第一章 孤児院
02:家に帰りたい
母の後ろ姿が消えた後も、アデラはずっとその場に立ち尽くしたままだった。その間、院長は労るようにアデラの肩を撫でるのみで、急かすようなことはしなかった。
やがて、アデラがきゅっと唇を結び、後ろを向くと、院長はようやく口を開いた。
「初めまして。この孤児院の院長を務めるタバサよ」
膝を折ってタバサはアデラと目線を合わせたが、視線か交わることはない。
「これからは私があなたのお母さん代わりになるのわ。いつでも頼ってね」
「……私のお母様は、この世でただ一人だわ」
拒絶するように吐かれる言葉に、タバサは苦笑を漏らした。
「そうね。でも、そんなに難しく考えないで。ここでは気軽に私を頼ってねっていうことよ」
そして、タバサは固く結ばれているアデラの手を包み込んだ。随分長い間外にいたのか、彼女の手は驚くほどにひんやりしていた。
「ほら、ここは寒いわ。もう中に入りましょう? 温かい食事も待っているわよ」
相槌すら少ないアデラだったが、タバサは懲りずに話しかける。
「ねえ、あなたのこと、アデラって呼んでもいいかしら?」
「別に構わないけど」
「そう、ありがとう。ではアデラ、これからあなたのお友達になる子たちを紹介するから、食堂の方へ行くわよ。ほら、いい匂いがするでしょう?」
食欲を増進する匂いに、思わず笑顔になるタバサだったが、くいっと袖を引かれ、アデラを振り返った。
「何かしら、どうかしたの?」
「ん」
アデラは黙って荷物を掲げた。彼女の細腕は、プルプルと震えている。わずかな沈黙の後、合点がいったタバサは、困ったように眉を下げた。
「ごめんなさい、気が利かなかったわね。半分持ちましょう」
「半分?」
アデラは不服そうな声を上げたが、皺だらけのタバサの顔を見て、それ以上は何も言わなかった。こんなになるまで使用人として働いているなんて、よっぽどお金がなくて困っているのねと、少々彼女のことを不憫に思ったのである。
孤児院の重い扉を押しのけると、暗いエントランスが始めに目にとまった。まるでお化けでも出てきそうなおどろおどろしい雰囲気に、アデラは顔をしかめる。
アデラの家も、夜になると確かに不気味ではあった。今にも動き出しそうな石像が並べられているホールは、たとえ遅く帰宅した母を迎えるためであっても、なるべく通りたくない場所であったし、たくさんの肖像画が並べられている階段は、いつも走って通り抜けるのが日常茶飯事だった。だが、ここは。
石像も肖像画も何一つない。にもかかわらず、単純に明かりがないだけで、震え上がるような不気味さを醸し出していた。立て付けが悪いのか、わずかに開いた窓はガタガタ揺れているし、それに呼応して、カーテンもはためいている。自分たち以外に誰かがいるような、そんな気配を想像せずにはいられず、アデラは鼻に皺を寄せた。
「こっちよ」
薄気味悪い雰囲気をものともせず、タバサはエントランスを右に曲がり、廊下を突き進んだ。アデラも慌ててその後を追う。
「本当は荷物を置きに行きたいところだけどね、まずは食堂ね。アデラもお腹空いてるでしょう?」
「――うん」
アデラは大人しく頷いた。
ここへ来る途中、久しぶりに母とご飯を食べたのだが、育ち盛りのアデラは、もうお腹が空いて堪らなかった。ぐうぐう悲鳴を上げるお腹を抱え、タバサと共に食堂に足を踏み入れた。
「いらっしゃーい!!」
甲高い歓声と共に耳に飛び込んできたのは、盛大な拍手だ。静と動、暗と明――そのあまりの差に、アデラは頭がうまく働かず、しばしその場で固まっていた。タバサがポンと彼女の背を叩いてようやく、アデラは目を何度も瞬かせた。
「アデラ、この子たちがこれからあなたと共に暮らすお友達よ」
アデラににっこりと笑ったタバサは、次に食堂に座っている大勢の子供たちの方に向き直った。
「皆さん、今日、また新しいお友達が来ました。仲良くしましょうね。――アデラ、自己紹介できるかしら」
タバサは気をもんでアデラを見つめた。
このように、突然大勢の聴衆の前に放り出されたら、大抵の子供は委縮してしまって何も話せなくなる。タバサはまだ情緒の安定していないだろうアデラを心配した。――が、それも取り越し苦労だったようで、彼女はまっすぐ前を見て言葉を押し出した。
「……アデラ=バーンズ」
アデラのしっかりとした声に、タバサは顔を綻ばせた。しかし、すぐにハッとすると、言いづらそうに視線を這わせた。
「アデラ、ごめんなさい。言うのを忘れていたわね。これからはあなたの家名――バーンズは言わなくてもいいのよ」
「どうして?」
「ここのみんなは全員名前だけなの。でも寂しくはないのよ、みんな家族だから。あなたも今日からその一人になるの。みんなに合わせてくれる?」
「私の家族はここにいないわ。私の家もここじゃない」
タバサが何を言っているのかさっぱり分からず、アデラはキッと彼女を鋭い目で見上げた。荒々しいアデラの背を、タバサは宥めるように撫でた。
「そうね、確かにそうだわ。でもね、あなたは一時的にここで暮らさないといけないの。お母様にそう言われたでしょう?」
「でも……でも」
「今だけ。今だけは、あなたは一人の女の子のアデラよ。ほら、席について」
タバサに促されるがまま、アデラは小さな椅子に腰を下ろした。荷物はタバサが預かり、部屋の隅に置かれる。汚そうな地面に荷物が下ろされ、アデラの顔は一層悲壮感を帯びる。
気落ちしたまま、アデラは目の前のテーブルを見下ろした。古ぼけた木製のテーブルの上に、同じく使い古された食器が並んでいた。
シチューとパンとベーコン。たったこれだけの食事である。
もしかして後からもっと出てくるのかしら、とアデラはシチューを口に含んだ。
「アデラ」
大人しく食事を始めるアデラに、タバサの声がかかった。アデラが顔を上げると、不思議そうな子供達の視線が自分に集まっていることに気がついた。
「アデラ、ここでは勝手に食べ始めてはいけないの。みんなで食事の挨拶をした後、ようやく食べることができるのよ」
「…………」
「ほら、じゃあみんなも食べ始めましょうか。――今日も慈悲深き神に感謝して頂きましょう」
タバサが十字を切ると、子供達も同じく一斉に十字を切った。そして我先にと、食事に手を付け始める。彼らが最初に手に取るのは、やはり本日の主菜であるシチューだった。息を吹きかけて冷ますのもおざなりに、勢いよくかきこむ。
ガチャガチャと騒がしい食事風景に、アデラは目を白黒させていた。
いつもとは違って騒がしい食堂に、いつもとは違っておいしくないシチュー。何もかもが初めてで、真新しくて、でも何もかもが嫌になることの連続だった。
アデラは黙ってスプーンをテーブルに置いた。彼女を注意深く見守っていたタバサは、困惑したように首を傾げた。
「どうしたの、アデラ? どこか具合でも悪い?」
「おいしくない、これ。味が薄い」
親の敵でも見るように、アデラはシチューを見下ろした。
確かに、見た目は普通のシチューだ。匂いも、近くに寄れば、それらしい匂いはする。ただ、味がものすごく薄かった。
「そう。口に合わなかったのね。でも、今日の食事はこれだけなの。我慢してくれない?」
「じゃあもうデザートだけでいい。私、シュークリームが食べたい」
「ごめんなさいね、アデラ。デザートはないのよ」
「なんで?」
「なんでって……」
言葉に窮し、タバサは押し黙った。そんな彼女に、アデラは諦めたようにため息をついた。
本当は、分かってはいたのだ。見るからにお金のない孤児院に、大層な食事など求めても出てこないことは。主菜であるシチューがこれだ。デザートなんて、あるわけがない。
「私……家に帰りたい」
そしてもっとちゃんとしたものを食べたい。こんな質素なものではなく。
思わず呟いたアデラに対し、タバサは慰めるように微笑んだ。
「今日からあなたの帰る場所はここよ、アデラ。ここがあなたの家なの」
そう言って小さな食堂を見渡すタバサにつられ、アデラも見渡した。
そこには先ほどからタバサとのやり取りを興味津々な瞳で見つめる大勢の子供達がいた。皆、同様に痩せこけている。棒のように手足は細いし、服だって着古したものを何度も手直ししたような跡が見受けられる。
――私もこんな風になるのだろうか。
アデラはぼんやりと考えた。
孤児院の話は聞いたことはあった。親に捨てられた者や、両親が亡くなった者、何れにせよ、孤児院の子供たちには親はいない。そこで働く職員を親代わりとして、境遇が同じである他の子供たちと共に暮らす場所――それが孤児院。
――じゃあ、私もそうなのだろうか。
アデラは、思わず身震いした。
私のお母様は生きているのに、どうして私はここで暮らさないといけないのだろうか? 私は捨てられてないのに、この子達とは違って、お母様だっているのに!
「もう……もう、こんなところ嫌!」
突然アデラは叫ぶと、タバサを押しのけて食堂から飛び出した。後ろからタバサの呼ぶ声が聞こえるが、アデラは構うことなく走り出した。