第二章 慈善学校

30:信じたくなかった


 コニーの母親に会いに行った時と同じ算段で、アデラ達は孤児院を抜け出す計画だった。誰にも見られないように抜けだし、そして気づかれないうちに帰ってくる。
 だが、そんな彼女たちのちっぽけな計画はお見通しだったようで、夕食前のバタバタした時期をわざわざ狙ったというのに、孤児院の門の前には、腕組みをしたロージーが立っていた。

「こんなことだろうと思ったわ」

 その顔は、やけにしたり顔で、アデラは眉を跳ね上げる。

「何のこと? 遊びにいっちゃいけないの?」
「別に誰もそんなこと言ってないけど。でも、どうせ遊びに行くんじゃないんでしょ? 大方、アデラのお母さんに会いに行くとか」
「違うよ!」

 コニーが懸命になって反論する。

「違うよ。おねーちゃんと一緒に……そう、お花畑に行くの。一緒にお花摘みに行くの!」
「花畑……」

 ロージーの口元がピクリと揺れる。馬鹿にしているのだ。コニーではなく、アデラを。
 大方、お花畑なんてアデラと似ても似つかないとでも考えているのだろう。失礼なことだわ、とアデラはますます不機嫌そうに顔を顰める。

「――そうよ。お父様のところに行くの。でもそれが悪い? 私が誰と何しようが、ロージーには関係ないでしょ?」
「ええ、そうね。関係はないけど」

 ロージーはあっさり頷いた。

「でも、アデラとコニーの組み合わせなんて、嫌な予感しかしなくて。あたしはリーダーとして、ちゃんと皆の面倒を見ないといけないの。面倒ごとを起こされないよう、監視するのも役目じゃない?」
「なに、もしかしてついてくるつもり?」

 アデラはげんなりとして聞き返した。この小うるさいロージーがついてくるなんて、堪ったものじゃない。折角会いたい人に会いに行くのに、どうして余計なものまでついてくるのか。

「当たり前でしょ。あんた、この前あんな目に遭ったばかりで――」

 そこまで言いかけたロージーだったが、アデラの表情が硬くなったのを見てすんでで堪え、そして。

「〜〜っ、とにかく、あたし達もついていくから!」
「あたし達?」
「僕のことだよ」

 アデラの不審な声を合図に、門の影からひょっこりと何者かが姿を現す。

「女の子達ばかりじゃ心配だからね。男手もあった方が良いかと」
「いらないわよ、そんなの」

 心の底からの本心で、アデラは反射的に返答する。だが、それでもルイスの涼やかな笑みに一矢を報いることはできない。

「遠慮しないで」

 本心か嫌味か、もはや爽やかにこう言われてしまうと、アデラも反論の気力を失ってしまうのだ。
 ロージーだけでなく、ルイスまでも。

「…………」

 アデラは痛みを堪えるような表情で、コニーの背をポンと叩き、一緒に歩き出した。後ろのコブ二つについては、考えないようにすることにした。後ろの二人は、透明人間。居ないものとして扱うべきだ。

「おねーちゃん?」
「ええ、行きましょう」

 そして二人は歩き出す。誰かさんのせいで、余計な時間を食ってしまった。アデラの足は自然と速まる。
 足取りは、迷いがなかった。一人で外出したことはないと豪語していた通り、アデラはこの辺りの地理に疎かったはずなのに、一体どうしたことかとロージーは内心首を傾げる。だが、その疑問を口にできる間もなく、一行はとある屋敷にたどり着いた。

「うわあ、大きい……!」

 コニーは思わずと言った調子で感嘆のため息を漏らす。

「こんなすごいところにおねーちゃんは住んでたんだね」
「……ええ、まあ」

 少しばかり苦い顔で、アデラは頷いた。それ以上同じ会話を続ける気はないようで、アデラは門まで近づいたところで、厄介者二名を振り返った。

「いい? ここで待っててね」
「どうしてよ。あたし達もついていくわ」
「嫌よ。絶対ここにいて。どうしてこんな大所帯で行かないといけないのよ。とんだ恥さらしだわ」
「何て言い草!」

 ロージーは目を白黒させた。アデラにしてみれば余計なお節介かも知れないが、ロージーとしては、気を利かせてわざわざついてきたにもかかわらず、こんな物言いをされるとは。

「コニーは良いの?」
「良いの」

 駄目元で聞いてみたが、アデラはやはりすげなく頷いた。そして彼女は、悪びれた様子もなくコニーを引き連れてさっさと敷地内へと歩いて行く。ロージーはもはや、あんぐりと口を開いたまま固まった。

「ほんっと……アデラったら」
「コニーとはすっかり仲良しになったみたいだね」

 ロージーの心境とは裏腹に、ルイスは心から嬉しそうである。

「子分だとでも思ってるんじゃない?」
「ロージー……。いくらなんでもそれは」

 思わず否定しかけたルイスだが、しかし、アデラならあり得るかも知れないと、ほんのちょっとでも頭の隅をよぎってしまった思考が後ろめたい。
 さて、そんな失礼な会話をしているとはつゆ知らず、アデラとコニーは、ずんずん屋敷の方へと歩いて行く。だが、敷地は広く、なかなか建物にはたどり着かない。だんだん疲労を覚えてきたコニーだったが、やがてアデラの歩みが自分よりも遅いことに気づいた。そして、ついにはその足は止まる。

「おねーちゃん?」

 コニーが心配そうに声をかける。促されていると感じたアデラは、渋々足を動かし、コニーに追いついた。とうとう二人は大きな玄関扉の前までたどり着く。
 こんなに豪勢な屋敷に来たことのないコニーは、扉の前でどうすれば良いのか分からない。だからアデラの様子を窺う。アデラは、扉を睨むように見つめたまま、微動だにしなかった。

「…………」

 入らないの、とコニーは声をかけたかった。自分の家なのだから、気にすることなく入れば良いのに、と。おとーさんも、きっと喜んでくれるはずなのに。
 そんなとき、どこか遠くの方から、カラカラと車輪が軋む音が聞こえてきた。扉を開ける勇気のなかったアデラは、これ幸いとばかり振り返る。自分たちの何倍もある背丈の馬車が、ゆっくりと敷地内へと入ってくるところだった。

「大きな馬車だね。もしかして、おねーちゃんのおとーさんかな?」

 コニーはワクワクしたような瞳でアデラを見た。が、対するアデラは、浮かない顔だ。
 どうしたのかとコニーは口を開きかけるが、その間にも、馬車は歩みを進め、ついには二人の前で停まった。馬車との対比も相まって、コニーにはアデラがひどく小さく見えた。重そうな扉が、音を立てて開く。

「これはこれは、誰かと思ったらアデラか」

 馬車から降りたったのは、アデラよりもいくつか年下の少年だった。質の良いシャツとベスト、そしてスラックスを履きこなし、まさしく貴族の子息といった風貌。とはいえ、その表情とは似ても似つかない。アデラを見るその顔は、侮蔑とも嘲笑ともとれる。

「すっかり見違えたな。小汚い乞食がいると思って追い払ってやろうかと出てきたのに」

 少年は無遠慮にジロジロアデラを見る。

「それにしても、お前、こんな所で何してるんだ? ようやくいなくなって清清したと思ったのに、誰の許可を得てここにいる?」

 詰問するような口調に、アデラはスカートの端を握りしめ、黙りこくる。いつもとは打って変わって様子の違うアデラを気にし、コニーは意を決して二人の間に入った。

「おねーちゃんをいじめないで」
「なんだお前は?」

 少年は片眉を跳ね上げた。

「孤児院の子供か? はっ、早速馴染んでるみたいで良かったじゃないか。親に捨てられた可哀想な子供同士、仲良くやったらどうだ」
「捨てられてない! おかーさんはちゃんと会いに来てくれる!」
「生意気な奴め、俺に口答えをするな!」

 少年はカッとして怒鳴った。突然の大声に、コニーは身体をすくめる。怯えたように下を向いた。
 それに気をよくした少年は、飽きずに更にアデラをいじめようと彼女に向き直る。が、それは結局果たされなかった。ガラガラと大きな車輪の音が聞こえてきたからだ。
 重厚な音を立てながら門から入ってきたのは、先ほど少年が乗ってきた馬車とは比較にならない程の馬車だ。大きく、煌びやか。一目で、中に誰が乗っているのが分かった。
 少年はパッと喜色を露わにした。

「父上!」

 彼の声に反応するかのように、馬車はピタリと停まった。出迎えに現れた執事が扉を開け、中から背の高い男が現れる。

「イアンか」
「父上、早いお戻りですね。会食が早く終わったんですか?」
「ああ」

 アデラにチラリと視線をやり、まるで見せびらかすようにイアンは男にひっつく。

「父上、前の試験、僕学年で一位だったんですよ。先生に褒められました。この調子なら、学院の首席も夢じゃないって!」
「そうか。さすが私の息子だな。よく頑張った」

 男の大きな手が、イアンの頭をゆっくり撫でる。イアンは心の底から嬉しそうな笑みを浮かべた。

「今日は一緒に夕食は食べられますか?」
「まだ仕事は残ってるが、そのつもりだ。夕食までには終わらせよう」
「やった!」

 無邪気に喜ぶその様は、まさに仲睦まじい親子といった様子。そこには何者も決して入ってはいけない一線がある。それは、アデラにも分かっていた。

「早く行きましょう、父上。あいつらと同じ空気を吸いたくない」

 唇の端を歪め、イアンは笑った。そこでようやく男の視線がアデラ達に向けられる。

「誰だ?」

 彼が放った一言は、アデラを惨めにさせるには充分なものだった。その一言で、アデラは自分という存在を思い知った。知らされた。

「乞食ですよ。お金を恵んでもらいに来たみたいです。厚かましくもこんなところまで入ってきて。恥を知らないみたいですね」

 イアンの声がどこか遠くから聞こえる。ついで、男の声も。

「食べ物を恵んでやれ」
「――かしこまりました」
「父上の懐に感謝するんだな」

 イアンの言葉が、余計にアデラを絶望にたたき落とす。

「お……」

 それでも、何か反論しようと、一矢報いようと、アデラはもがかなかったわけではない。
 だが、自分を見下ろす、無感動な、何事にも興味がないような、そんな視線とかち合ってしまったとき、アデラは悲壮な表情を浮かべたまま固まってしまった。誘拐されたときも、頬を打たれたときも決して挫けなかった心は、今ではいとも簡単に崩壊していた。
 ――今までだって、気づかないふりをしていただけだったのに。
 ここに来たのが間違いだった。
 私に、興味なんかないのだ。
 血が滲むほど唇を噛みしめ、アデラは身を翻して駆けだした。
 これ以上、ここにはいたくなかった。
 恥ずかしいし、情けないし、何より悲しい。
 あんなに会いたかった人なのに、アデラは結局、一言も声をかけることができなかった。
 屋敷の門すら駆け抜けたとき、誰か、己の名を呼ぶ者がいたが、アデラが振り返ることはなかった。
 その声は、自分が望む者のそれではなかったから。