第二章 慈善学校
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ものすごい勢いでアデラが門扉を通過した時、ロージーは一瞬頭が真っ白になった。
ろくに父親と話しもせずに、あの子は一体どこへ行こうとしているのが。母親の居場所は聞けたのか。あたし達は置いて行くつもりか。いやむしろ、泣いてはいなかったか?
驚きのあまりロージーはしばらくその場から動けず、そしてそれはルイスも同じだった。コニーが息を切らせて二人の前までやってきてようやく我に返ったのだ。
「おねーちゃん!」
コニーは大きく叫んだが、その頃にはもはやアデラの後ろ姿は小さくなっていた。
「何が何だか……コニー、一体どうしたのよ」
「コニー、おねーちゃんの後を追ってくる!」
「コニー!?」
珍しくロージーの声も耳に入らない様子で、コニーは再び走り出した。コニーの小さな足で追いつけるわけがないだろうに、それでもそのまま駆け出す。
自分たちが何のためについてきたのか、その理由を考えれば己がやるべきことは分かっていたが、それでもアデラのおかしな様子にまだ衝撃が抜けきらず、足が動かない。
「……お嬢様?」
その時、しわがれた声と共に、老人が姿を現した。白髭を蓄え、外見だけで言えばかなりの高齢のようだが、背筋はしゃんとしているし、足取りもしっかりしている。彼の口ひげは小刻みに揺れていた。
「お嬢様が今ここにいらしたのですか? アデラ様が?」
まだ混乱している頭で、ロージーはひとまず頷いた。
「あ……はい。アデラのお母さんの家を聞きに、ここへ」
「お嬢様はリシェル様の居場所をご存じないのですか?」
「……はい」
老人は更に続ける。
「あなた方は、アトラリア孤児院の子供達ですか?」
「はい」
「お嬢様は元気でいらっしゃいますか? 一人でもやっていけていますか?」
「あ、あの……」
ロージーが戸惑ったように口ごもれば、老人は恥ずかしそうに笑った。
「すみません、つい嬉しくなって。お嬢様とは、もう随分お会いしていませんから。……あの、もし時間がおありなら、私の家によってくださいませんか? お嬢様に渡していただきたいものがあって」
「いいですよ」
躊躇うロージーの代わりに、ルイスが頷いた。用心棒としてついてきてはいたが、結局肝心のアデラの姿を見失ってしまった。ならば、せめて役に立つことをしなければ。ルイスはアデラのことについても興味があった。うまく言葉にはできないが、野次馬のような好奇心ではないことは確かだった。
「本当ですか? ありがとうございます。どうぞこちらに」
老人はにこやかに笑い、手で方向を指し示した。彼の歩みはゆったりとしていたが、ルイス達は焦れることなく彼の後に続く。
老人の足が止まったのは、小さな小屋でだった。質素でこぢんまりとしていたが、造りはしっかりとしているようで、肌寒い印象は受けない。
中に入ると、老人はすぐに温かい茶を出した。冷たい外気に触れ、すっかり身体が冷え切っていた二人は、有り難くそれに口をつけた。
「自己紹介がまだでしたね。私はロドニーと申します。バーンズ家で庭師をしています」
ロドニーの後に続いて、ルイス、ロージーもまた己の名を口にする。礼儀正しく頭を下げる二人を見て、ロドニーは目を細めた。
「アトラリア孤児院は、良いところですね」
ロドニーは、そう切り出した。
「シェリル様――お嬢様のお母様にアトラリアを紹介したのは私なんです。前を通るたび、いつも明るい笑い声が漏れていて、ここなら、お嬢様も同年代の子供と楽しく過ごせるかも知れないと、そう思ったんです」
しばらく間をおき、再びロドニーは、一番気になっている疑問を口にした。
「お嬢様は、いかがですか? アトラリアでも楽しくやっていらっしゃいますか?」
「はい……。たぶん、それなりに」
そわそわと辺りに視線を這わせ、ロージーは躊躇いがちに頷く。アデラのことをどんな風に表現すれば良いのか分からなかったのだ。悪い子ではないが、我が儘だし、我が強い。ロージーも最近では憎からず思っていたが、それをどう口にすれば良いか分からない。
彼女の気持ちを、ルイスが代わりに受け継いだ。
「始めは、我が儘で小生意気なことも言ってましたけど。でも、根は素直で頑張り屋ですね。今は勉強を熱心にやっていますよ」
「そうですか、勉強も!」
始めの方は不安気味にしていたロドニーだったが、ルイスがあんまり朗らかに笑うので、きっと彼の言うことに嘘は混じっていないと感じた。
「お嬢様に家庭教師がつかないことには、私も心を痛めていたので、それを聞いてホッとしました。旦那様はお嬢様のことに全くの無関心で、勉強どころか、裁縫やマナーを学ぶ機会もなかったので、不憫でならなかったのです。イアン様とは大違いの待遇で、本当にお可哀想で」
長々と語った後、疲れたようにロドニーはため息をついた。その長い息に、長年積もった思いがこもっているようで、受け止める側は非常に重く感じる。
「お嬢様の暮らしぶりをもっと聞かせていただけますか? 本当は直接会いに行きたかったのですが、私などが会いに行ってもいいものかと思い……」
「あたしとしては、アデラのここでの暮らしの方が気になります」
ロドニーの話が長くなりそうだったので、ロージーは控えめに言った。
「それに、お母さんの行方も。アデラはお母さん、お母さんって言ってますが、肝心の母親はどこにいるんですか? アデラはお母さん大好きみたいですけど、お母さんの方はどうなんです? 全然――今まで一度だってアデラに会いに来たことなんてありません。孤児院では珍しいことでもないけど、でも、なんか変な感じがするんです。うまく言えないけど」
ロージーはもごもごと言葉を濁し、視線を逸らす。本当は分かっていた、少しずつ強くなっていく違和感の正体に。だが、言葉にすることは憚られた。声にした瞬間、それがもはや隠すことのできない現実のものとなりそうで、そうなれば、ロージーはアデラをどういう目で見れば良いか分からない。
ロージーが口を閉ざし、ロドニーが顔を俯かせ、ルイスが場を見守る、その空間に。
コンコンと軽快に扉を叩く音が聞こえた。突然の異音に、その場の空気が遮断され、三人は一斉に入り口に顔を向けた。家の主の返事を待たずに、扉は大きく開かれた。
「あら、子ネズミが来たって聞いたんだけど。あの子はもう出ていったの?」
「お嬢様のことでしょうか」
浮かない顔で立ち上がり、ロドニーは尋ね返した。入り口で立ち尽くしている三人のメイドは、顔を見合わせ、クスクス笑った。
「その子以外に誰がいるって言うのよ。孤児院に行ったそうだから、せめてその暮らしぶりでも聞いてあげようと思ったのに、残念だわ。それに、ゴミも引き取って欲しかったし」
「ゴミ?」
「そうよ。あの子ったら、大量にゴミを残して行っちゃって。あの子の部屋はもうすぐイアン様の趣味用のお部屋になるのよ。ゴミをおいたままじゃ機嫌を悪くされるわ。まあ、もう遅いけど」
「ねえ、あなたたちあの子と同じ孤児院の子供? どうせなら引き取っていってよ。あたし達としては、別にそのまま捨てちゃってもいいけど、最後の情けよね」
「ついてきて」
クスクス笑いながら、三人娘は小屋を出て行った。変な方向に話が進んだとロージー達は思ったが、断る理由もないので、大人しく彼女たちに従う。それに、彼女たちにとってはゴミでも、アデラにしたら大切な何かだったら大変だ。
広大な庭園を抜け、五人はどんどん人気のない方へと向かっていく。木々が生い茂った、まるで秘密基地でもこさえているかのような場所だ。メイド達の足が止まったのは、更にその先の、屋敷とは完全に別個の建物だった。
違和感を禁じ得ない建物だった。本邸は大きく、豪華な建物だ。それでもあまりある私有地に娯楽として他の建物を建てるのは分かる。でも、それを住居とするのは珍しい。
その光景が、まるで本邸から隔離されているように見えて、ロージーは正直戸惑った。
「タマラ!」
メイドの一人が声を張り上げた。
「子ネズミはいなかったけど、知り合いはいたわよ! 落として!」
「りょうかーい」
間延びした返事が、開け放たれた窓から返ってくる。
やがてその窓から飛び出したのは、色とりどりのドレス、扇子、帽子、靴――。
ロージーとルイスは、呆気にとられた顔でただただその光景を見ていた。夢のようだと思った。上からキラキラした髪飾りやヒラヒラしたドレスが落ちてくる様は幻想的で、現実性がなかった。現実に引き戻されたのは、それらがドサッと地面に叩き付けられる音を聞いてからだった。
「信じられない」
ロージーはキッとメイド達を睨み付けた。
「アデラのものをこんな風に扱うなんて。仮にもあなた達、仕えていた身でしょ? こんなことをして許されると思ってるの?」
「あたし達が仕えてるのはご主人様であって、あの子じゃないわ」
わざとらしくメイドは肩をすくめた。
「ご主人様はお情けで屋敷においてあげてただけなのに、たかが娼婦の隠し子の分際で、偉そうにされたら堪ったもんじゃない。根気よく世話してあげたあたし達に感謝して欲しいくらいだわ」
「そうよ。それに、このゴミだって、情けをかけて今の今まで捨てなかったこと感謝して欲しいわ。ご主人様にはどこかに移せって言われたけど、でもあんな子の私物のために使う労力がもったいないし、だからあんた達が持って帰ってもらうことにしたの」
「別に面倒だって言うなら、持ち帰らなくても良いけど。地面に落ちたゴミだってことで、あたし達が回収するから」
互いに顔を見合わせ、メイド達はクスクス笑い声を立てる。ひどく不快な笑い声だった。あまりの怒りに、どう言い返したものかロージーは頭の整理がつかない。
「その子達、あの子の友達?」
窓からタマラが顔を出す。下のメイドは手を振ってそれに応えた。
「同じ孤児院の子だって」
「だろうね! 友達なんかいるわけないと思ってたけど!」
あはは、と不愉快な笑い声が耳をつんざく。
「あの子、我が儘で困ったもんでしょ。偉そうだし生意気だし何にもできないし! 良いこと教えてあげるわ。あの子に我慢ならなかったら、暗いところに閉じ込めてみなさい。しばらくはピーピーうるさいけど、そのうち黙りこくるから! 本当にスカッとするわよ!」
「一体誰よ、簡単な取り扱い方法見つけ出したの」
噴き出して下のメイドが問う。タマラはにんまり笑った。
「見つけたんじゃないわ、そうなっちゃったのよ」
「どういうことよ――」
詳しく聞き出そうとしたようだったが、タマラの隣に現れた人物を見つけ、途端に彼女は口をつぐんだ。背はまだ低かったが、隠しきれない威厳が彼にはあった。
「あいつはどこに行ったんだ?」
窓から見下ろし、イアンはキョロキョロと辺りを見回す。タマラは慌てて頭を下げた。
「いえ、もう帰ったそうで」
「あいつらは?」
「同じ孤児院の子達です」
「なんでゴミが散らばってるんだ。不愉快だな。早く片付けさせろ」
「はっ、はい!」
決してイアンの声に従ったわけではない。それでも、ロージーとルイスは、静かに周りに散らばったアデラの私物を拾い始めた。いつまでも見世物のようにしておくことに心が痛んだのだ。すぐにでもアデラに返してあげたかった。
アデラは意外とものを大切にする子なのだろうか。もう小さくなって絶対に着られないであろうドレスに靴、流行遅れの子供っぽい髪飾り、ちらほらと見えるのは、すれ着れた絵本の数々だった。
トランクに入りきれなかった、女子供たった二人では抱えきれずになくなく置いて行くしかない思い出の数々。それが、こんな風に扱われることがあっていいわけない。
ロージーが睨むようにきつく上を見上げれば、気づいたのかそうでないのか、イアンはふっと視線を逸らした。
「もうこの部屋の使い道は考えてある。今日中に綺麗にしろよ。あいつの痕跡を綺麗さっぱりなくせ」
「はい」
それを皮切りに、窓は閉じられた。三人のメイドは、振り返りもせず別塔の中へ入っていく。ロージーとルイスは無言でアデラの荷物を集めきり、両手一杯に変えながら、ロドニーの小屋へと戻ってきた。
二人が抱えている荷物を見て、一目でアデラのものと分かったのか、彼は悲しそうにため息をついた。
「これで、もうお嬢様がこのお屋敷に帰ってくることはないのでしょうね」
ロドニーは、部屋の奥まで二人を招き入れる。
「そのお荷物、しばらく私の家に置いておきましょう。ご自分の思い出の品を放り出されたと分かれば、お嬢様は悲しむはず。落ち着いた頃に、私が持って行きます」
アデラのドレスは小さく畳まれタンスの中に、髪飾りは戸棚の中に仕舞われた。絵本や靴は、小さな箱の中に。仮にも令嬢の私物とは思えない量だった。小さな小屋の、小さな物置に簡単に仕舞いきれた。ロドニーが物置の扉を閉め、アデラの思い出の品々は束の間の眠りに落ちた。
「本題を忘れていました。すぐ済むと良いながら、すっかり時間を頂いてしまって。私のお願い事なのですが、お嬢様に、これをお渡しして頂きたく」
そう言ってロドニーが差し出したのは、バラの花束。一つ一つが大輪で、小さくとも華やかなアデラによく似合うことだろう。こぢんまりとた小屋に大きなバラの花束は非常に目立つので、小屋に入ったときからロージーがずっと気になっていたものだった。両手に花束を抱えると、香しい香りが鼻腔をくすぐる。
「綺麗なバラですね」
「ありがとうございます。丹精込めて育てたので、やはりそう言っていただけると嬉しいものですね。お嬢様は、バラがお好きでしたから」
「でも、直接渡した方がアデラも喜ぶのでは?」
ルイスが首を傾げれば、ロドニーは視線を落とした。
「お嬢様が今一番お会いしたいのは、私ではありませんから。きっとがっかりされると思います」
「そんなこと……」
何か言いかけたルイスだったが、アデラのあの意気消沈ぶりを思い出し、口をつぐむ。今の彼女を喜ばせるのは、きっとこの中の誰もできないのでは。
「どうかお嬢様をよろしくお願いいたします。なかなか素直になれず、きついことをおっしゃることもあるかもしれませんが……どうか寛大なお心で見守っていただけませんか。善悪を教えれば、ちゃんと学ばれるお方です」
ルイスはしっかり頷いた。言葉が出てこなかった。
「よろしくお願いいたします」
再度深く頭を下げるロドニーに見送られ、ロージー達はバーンズ男爵邸を後にした。
二人は、今日の出来事を、自分たちの中でどう処理すれば良いのか分からなかった。もやもやとした何かが腹の中を渦巻き、濃いバラの香りに包まれていても、その気持ちは晴れなかった。