第二章 慈善学校
32:私を見て欲しかった
ロドニーから話を聞いた後、ルイス達はすぐに孤児院に帰ってきた。アデラが家出をしていたら、と一瞬心配に思った二人だったが、何てことはない、アデラもコニーも、孤児院にちゃんと戻ってきていた。
いち早くアデラにロドニーから預かっていたバラを渡した。アデラはしばらく驚いたように目を丸くしていたが……やがて小さくお礼を述べ、受け取った。
バラはタバサに貸してもらった花瓶に挿し、食堂に一つ、勉強部屋に一つ、そして寝室のサイドテーブルに置いた。
ロドニーのことをどう言ったものか、ルイスは考えあぐねた。アデラのことを心配していたとか、アデラのことを聞いて嬉しそうだったとか、いろいろ言いたいことはたくさんあったが、それを言うのは自分ではないとルイスは押し込み、結局、元気そうだったとだけ伝えた。アデラは再度礼を述べた。
それから幾日が過ぎたが、アデラは、いつもの彼女のように見えた。話しかければ素直じゃないこと口にするし、嫌味も飛び出す。恒例のロージーとの口喧嘩も、もちろん勃発する。だが、時折憂いのある表情を浮かべることだけは、相変わらずだ。悲しそうな、寂しそうな。悔しそうにも見えるし、自嘲的にも見える。
そんなとき、ロージーもルイスも、彼女には話しかけられずにいるのだ。
ある日、意を決して一歩踏み出したのはルイスだった。ぼんやりと寝室で本を読んでいるアデラに対し、声をかける。
「ちょっと僕に付き合ってくれない?」
「……?」
ルイスの発言の意図が読めず、アデラは黙って彼を見上げた。
「今から出掛けないって言ってるんだ。付き合って欲しいところがあって」
「どうして私が」
「アデラと行きたくて」
「私は行きたくないわ」
そう言うと思った、とルイスは笑う。
「少しだけで良いからさ。ね?」
ルイスは強引にアデラから本を取り上げると、彼女の手を引いた。大した抵抗もなく、するりとアデラはベッドから降り立つ。
二人のやりとりを気もそぞろに見つめていたロージーを見て、ルイスはウインクを返した。
「ロージー、アデラ借りるね」
「どうしてロージーに断りを入れるのよ」
「どうぞ」
「そしてロージーもどうして返事をするのよ!」
軽快に笑い声を立て、ルイスは孤児院を出た。
昼食後の、一番日が高い暑い時期だった。にもかかわらず、ルイスはむしろ嬉しそうにこの暑さの中、人混みの中へ喜々として入っていく。アデラはうんざりしたが、文句を言うことすら面倒で、黙って引っ張られるがまま歩いた。
ルイスの付き合って欲しい場所、というのは結構遠い場所だった。いつも買い物をする市場を抜け、そのまま大通りを歩き、ひょっとしたらこのまま王城へと向かうつもりなんじゃないかと考えてしまうくらいルイスは真っ直ぐ歩いた。
あまりに長い時間無言で歩いているので、さすがのアデラも気まずく感じ始めた頃、ようやくルイスの足は方向転換した。そろそろ目的地が近いのか、とアデラは顔を上げたが、その体勢のまま、彼女は固まった。見上げるばかりに大きい屋敷に、今まさにルイスは足を踏み入れんとしていた。
アデラは躊躇したが、ルイスはもちろんそんなことはない。少しだけ抵抗の強くなった彼女の手を、相変わらず引っ張りながら、ずんずんと中へ進む。自分の身長の三倍はあるだろう扉に対面し、呼び鈴を鳴らす。ここまでの彼の躊躇いもない行動に、アデラは一つの答えを頭の中に導き出したが、すぐにそれは霧散する。あり得ない。自分でもそう思った。
「お帰りなさいませ、ルイス様」
しかしそれは、扉から現れた執事の一言によって、再び引き戻される。ここは、ルイスの家なのだ。
「すぐに出るから。僕のことは気にしないで」
「何か軽食などは……」
「いや、大丈夫。ありがとう」
頭を下げたまま、執事は下がった。軽く手を挙げて、ルイスは屋敷の中に入ると、再び廊下を歩き出す。執事の姿が見えなくなってようやくアデラも人心地つく。
「――ここ、あなたの家なの!?」
アデラは慎みなく声を出した。ルイスはこっくり頷く。
「そう」
「あなた、貴族――いいえ、何でもない」
口を真一文字に結び、アデラは顔を背けた。
ルイスが、大きなお屋敷に住んでいた。
そのことは、アデラを確かに動揺させた。しかし、深く考えたくはない事柄だった。
――本邸の隅、別塔に追いやられていた自分と、否が応でも比較してしまうから。
自分が惨めだとは思っていない。だが、状況的には惨めに違いなく、アデラは下唇を噛みしめた。
ちょっとした露店を並べられそうな広く長い廊下には、度々使用人が通った。彼らは、ルイスを見ると、皆嬉しそうに挨拶をし、中には気兼ねなく声をかけてくる者もいた。
その光景を見て、すっかり今の自分がみすぼらしくなってくるアデラだった。ルイスは、正真正銘の貴族のお坊ちゃまだ。ルイスには、アデラがどんなにか滑稽に見えたことだろう。今やすっかり落ちぶれた元貴族のお嬢様。にもかかわらず未だ孤児院で威張り腐っている彼女を前に、ルイスはどんなことを思っていたのか。
物思いに耽っていると、ルイスはいつの間にか自室に到着したようだった。懐から鍵を取り出し、部屋を空ける。お金持ちは部屋に鍵をかけるものなんだろうか、とアデラは不思議に思った。
「さあ、入って」
扉を開けたまま、ルイスは片手を広げて見せた。アデラはおずおず部屋の中まで入り込む。彼女の後ろで、扉が閉まる音がした。
ルイスの部屋は、落ち着いた色調で整えられていた。床は柔らかそうな絨毯が敷き詰められ、調度品もシックな木製だ。アデラは物珍しげにキョロキョロ辺りを見回した。
「アデラ、こっちに来て」
しばらくはアデラの好きなようにさせていたルイスだったが、やがて彼女に声をかけ、小さな扉に導いた。
「この前……バーンズ家に行ったとき、まだアデラの荷物が残ったままだって聞いて、持ってきたんだ。余計なお世話かと思ったけど、生憎、アトラリアはそんなに広くないから、持て余すと思ってね。承諾も得ずに、ごめんね」
「……ありがとう」
アデラは小さく礼を述べる。己の荷物がここにある経緯を、アデラはなんとなくだが察していた。
それに、ルイスの気持ちも嬉しかった。アデラのドレスは、皺にならないようちゃんとタンスの中に吊されていたし、髪飾りだって絵本だって、埃を被らないよう戸棚の中に仕舞われている。小さいドレスも、サイズの合わない靴も、子供っぽい髪飾りも、きっとアデラはもう身につけないということが明らかな品々だったが、それでもルイスは大切にしてくれている。どうしてここまでしてくれるのか不思議に思ったが、今のアデラには、深く考えるだけの元気がない。
「この鍵、アデラに預けておくよ」
言われるがまま、差し出されるがまま、アデラはルイスから鍵を受け取った。手の中のそれをじっと見つめた後、不思議そうにルイスを見上げる。
「僕の部屋の鍵。知っての通り、僕が寝泊まりしてる場所は学院の方だし、ここは今はほとんど使ってない。ずっと眠らせておくのはもったいないし、好きなだけ使って良いよ」
「使うって、何のために」
「何でも良いよ。勉強部屋でも、一人になりたいときでも。アデラの荷物もここにあるしさ、使いたいときにいつでも」
「いらないわ」
「そう言わずに」
ルイスはアデラの手を無理矢理丸めた。ギザギザした鍵のせいで、痛いくらいだった。
「ロージーにあげた方がよっぽど喜ぶんじゃない」
「かもね。あげたかったらあげて」
尚のこと意味が分からなくなって、アデラは睨むようにしてルイスを見る。
ロージーの方が喜ぶって分かっているのなら、直接ロージーに渡せば良いのに。
「アデラ、少し話をしようか。君には辛い話かもしれないけど、どうしても伝えておきたくて」
そう言ってルイスはしゃがみ、アデラと視線を合わせた。
「男達に捕まってたとき、アデラ、絶対にバーンズ家のことを口に出さなかったんだってね。……男達に痛めつけられても」
アデラの口元がピクリと揺れる。動揺しているのに気づかれたくなくて、アデラはギュッと下唇を噛みしめる。
「……本当に、すごいことだと思うよ。危ない目に遭っても、他の人のことを思いやれるなんて。君は、本当はすごく強い子だ」
「何が言いたいの?」
アデラの声は刺々しい。慰められたいなんて思っていなかった。なのに、ルイスの口調はまるで。
「何て言えば良いのかな……こんなこと言ったら、アデラは気を悪くするかも知れないけど」
ルイスはそう前置きした。
「始め、僕はアデラのこと、自分の感情や欲望に素直な子だなって思っていたよ。掃除や仕事は嫌がるし、皆で何かすることも嫌いみたいだったし。でも、それだけじゃない。自分が正しいと思ったことは貫き通すし、自分を曲げない芯の強さがある。時々、その長所が悪い方向へ行っちゃうときもあるけど、でも、そんなの誰だってあることだ。誇って良いよ。誰がなんと言おうと、アデラは強い。お父さんお母さんのことを大切にできるし、コニーのことも思いやれる。掃除だって勉強だって、アデラはよく頑張ってる」
ルイスはポンポンとアデラの頭を撫でた。彼女は相変わらず顔を上げない。
「長々とごめんね。僕が言いたかったのは……その、自分を見失わないで欲しい。アデラはアデラだよ。他の誰にも左右されずに生きて欲しい」
ルイスは立ち上がった。
「アデラのことは話しておくから、屋敷にはいつでも好きなときに出入りして。入り口は呼び鈴を鳴らしたら執事が出てきてくれるから。部屋は分かりにくいかも知れないけど、メイドに聞いたら一発で教えてくれるよ。部屋は、中から鍵もかけられるし」
ルイスは、言いながら小部屋から出た。それに導かれるようにアデラもついていく。
「……じゃあ、僕は先に帰ってる」
だが、扉の前でルイスは振り返り、なぜか一人だけ先に帰ろうとする。アデラを残して。アデラはここに自分だけ残される意味が分からなかった。だが、その意味を問う前に、ルイスはそそくさと退室した。自分の部屋だというのに、まるで遠慮しているかのように。
アデラは、再度ゆっくり部屋の中を見回した。
――自分だけの、大きな部屋。清潔に整えられていた。長い間主人は不在だったはずなのに、ちり一つ落ちていない。きっと、定期的に使用人が掃除しに来ているのだろう。ほこり臭くもなく、どこか良い匂いすらする。
愛情と尊敬に満ちた部屋だった。不必要に見えるものはなく、かといって不自由しているわけではないだろう調度品の数。きっと、家族からも大切にされているのだろう。
――そう思うと、一層自分が情けなくなってくる。自分とは何もかもが違う。孤児院の子達には慕われているし、優しいし、頭も良い。人望もある。
使用人の、ルイスへの尊敬の念は、廊下を歩いただけでも十二分に伝わってきた。皆ニコニコ笑っていたし、突然現れた小娘に対しても丁寧だった。――本当に、何もかもが自分とは違う。
アデラは居たたまれなくなって、小部屋に逃げ込んだ。ルイスの人となり、受けた愛情を体現したような私室は辛かった。私にだってと逃げ込んだ先には、アデラの私物。でも、それを見ても、アデラには何の感情も湧いてこなかった。
「……どうせ」
思わず悲壮な声が漏れる。
「どうせ、こんなことだろうと思ったわ」
笑おうとして、アデラの口角は中途半端に上がった。いびつな笑顔は、むしろ悲しそうに見えた。
――お父様。
――お父様が、私のことなんてちっとも気にしてないこと、本当は、心の中では分かっていた。ただ自分が認めたくなかっただけで。
アデラは亡霊のようにゆっくり歩き出した。徐にタンスを開け、ドレスを一着取り出し、そうして床に放り投げる。
「お父様からって言うのも、嘘」
これは、九歳の時に買ってもらったもの。
「これも嘘。お母様が用意したのね」
これは、八歳の時のもの。
「こんなの、全然趣味じゃなかった」
バラのような真っ赤なドレスを放り投げる。バラは、お母様が好きだって言ったから、好きだっただけ。
「これも違う。これも嘘」
アデラは次々にタンスからドレスを引っ張り出しては、地面に落とす。ついにはタンスから全てのドレスが姿を消した。
タンスの下の、戸棚を開けた。アデラはそこからバラのドレスとセットでもらった靴を取り出した。
「ドレスとお揃いだって……。二つ揃って嘘ね」
悲しいお揃い。
「お母様でも、靴のサイズは分からなかったのね」
何度も靴擦れを起こした靴。それでも嬉しかったのに。
靴が終われば、お次は髪飾り。タンスの横の引き出しを開ければ、髪飾りが耳障りな音を立てる。わざわざ取り出さなくても分かった。全部嘘だ。
全部気づいていた。
お父様は私がピンクを好きだって、知ってたのね!
無邪気に喜んでいた自分が馬鹿みたい。別にピンクもそんなに好きじゃなかったけど、お母様が似合うって言ってくれたから、好きだって思ってただけ。
アデラは、現実逃避していただけだった。
孤児院で暮らすようになってからも、アデラの足は幾度もバーンズ男爵家に向いた。遠くから、曲がり角から、時には門の影から、男爵家を見つめた。あと一歩踏み出せば、敷地には入れる。でも、勇気がなくてそれ以上進めなかった。アデラの足を引き留めたのは、臆病からではない。無意識的に気づいていた、数々の違和感からだ。
母親を通して贈られるドレス。
一度も会いに来ない父親。
イアンのことは抱き締めるのに、アデラが抱き締められた記憶はない。
全てただの現実逃避で、意識しないようにしていただけで、本当は。
アデラの周りは、偽物で溢れていた。
「……ふっ」
笑い声か嗚咽か、区別もつかない声が漏れ出る。
馬鹿みたい。本当に、馬鹿みたい。
じわじわとアデラの視界が歪む。止まれと念じても、感情は止まらなかった。胸が痛い。握りこんだ手が痛い。頬を伝う熱い涙は、余計アデラを惨めにさせた。
「うわあああん!」
止まらなかった感情は行き場もなく、アデラの口から漏れ出た。
*****
「返すわ」
アデラはツンとした所作で鍵をつきだした。ミンネを膝に載せていたルイスはきょとんとアデラを見た。
「もう戻ってきたんだね。食事は? お腹空いてるでしょ」
「別に……」
「ちゃんとアデラの分は残ってるから安心して。院長先生に言ったらすぐに温めてもらえるよ」
「…………」
ルイスはこっそりアデラを見た。
目元も赤くなってないし、表面上は、ルイスと別れたときと、何の変わりもない。若干気恥ずかしそうにも見えるが、雲が晴れたようにスッキリしているようにも見える。
ルイスは少しだけホッとした。
「――その鍵、しばらく預かっておいてよ」
「えっ」
「今の僕には必要ないしさ。預かっててもらえると嬉しい」
「…………」
アデラはなかなかその場から動かなかった。何かもの言いたげな表情だったが、結局彼女が応えることはなかった。その代わり、アデラは小さな手で鍵を握りしめた。