第一章 孤児院

04:まだ眠たいのに


 誰かに強く肩を揺すられている。
 アデラは夢うつつの中でそっと呟いた。

「お母様……」
「起きて、アデラ。もう朝よ」

 しかし返ってきた声は、母のそれではなかった。
 母の声よりも低く、固い。
 アデラはゆっくりと瞼を開けた。途端に目に入る眩しい陽光と、柳眉をつり上げた少女の顔。

「おはよう、アデラ。あたしはロージー。たぶんあなたよりも二つか三つ、年上ね。ここでは今、あたしがが女子のまとめ役だから。何か分からないことがあったら聞いて。で、もうすぐ朝餉だから、これからあたし達は水汲みに行くよ」

 一気に捲し立てるように言われたが、アデラの寝起きの頭には全く入ってこなかった。そして何より不思議なのは。

「どうしてこんなに早く起こしたの?」

 窓の外を見ると、日は登ったばかりだった。いつもならば、もっと遅くまで寝ているのが常だった。
 アデラは顔をしかめると、薄い毛布を肩まで引き上げた。朝なので、多少は冷えるのだ。しかしそれを許さないのは目の前の少女、ロージー。

「こんな時間って、この時間帯はもう遅いくらいよ。起こそうとしても、あんた全く起きないから。ほら、早く起きて」
「眠い……」
「何言ってんの。これから仕事するのよ」

 欲望に従って毛布を被り直そうとするアデラの頭を、ロージーは軽く叩いた。

「何するのよ!」

 アデラはすぐさま飛び起きた。令嬢である自分に触れるどころか、頭を叩くなんて!
「あんたが怠けるからでしょう。ほら、早く寝台から降りて」
「私、以前はもっと遅くに起きていたの。こんなに早くに起きたら身体に悪いわ」
「早起きした方が身体に良いに決まってるでしょ? それに、あんたの前の家がどうだったかは知らないけど、ここではここの規律に従ってもらうから」

 そう言い放つと、ロージーは問答無用とばかり、力任せにアデラを寝台から引っ張り出した。彼女の馬鹿力には勝てないと悟ったアデラは、項垂れたまま彼女に身体を任せる。が、瞳には未だ闘志の炎が宿ったままだ。

「謝ってよ! 私の頭叩いたでしょ、ちゃんと謝って!」
「ちょっと叩いたくらいで何よ。そっちがいけないんでしょ。怠けるから」
「怠けてない!」
「怠けてる。すぐに起きなかったくせに」
「まあまあ、何の騒ぎですか」

 慌てて寝室にタバサが入ってきた。ちょっと部屋を見渡し、問題児達がアデラとロージーであることにすぐに見当をつけた。

「どうしたの? 何があったの」
「アデラがすぐに起きなかったんです。それで怒ってただけで」
「この子私の頭を叩いたのよ! いきなり!」
「ちょっと軽く小突いただけじゃない。大袈裟なのよ」
「大袈裟じゃない!」
「まあまあアデラ、一旦落ち着いて」

 困ったようにタバサは二人の間に割って入った。

「ロージー、アデラはまだ小さいんだし、そんなに怒らないの」
「小さい?」

 ロージーは驚いて声を上げた。

「十か十一でしょう? もう立派な年長です。ここではいつまでも甘ったれてたら許されないわよ。ただでさえあんたよりも小さな子が山ほどいて手がかかるってのに」
「――っ!」

 言い返せず、真っ赤な顔で押し黙るアデラ。
 ふるふると震える彼女を見て、タバサは困ったようにロージーを見た。

「ロージー、お願いだからそんなにきつい言葉を並べ立てないで。それに、いきなりアデラの頭を叩いたのは悪かったと思うわ。謝りましょう?」
「悪かったわね」
「――っ」

 私が謝れと言っても、かたくなに謝らなかったくせに。
 アデラは怒りで目を白黒とさせたが、ロージーは顔色すら全く変えず、シラッとしているだけだ。それが更にアデラの怒りを増長させる。

「あなたね!」
「アデラ」

 まなじりを決して口を開くアデラの肩に手を置き、タバサは膝を折った。

「ここではみんながいろいろな仕事をするの。早起きするのはまだ慣れないかも知れないけど、アデラも手伝ってくれるでしょう?」
「…………」
「返事は?」
「ロージー!」

 珍しくタバサが声を荒げた。ロージーは小さく肩をすくめると、そのまま寝室を出て行った。と思ったら、一度部屋を覗き、アデラを見やる。

「ついてこないと、今日の朝餉はないわよ、あんたの分だけ」
「お願いよ、ロージー。仲良くしてちょうだい」

 懇願するようにタバサは両手をもむが、ロージーはそんな院長を見てもどこ吹く風である。

「あたしは喧嘩しようなんて思っていません。ただ、ここでは仕事をしないとご飯を食べられないって言ってるだけです」
「……アデラ、行ってくれるわよね? ロージーのこと、手伝ってくれる?」
「…………」

 タバサの言葉に、アデラはようやく動き出した。顔は大分不服そうだが、それでも自分の意志であることには変わりない。

「ありがとう。二人とも、頑張ってきてね」
「はい」

 短く返事を返すと、そのままロージーはアデラに見向きもせずに歩き出した。アデラの方も、別にそのことに異論はない。
 朝の孤児院は、騒がしかった。アデラよりも明らかに年下の子供達がもう起きていて、掃除をしていた。とはいえ、お喋りに興じたり、箒を持ってチャンバラごっこをしたりと、その半数が自身の役目を忘れているようだが。
 しかし、それでもアデラよりも小さい子供が、きちんと朝起きて仕事をしていることに代わりはない。アデラは先の出来事を恥じ――ることはなく、ただ、どうして自分がこんなことをしなければならないのか、という疑問を浮かべていた。掃除なんて、使用人にやらせればいいのに、どうして私がやらなくてはいけないのか、と。
 ロージーに連れられて外へ出ると、途端に眩しい朝の陽光が目に入り、アデラは思わず立ち止まって目を瞑る。しかしそんなアデラの様子もお構いなしに、ロージーはどんどん先へ進んだ。
 アデラの大嫌いな虫のいる大木とは反対方向にロージーは進んでいった。そして彼女が立ち止まったのは、小さな井戸の前。

「私は畑の様子を見てくるから、あんたは水を汲んどいてね」
「み、水って」
「桶に三杯ね。食堂に運んでおいて。朝餉の飲み水にするから」

 それだけ言うと、ロージーはさっさと孤児院の裏手へと行ってしまった。

「…………」

 アデラは、おずおずと井戸の中を覗き込んだ。
 ――どこまでも続く暗い穴が、同じくアデラを見返してくる。アデラは、ぶるりと身体を震わせた。

「これ、井戸の中に入らないといけないのかしら……」

 貴族の令嬢として育てられてきたアデラが、井戸汲みのやり方など知っているはずもない。当然のごとく、彼女は井戸の前で途方にくれた。

「こんなところに降りるくらいだったら、朝食をぬかれた方がマシよ」

 そうごちるアデラだが、内心では、そんなことないと見くびっていた。なんて言ったって、自分は母が院長に直々に頼んだ令嬢なのだ。朝食抜きだなんて、そんな手ひどいことをするわけがない。

「あーあ、お腹空いたな」

 アデラは独り言を呟き、青い空を見上げた。昨夜は結局、パンとチーズ一欠片しか口にできていないのだ。お腹が空くのも当然というもの。
 アデラはこっくりこっくり船を漕ぎながら、早く時間が過ぎるのを待った。朝食の時間は、あとどのくらいだろう――。

「何やってんのよ。水はもう汲んだの?」

 突然上から冷たい声が振ってきた。アデラはのんびり顔を上げる。

「水。もう汲み終わったのって聞いてるの」
「やってない」
「…………」

 あまりにも堂々と答えたアデラに、ロージーはしばし呆然とした。しかし理解が行き渡ると、見る間にその表情に苛立ちが浮かんでくる。

「仕事、ちゃんとやらなかったら朝食抜きだって言ったわよね? あんたがその気なら分かったわ。今日のあんたの朝食は抜き。もうこれは覆らない。院長先生に泣きついても無駄よ。あたし、先生を押し切ってでもあんたには朝食は食べさせないから」

 ロージーはツカツカと歩み寄ると、アデラが抱えていた桶をぶんどった。そのときになってようやく、アデラも我に返った。ロージーがあんまり早口にまくし立てるので、脳が処理をするのが遅いのだ。

「私っ、暗いところ――」

 思わず出かかった言葉をすんでの所で堪えると、アデラは立ち上がって叫んだ。

「こんな気味の悪いところ所、入れる訳ないでしょ! まだ朝食抜いた方がマシよ! そんなに言うなら、あなたがやればいいじゃない!」

 ふん! とアデラはそっぽを向いた。偉そうに命令した分、ロージーが苦戦しながら井戸の中へ入っていく様を見届けるまで、てこでも動かないつもりだった。だが、ロージーは目をぱちくりとさせたまま、動かない。そうしてゆっくりと口を開いたかと思えば。

「水、汲んだことないの?」
「何よ。私がそんなことしたことあるように見える?」

 仮にもアデラは貴族令嬢である。そんな使用人がするようなこと、今まで一度だってしたことがないし、見たことだってなかった。
 そういったことをコンコンと説教し、また更に言えば、やれるもんならやってみろと挑発するつもりでもあった。こんな暗くて底の見えない井戸に降りれるものなら降りてみろ、と。

「まあ仕方ないわね」

 だが、驚くほどロージーは淡泊だった。

「ほら、こうやってやるのよ」

 アデラのことを知りもせずに責めたくせに、そのことを謝りもせず、また、馬鹿にする様子もない。ただ、静かに井戸の使い方を実践するのみだ。

「中になんて入らなくていいのよ。誰だってこんな中入りたくはないわ」

 ロージーは縄に括り付けられた桶を勢いよく井戸の底に放った。すぐに底でポチャンと水が跳ねる音がした。

「そしてそのまま縄を手繰り寄せる」

 桶がだんだんと上に上がってくる中、同時に上の方でカラカラと滑車も鳴り響いた。アデラは興味深げに上と下とを何度も見比べた。

「ほら、あたしはこれを食堂に持って行くから、あんたもやってみて」
「ええ……」

 バケツに桶の中の水を流し込むと、ロージーは桶をアデラに押しつけた。アデラは困惑しながらもそれを受け取る。

「…………」

 ロージーが孤児院の中へ入っていく中、アデラはおずおずと桶を井戸の中に放り込んだ。ポチャンと、と下で水が跳ねたのを確認した後、ゆっくりと縄を引っ張る。

「――っ」

 なかなかに、縄が重たい。
 アデラは今まで、ナイフよりも重いものを持ったことがなかった――とまでは言わないが、似たようなものだろう。今まではずっと使用人達に荷物を持たせていたし、自噴の荷物を自分で持ったのは、この孤児院に来るときくらいだった。そんな彼女が、その細腕で、重たい水の入った桶を持ち上げようとしている。

「……まだやってんの」

 呆れたような声が後ろからかかった。アデラは腕をプルプルさせるのみで、返事すらできない。

「っはあ……。まさか、ここまでとは思わなかった」

 まるで失望するかのような彼女の言葉に、アデラは成果を持ってして見返してやろうとしたが、思い空しくも、桶は全然上がってこない。

「貸して。あたしがやるから」

 ロージーの手が重なった。と思った瞬間、ずんずんと桶は上がっていく。アデラは悔しい思いと共に、正直なところ、助かったとも思った。なんでこんなことに真剣になっているんだろうという、空しさと驚きもあった。

「明日からは違う仕事言いつけるから。ほら、せめてこれ持って行って。運ぶだけならできるでしょ?」

 ロージーはバケツを持ち上げた。返事も返さずに、アデラはそれを両手にぶら下げる。
 重い。確かに重いが、桶を持ち上げるよりはまだマシだ。
 アデラは、途中途中に休憩を挟みながら、何とか食堂にバケツを運んでいった。途中、新たに水を汲み終えたロージーが飄々として隣を越していったことが、アデラには悔しくて堪らなかった。