷を落としたことは、記憶に新しい。
 そんな事件もあったせいか、会合にはアデラは混ざらなかった。アデラの目の届くところで会合を開くので、計画に自分は関係ないと当たりをつけたのだ。
 そうして今回。自分の身に火の粉が降りかかってくることはないと高をくくっていたアデラに対し。

「次はおねーちゃんの番だよ」
「はい?」

 ある日突然コニーが当たり前のように声をかけてきたのである。

「何が?」
「おねーちゃんの所に行くの」

 あまりの情報不足に、アデラは頭が痛い。根気よく質問を続けることにした。

「おねーちゃんって誰?」
「ロージーおねーちゃん」
「どうして私がロージーの所に?」
「元気か見に行くの」
「…………」

 アデラは額に手を当てた。イライラしては駄目、根気強く行くのよ。

「ロージーが元気なのは、今朝一緒に朝食を食べたことからも明らかでしょう」
「違うの。元気に働いているか見に行くの。おねーちゃんもおねーちゃんが心配でしょ?」
「別に。気にならないけど」
「行かないの?」
「行かないわ」

 ツンとして応えると、次第にコニーの瞳はうるうると涙の膜を張った。

「……コニー、嘘つきになっちゃうの?」
「どうしてそうなるのよ」
「だってコニー、おねーちゃんに言っちゃった。今度はおねーちゃんが来るから、楽しみにしててねって」
「嘘つきにはならないわよ。どうせロージーも分かってるわ。私が来ないってことは」
「でも、言っちゃった」
「…………」
「言っちゃった」
「ああもう、分かったわよ!」

 耐えきれなくなったのはアデラの方だった。読んでいた本を勢いよく閉じ、立ち上がる。

「行けばいいんでしょ、行けば!」
「ほんと!?」

 途端にコニーの顔にはパアッと花が咲いた。パチパチと両手を叩く。

「おねーちゃんの仕事場、場所教えてあげるね。一人で行ける?」
「行けるわよ、それくらい!」
「でも、けっこう分かりにくくて……」
「行けるわよ!」

 鼻息荒くしながら、アデラはコニーからロージーの居場所を教えてもらった。ろくに荷物も持たず、アデラはそのままアトラリアを飛び出した。さっさと行って、さっさと帰ってくるつもりだった。何だって私がこんなことをしなくちゃ行けないのとアデラは不満たらたらだった。


*****


 孤児院を出たのは昼過ぎ。ロージーが働く書店にたどり着いたのは夕方だった。生憎と、思っていた以上に書店が遠かった、というわけではない。道に迷ってしまったのだ。こんなこと誰にも言えやしないが、散々同じ場所をぐるぐる回った後、ようやくポケットの中の地図の存在を思い出し、道行く人に書店を尋ねれば、拍子抜けするほど近くにあったので、アデラは非常に歯がゆい思いをしたのである。
 その感情のまま書店を覗けば、思いのほか明るい店内が彼女を迎えた。図書館よりは明るいのねと、アデラは店の中をきょろきょろ見回した。人の出入りは少なく、常連ばかりなのか、目的の本を購入した後はさっさと出て行く客も多い。
 肝心のロージーは、接客をしているところだった。出された本の会計をし、お釣りを渡す。ありがとうございましたと見送る彼女は、珍しくちゃんとした笑顔を浮かべていた。
 彼は最後の客だったようで、店内は静まりかえる。アデラは胸を反らしながらロージーに近づいた。

「なかなか様になってるじゃない」
「アデラ?」

 いつ客が入ってこないかと、アデラは店の出入り口にチラチラ視線を送る。

「まさか、アデラが来るとは思わなかったわ」
「私だってそんなつもりなかったわよ。コニーが行ってきてって言うから」
「コニーには頭が上がらないのね」

 おかしそうにロージーは言うが、アデラは挑発には乗らなかった。

「ここ、ちゃんと繁盛してるの? 全然人の出入りないじゃない」
「ちょっと、失礼なこと言わないで。奥にポールさんいらっしゃるんだから」

 ロージーは声を潜め、顔を近づけた。

「お客様は少ないけど、ちゃんと単価は上がってるんだから」
「ふうん」

 言っている意味は分からなかったが、己の疑問も特に答えを必要として口から出たわけではないので、アデラは軽く聞き流した。ロージーもチラチラ入り口に視線を向けた。

「ポールさん、すごく良い方なのよ。私が孤児院出身ってことも知ってるから、時々コニー達が顔を出してるの、気づいてたみたい。だから、お客様がいなければ、少しくらい話しても良いってわざわざ言ってくださったの。良い方でしょう?」
「そうね」

 ロージーの話を聞きながら、これで私の役目は終わったかしらとアデラはぼんやり考えた。嬉しそうに店主は良い方だとしきりに繰り返すのだから、元気に働いている証拠だ。
 そろそろお暇しようとアデラは背筋を伸ばした。丁度次のお客も入ってきたようで、扉が小さく軋む。

「いらっしゃいませ!」
「げっ」

 明るい声で出迎えたロージーだったが、途端に発せられる、嫌そうな声。

「カルロ……」

 思いがけない人物に、アデラとロージーは目を丸くする。それは相手も同じなようで、気まずげに視線を逸らす。

「お前、こんなところで何してるんだよ」
「見れば分かるでしょ。店番よ」
「ここで働いてんのか?」
「ええ、そうよ。カルロも仕事始めたんだってね」
「学校はもう卒業したからな」

 久しぶりの再会だった。特別仲が良いわけでもなく――むしろ悪いくらいだ――会うたびに一悶着あったかつてのことを思うと、こんな世間話をすることが不思議に思われた。とはいえ、学校を卒業し、互いに働き始めたのだから、多少なりとも成長するのは当たり前のことだ。
 とはいえ、アデラの方は、相も変わらず、カルロのことは気にくわないので、思いっきり嫌そうな顔をした後、二人の会話に巻き込まれないよう、店内をうろちょろした。
 カルロはカルロで、この空気は気まずいらしい。さっさと用事を済ませようと、目的の本を見つけると、ロージーの所まで持ってきた。会計待ちをしていると、カルロはふと店頭の隅に置いてある本に目がいった。

「それ……」
「これ?」

 ロージーが本に手を置いた。

「学院の試験用の本。ある人が貸してくれたの」

 えんじ色のそれは、試験対策用の書物だ。歴代の試験問題が十年分載っており、それだけ厚みがある。使い古されてはいるが、比較的綺麗だ。

「試験には落ちたって聞いたけど」
「また挑戦するつもりよ。だからその勉強用」

 例によって、ロージーが学院の試験を目指していると知っているポールは、客が不在であれば、試験勉強しても良いと許可を出していた。ロージーはその言葉に甘え、度々その本に目を通していた。

「――仕事しながらで、合格できるわけないだろ」
「やってみなきゃ分からないじゃない」

 ロージーは腰に手を当てた。

「それに、むしろ去年よりは、今が充実してるって思えるの。私にはあと一年しか残されてないから」

 学院の試験にも、年齢制限がある。ロージーに残された機会は、今年の一回のみ。失敗は許されなかったが、それでも不思議と恐怖はなかった。アデラとの口論で、吹っ切れたのかも知れない。

「それに、ルイスさんも全面的に協力してくれるし」

 カルロは片眉を跳ね上げた。誰だそいつ、と言わんばかりの表情のに、ロージーは得意げに口角を上げた。

「学院の試験で首席をとって、奨学金を勝ち取った人よ。それ以降も、ずっと首席を保持しているすごい人なの」
「なんでそんな奴と知り合いなんだよ」
「ちょっとね」

 ロージーは言葉を濁した。ルイスは気にしてないようだが、彼が孤児院で育ったということは、不名誉にもなり得る。他人の口から個人情報は流せないと思った。

「やっぱり……諦めないで良かったとは思うわ。昼は仕事、夜は勉強で、思っていた以上にきついけど、後悔はない。スッキリしてるもの。後もうちょっと、頑張りたいって思ったの」

 ロージーはチラリと視線を店の奥にやる。アデラのドレスの端っこが映ったが、彼女の顔までは見えなかった。

「カルロも、試験受けたって聞いたけど。今年はどうするの? 受けないの?」
「…………」

 カルロはゆっくり視線を外した。考えあぐねているようだ。彼がここに来たのは、おそらく大衆小説を買いに来たわけではないはず。

「カルロも、その人から教わる?」

 長い沈黙に、ロージーは咄嗟にそう訊ねていた。ひょっとしたら、仲間意識のようなものだったのかも知れない。ロージーは、フリックやアデラに意地悪をしていたカルロのことが好きではなかった。だが、同じ慈善学校出身で、同じ学院の試験を受けて、そして不合格になってしまって、失意にあるのは自分とて同じ。もっと勉強したい、でも仕事をしなくてはという葛藤ももちろん同じ。そんな彼が、ひどく不憫だった。かつての自分を見ているようで。

「良かったら、一緒に勉強しない?」

 だからといって、ロージーは己の口から飛び出した言葉が不思議でならない。それはアデラも一緒のようで、店の奥であんぐりと口を開けてこちらを見つめていた。だが、ロージーは撤回するようなことはしなかった。