第二章 慈善学校

33:らしくないわよ


 いつもなら、しつこくアデラを叩き起こし、掃除へと駆り立て、食事の作法に口を出し、言動に小うるさく口を出すロージーが、その日は朝から姿を見せなかった。アデラはそのことを不思議に思うことはあれど、彼女の居場所を周りに尋ねるようなことはしなかった。そんなことをすれば最後、アデラがロージーのことを気にしていた、という誤った情報がすぐにロージーの耳に入ってしまうからだ。孤児院に壁などない。ちょっとした出来事は、すぐに互いに共有されてしまうのが厄介なところだった。
 昼食を食べる頃には、アデラもすっかりロージーのことを忘れていた。だが、食後の団らんの時、突然ロージーが乱暴に扉を開け、食堂に入ってきたものだから、子供達は驚いて彼女に注目する。そして愕然とする。
 あのロージーが、強気なロージーが、両の目からポロポロと涙を流し、泣いている。
 あまりにも意外な光景に、アデラは呆気にとられ、しばしその光景に見入った。一同声すらもなく見つめていたが、唯一タバサが、慈愛の表情で立ち尽くす彼女を抱き締めた。

「頑張ったわね。ロージーは、とてもよく頑張ったわ」
「院長先生……」
「私の部屋へ行きましょうか」

 そう残して、タバサとロージーは食堂から出て行った。二人の異様な様子を受けて、子供達はざわつく。もちろんアデラもそうだ。
 タバサが戻ってきたのは、それからしばらくしてからだった。隣にロージーはいない。静かに食堂へと戻ってきたので、幼い子供達は彼女の戻りに気づかなかった。ただ一人アデラだけがソワソワしながらタバサへと近づく。

「何かあったの? ロージー」

 自分から他人のことを聞くだなんて、以前のアデラを思えば大成長である。しかしそのことを嬉しく思う余裕もなく、タバサは重い息を吐き出した。

「……試験に、落ちたのよ。王立学院の」
「学院って……奨学金がなんとかっていう、あの?」
「そう。孤児院には、学院に進ませるだけのお金がないから……。でも、ロージーはそれでも勉強がしたいからって、今までずっと頑張ってたんだけど……」

 ため息と共に、タバサは口をつぐんだ。アデラもそれ以上問いかけることはなく、彼女の側を離れた。
 それからというもの、ロージーは本当に抜け殻のようだった。
 食事の時もボーッとしているし、コニーが話しかけても上の空。この前なんか、アデラがわざらしく朝の掃除を怠けても、ロージーは注意どころか、気づきもしなかった。
 これはいよいよ危ない。
 そう感じ始めた矢先、タバサもロージーの状態が気になっていたようで、川遊びを提案した。洗濯や勉強、掃除、その他の雑事など全て放ったらかしで、とにかく一日川で遊ぼうと。この提案に子供達は大喜びである。当のロージーは、口の端からパンくずを零していた。
 明朝、アトラリア孤児院の子供達は元気よく出発した。道中、手を繋ぎ、コニーが一生懸命にロージーの気を引こうとするが、ロージーは口を中途半端に開き、終始乾いた笑い声を漏らすばかり。ここまでくるとむしろ怖い。コニーの笑顔も若干引きつっていた。
 川へ到着すると、そこはやはり子供。幾度と遊び慣れた川とは言え、まるで初めて遊ぶかのようにきゃっきゃ歓声を上げながら水と戯れる。ロージーは木陰に腰掛け、その光景を眺めていた。
 昼食の時間を過ぎると、ルイスもやってきた。試験以降、ロージーとルイスは初めて顔を合わせる。ロージーは彼の顔を見て、呆けた表情を引っ込め、二人肩を並べて喧噪から離れた森の奥へと歩いて行った。
 ロージーはずっとルイスに勉強を見てもらっていて、それに対し恩や感謝を感じていただろうし、だからこそ、その分今回のことで申し訳なさも合わさってしまっただろう。
 ロージーの暗い瞳が気になる。
 水遊びにも参加せず、アデラはチラチラと二人が消えた森の奥へと視線をやった。
 やがて、森から姿を現したのは、ルイスただ一人だった。彼も慰めには失敗したようで、浮かない顔をしている。彼はなぜかアデラの所にやってきた。

「うまくいかないね」

 彼の言うことが何を指しているのか分かり兼ね、アデラは無言だった。

「熱意もあって、知識量も、努力だって。それでも、あと一歩の所で届かなかった。仕方のないことなんだろうけど、やっぱりやりきれない。悔しいなあ」

 ルイスの嘆きにも、アデラはどう答えて良いものか迷い、結局口を閉ざした。川で湿気た風が二人のところまでやってきて、じっとりと身体を不快にさせる。だが、そんな天候もものともせず、子供達は無邪気に川で遊んでいる。やがてその中の一人のフリックがやってきた。例によって裸ん坊なので、アデラは嫌そうに顔を逸らした。

「二人、遊ばないの? 折角来たのに。俺、ルイスと遊ぶの、楽しみにしてたんだぜ!」
「そうだね。僕もたまには息抜きしようかな」

 隣でルイスの立ち上がる気配があった。アデラは頑として両膝を固く抱え込む。

「僕は行ってくるけど、アデラは行かないの?」
「私は良いわ」
「そんなこと言わずに」

 アデラの釣れない返事は聞かずとも分かっていたのか、ルイスはにっこり微笑む。だが、アデラもちゃんと学習していた。ルイスはしつこいと。
 ルイスがアデラを捕まえるより早く、彼女は立ち上がり、ジリジリと森の奥へと後退していた。追おうとしたルイスだったが、きびすを返して走り出したアデラと、なあなあとなおも腕を引くフリックとを秤にかけ、アデラのことは諦めることにした。
 一方、逃げることに成功したアデラは、念のため、奥へ奥へと歩いた。ルイスは本当にたちが悪い。アデラが断ることが分かっていて誘うし、いざ断っても、返事など聞かなかったようにグイグイとアデラを引っ張る。
 どうしてあんな人が慕われるのかしらとアデラは物思いに耽っていたが、不意に耳に飛び込む声に、息を潜めた。
 ――泣いてる。声を押し殺して。
 顔を見なくても分かった。ロージーだ。
 引き返さなければとアデラは咄嗟に思った。だが、足が動かない。いつまでも野次馬のようにロージーが泣いているのを覗き見するわけにはいかないのに――。

「そこにいるのはアデラ?」

 いつの間にか、ロージーは泣き止んでいた。そしてその声は、己に語りかけていた。どうして気づかれたのかとアデラは焦る。彼女は、木々の合間から自分の派手なドレスがはみ出していることに気づいていなかった。

「馬鹿みたいって思ってるでしょ。たかが試験に落ちたくらいで」

 そんなこと、思っていない。
 だが、アデラがそう答える間もなく、ロージーは続けた。

「あたしが悪いのは分かってる。試験に落ちたのは、単に勉強不足だっただけ。もっと勉強すれば良かった。本当に馬鹿。後悔してももう遅いのに……後もうちょっとだったのに」

 再び声が涙に濡れる。らしくない彼女に、アデラは苛立ちと困惑を隠せなかった。

「でも、試験って毎年あるんでしょ? 来年もまた受ければ良いじゃない」
「駄目よ。あたしはもうすぐ学校を卒業する。成人するのよ。働かなくちゃ。いつまでも甘えてられない」
「働きながら勉強すれば良いじゃない」
「…………」

 アデラのきょとんとした顔が目に浮かぶようで、ロージーはしばし言葉を失った。

「簡単に言ってくれるわね」

 そうしてようやくひねり出した声に、元気はなかった。

「あたしが言う仕事ってのは、アトラリアでやるようなものとは全然違うの。責任が常につきまとうの。朝から晩まで身を粉にして働いて、そこから更に勉強する元気があると思う? もう働く場所も決まってるの。せっかる受け入れてもらえるんだから、その恩に報いないと」
「私にはいつもうるさくあれしなさいこれしなさいって言うくせに、自分のこととなると、できないって泣き言言うつもり? 言い訳だけは一人前ね」

 ふふん、とアデラは胸を反らした。ロージーはカッとなる。彼女の台詞は、いつだったか掃除をしたくないと駄々をこねるアデラに対し、ロージーが放った言葉だ。彼女の言い方は、まるで。

「あんたとあたしの状況は全くもって違うでしょ」
「違わないわよ。今のあなたは、私が掃除したくないって言ってるのと同じよ」
「はあ?」

 ロージーの頭に血がのぼる。生意気なアデラに、なぜここまで言われなくてはいけないのか。

「意味分かんない。お子ちゃまな我が儘言うあんたと一緒にしないで!」
「お子ちゃまな言い訳してるのはロージーの方でしょ? 言い訳してる暇があったら勉強したら?」
「アデラ!!」

 びっくりするくらいの大声にもアデラは怯まない。逆に強気にツンと顎を突き出した。

「何よ、何か間違ったことでも言った? 後もうちょっとって思うのなら、後もうちょっと頑張れば良いじゃない! 一年間辛いかも知れないけど、今でそんな状態なら、これからだってずっと後もうちょっとを後悔するようになるわよ!」

 ロージーはジロリと睨み付けた。が、その瞳にいつもの眼光はない。

「誰かに迷惑かけるでもないし、何をそんなに躊躇ってるのか全くもって分からないわ」
「…………」

 アデラの言葉を受け、ロージーはジッと己の膝を見つめた。微動だにせず、その間、彼女は一言も発さない。
 まるで憑きものが取れたかのように突然大人しくなった彼女を、アデラは不気味に感じた。ついで、何故だか分からないが、恥ずかしくなってきたアデラは、きびすを返した。

「……私も、たまには水浴びしてこようかしら」

 突然のお暇に、アデラは無理矢理理由をつけた。ロージーは少しだけ視線を上げた。

「珍しいこともあるもんね。人前で裸になるの、あれだけ嫌がってたくせに」
「ちょっと足でも水に浸そうかと思っただけよ。私もう行くわ」

 それだけ言って、アデラはさっさと退散する。自分が何を口走ったのか、自分でも理解していなかった。調子を取り戻したらしいロージーを見てこみ上げてくる感情に、アデラは戸惑いを隠せなかった。

「あっ、アデラ――」

 そんな彼女は、ロージーが呼びかける声も届かない。

「……まあいいか。さすがのルイスさんも、もう大人になったんだし、節度くらいあるわよね」

 だが、しばらく後、森中に響き渡るアデラの悲鳴によって、ルイスが何の成長もしていないことを悟る。

「きゃあああ―! 何て格好をしてるのよ、変態! 信じられない!」

 アデラに拒絶されているのは、おそらくルイスだろうとロージーは当たりをつけた。

「こっちに近寄らないで! あっちへ行って!」

 まるで本物の変態のごとく扱いを受けているルイス。だが、それも仕方がない。年頃の少女に、真っ裸で近寄っていけば、それはそれは大声で叫ばれもする。
 孤児院育ちで羞恥心がそげ落ちたルイスと、お嬢様育ちのアデラでは、やっぱりそりも価値観も合わないらしい。
 だが、ロージーは勘違いをしていた。さすがのルイスも、成長はする。
 ――真っ裸ではなく、ちゃんと下履きを履いていた。
 後にルイスがそう反論すれば、そういう問題ではないとロージーが無碍に切り捨てる光景が見られた。