第一章 孤児院
03:なんで私がこんな目に
感情の赴くままに食堂を飛び出したアデラだったが、やがて廊下の突き当たりにぶち当たり、はたと立ち止まった。
もしかして、逆の方向に来てしまったのだろうか。
アデラは、孤児院を出るという選択肢は頭になかった。母の言いつけを破れば、怒られるのはもう何度も過去に経験済みだ。
だが、とはいえ、大人しくしているつもりも毛頭なかった。アデラがここでの生活に馴染めないことが母に伝われば、もしかしたら迎えに来てくれるかも知れない。
そんな希望を胸に、アデラはわざとドスドスと音を立てて歩いた。こうしてもどうしようもならないことは分かっていたが、アデラの今の荒ぶった感情ををどうにかして解消したかったのである。
ここには母もいないし、使用人も、おいしい食事もない。
あるのは年取った老女と痩せこけた子供達、貧相な食事のみだ。
彼らと一緒にはいたくなくて、アデラは一人になれる場所を探し回った。廊下を戻り、エントランスから外へ出る。後ろ髪引かれる思いでアデラは門を見たが、どうせここへ出ても行く宛がないことはとうの昔に理解していたため、その先へ行くことはなかった。
代わりに、アデラは庭へ向かった。お金がない孤児院にもかかわらず、庭は大きく、多少なりとも整備されているように見えた。アデラの家も、いつも庭師が綺麗に木々や草花を整えていた。東屋もあったし、ちょっとしたバラ園もあった。それに比べると、孤児院のこの庭は、比較するのもおこがましいほどの差があったが、それでもアデラの探検心をくすぐる庭であることには変わりない。
アデラは、浮き足立つ心を抑え、ゆっくりと庭に足を踏み入れた。地面はぼうぼうと草が伸び放題で、虫も多い。アデラは口をひん曲げながら、しかしそれでも中へ進み入った。
突き当たりまで進み、アデラは角を曲がった。すると、突然目に入る目を見張るほどの大木。自分の体にぴったり嵌りそうなその木の幹を見て、アデラはにんまり笑った。普段、よく母親に構われず人寂しい時は、このような木の幹に自分の体を押し込んで寂しさを紛らわせていたものだ。そのことが瞬時に思い出され、懐かしさに彼女はつられるようにそちらへ歩み寄った。
近くで見ると、その大木はアデラの家のそれよりも遥かに大きいことが分かった。同時に大きければ大きいほど、安心することも分かっていたので、いそいそと彼女はその幹に自分の体を押し込む。そして足を両腕で足を引き寄せ、自ら窮屈な格好をした。それが、彼女が一番落ち着く形だった。
鼻腔をくすぐる森林の香りに、アデラは目を閉じながら浸っていた。嗅覚、聴覚だけが働く今この時だけは、自分の住み慣れた家にいるような気がして、アデラは安心していた。
しかし、それは束の間の出来事だった。ふと、腕がもぞもぞすることにアデラは気が付いた。痒くなってきて片手をそこにやると、何やら「それ」は、チクチクして、弾力があった。不思議に思って目を開けるた瞬間――アデラは悲鳴を上げた。母親が聞いたら、なんてはしたない、と窘められそうなものだが、生憎ここに彼女はいなかった。そしてアデラの腕に張り付いている毛虫を取ってくれる人もまたいなかった。
「いっ、いやあああ!」
アデラは金切り声を上げ続けた。反射的に腕を振り回すが、毛虫は彼女の腕からどいてくれない。むしろ、急に動いたことに驚いたのか、どんどん腕を登っていくばかりである。
「いやっ、いやああ!」
アデラは目じりに涙を貯めて、その窮屈な隙間から立ち上がった。相も変わらず叫び続けて腕を振り回したが、ぴったりと張り付いた毛虫はなかなか離れてくれない。
いよいよ理性の限界が超えそうになり、みっともなく泣き叫びそうになった時、バタバタと慌ただしくかける音が聞こえた。
「アデラっ! どうしたの!?」
不意に、自分を心配するこの声が母親のものに聞こえて、アデラの涙腺は壊れそうになった。だが、その声の主を見上げれば、途端にくぐもっていく幻聴。感極まった感情も瞬時に萎んでしまう。しかし、だからといって拗ねてはいられない。アデラは素早くタバサに駆け寄った。
「毛虫っ! 毛虫がいるの! 取って!」
「まあ、毛虫がついちゃったのね。ちょっとじっとしてて。取ってあげるわ」
タバサは足元から木の枝を拾うと、アデラの腕から毛虫を取り払った。ポトンと毛虫が地面に落ちたのを見計らうと、アデラはすぐにその場から飛び退いた。
「もう大丈夫よ、アデラ。でも毒でもあったら大変ね。手当てしないと」
なんてことないような顔でにっこり笑うタバサに、アデラは怒りがふつふつと湧きおこった。
「なんでこんなところに毛虫がいるのよ!」
「そりゃあ、こんな大きな木の下だったら毛虫くらいいるわよ」
「そんなの知らない! 私の家には毛虫なんていなかったもの!」
「アデラのお家はきっときちんと庭の手入れがされていたのね。でもここの庭は放っておいてあるから、なるべく近づかないようにしてね」
「なに、何よ……」
まるで、私が悪いみたいな言い方。
「もういい!」
アデラはふんっと鼻を鳴らすと、ドスドスと孤児院の中へ入っていった。
「アデラ! 手当てをしないと」
「いらない!」
なおもタバサが追いかけてくるが、不機嫌に言い捨てるのみで、アデラは立ち止まらなかった。だが、それもホールを過ぎたところまでだ。丁度食堂まで来たところで、夕食を食べ終えたらしい子供達とぶち当たったのだ。彼らは、立ち塞がる珍しい格好をしたアデラを見て、興味津々な様子で近寄ってきた。鼻たれの子供が一人手を伸ばしてきたところで、アデラはもう限界だった。
くるっと身を翻すと、ツカツカと今来たばかりの道のりを急いで戻る。途中で安心したようなタバサと遭遇した。
「こっちよ。手当てしましょう」
「…………」
もはや本当に行く宛のなかったアデラは、タバサに従うしかなかった。
タバサは、エントランスを真っ直ぐ突き進んだ。そして手頃な場所で廊下に立ち並ぶ扉の一つを開ける。
「ここがあなたの寝室よ。ちょっと待ってて。今消毒薬を持ってくるから」
そう言って、タバサはそのまま寝室を出て行った。
アデラはゆっくりと寝室を見渡す。
寝室、といわれたその部屋は、いくらかはアデラのお眼鏡に適う広さであった。しかし、気になるのはその汚さだ。汚れているのではなく、あちらこちらに衣服や玩具が散らばっていた。誰かが使っていた部屋だったのだろうか、とアデラが疑問をポツポツ抱えていると、タバサが帰ってきた。右手に消毒薬を抱えている彼女に、アデラは疑問をぶつけた。
「ここは、以前誰かが使っていた部屋なの? 凄く汚いのね。整理整頓もしなかったの? それに、どうして寝台がこんなにたくさんあるの? 一つ一つが小さいし」
一つ一つをくっつけて使うのかしら――。そうぼんやり考えながらアデラはその中の一つに倒れこんだ。見た目からしても期待はできなかったが、それは倒れこんでも同じだった。弾力性がないどころか固いし、変な染みもついている。唯一の利点は、お日様の香りがすることぐらいだろうか。
「この寝室は共同で使うのよ。一部屋十人ね。エントランスから入って右の廊下にずらーっと並ぶ部屋は、ほとんど寝室なの。私や職員の部屋は、その奥にあるから。何か困ったことがあったら、すぐに来ていいのよ」
「…………」
呆気にとられたまま、アデラは再度寝室を見渡した。
この部屋を……十人で使うと。
一人で使うとしても、何とか及第点だと考えたのに、それが十人になるなんて。
アデラは、気が遠くなる思いだった。そんなこととはつゆ知らず、タバサは寝台に腰を下ろすと、アデラの腕をとった。
「傷が残ったら大変だわ。消毒するわね」
「……ええ」
アデラは黙ってされるがままになっていた。腕をとられ、注意深く観察される。
「まだ腫れてはないみたいね。ちょっと染みるわよ」
タバサの忠告通り、消毒薬は確かに染みた。
だが、アデラは弱みを吐かなかった。母にいつも言われていたのだ。決して人に弱みを見せてはいけないと。
ギュッと唇を噛みしめるアデラの頭に、つい先ほど、たった一匹の毛虫で泣き出しそうになったことはすっかり頭から吹き飛んでいた。
消毒が終わると、軽くテープを巻いて終わった。テープを巻き終わった後も、タバサはアデラの腕から手を離さず、じっと優しく撫でていた。
「綺麗な手ね。お母様に大切に育てられたんでしょう」
「当たり前でしょ」
アデラは素っ気なく言い放った。少しでも気を抜けば、すぐにでも涙腺が緩みそうな気がした。
「大丈夫よ。きっと、お母様もすぐに迎えに来てくれる。それまでは、私たちと一緒にここで暮らしましょうよ。ね? アデラ」
「…………」
「お腹空いたでしょう? 後でパンとチーズ持ってきてあげるわね」
「……ええ」
「いい子ね」
本当に嬉しそうに笑うと、タバサはアデラの頭を撫でた。いつもなら、母にしか許さないその行為も、アデラは大人しくしていた。