第一章 孤児院
01:行かないで
人っ子一人いない廃れた街道。そこに、似つかわしくない服装の母娘が立っていた。女は派手な身なりをし、同性で会っても思わず目をそらす程の露出があるドレスである。身につけている宝石や髪飾りなど、一見すると貴族らしい装いには見えるものの、貴族婦人らしからぬ胸元や足の露出は、おそらくマナーを重視する貴族社会においては、ひどく不興を買うだろうことは容易に想像がつく。
一方で少女は、両手に大量の荷物を持っていた。まるでどこかへ旅行に行くかのように重たそうなバッグを抱え、長時間歩いてきたのか、小さな手は真っ赤になっている。それでもそのことはさして気にした風ではなく、むしろ両手の荷物など忘れているかのように、ひしと母親にしがみついていた。
「もう、いい加減離れて。家でもちゃんと話したでしょう?」
「いや……」
「我が儘言わないの」
女は前屈みになって少女の頭に手を乗せた。
「アデラ。お母様はね、もうあなたとは一緒に暮らせないの。そんな余裕はないのよ。だからこれからはここで暮らしてね」
「どうして? どうして一緒に暮らせないの? お願い、私を置いていかないで」
「無理言うんじゃないの。そんな余裕はないって言ったでしょう? ……大丈夫、お母様が裕福になったら、きっと迎えにくるわ」
そう言って女は少女の手を外そうとするが、彼女は頑なに母親の腕を放さなかった。
「それっていつ? いつまで待たなきゃいけないの?」
「それは分からないわ。アデラがいい子にしてたら、きっと迎えに行くから」
宥めるように女は少女の頭を撫でた。それでもイヤイヤと少女は首を振る。
「嫌だ……行かないで、お母様」
健気に母を見上げる少女の瞳には、次第に涙が溜まってくる。受け止めるものがないそれは、音もなく零れ落ちた。
「アデラ」
ほうっとため息をついて、女はついにその場にしゃがみ込んだ。少女の肩に手を乗せたまま、ようやく視線を合わせた。
「よく聞いてね。あなたはこれからここで暮らすの。ここでの暮らしは、今までの生活とは比べ物にならないほど厳しいものになると思う。でも……それでも貴族の誇りは忘れてはいけないわ。あなたはどんなところにいても、どんな不遇に陥っても、貴族であることに変わりはない。貴族で生まれた者は、どんなことがあっても貴族なのよ。その血筋を誇りに思いなさい」
「お母様……」
困惑を浮かべた少女の腕をそっと外すと、女はふっと微笑んだ。
「背筋を伸ばして、しゃんとしなさい。あなたはここで生きていくの」
二人は声もなく見つめ合った。しかしそれも束の間、静寂の間を、錆びれた扉が開く音が切り裂いた。二人は反射的にそちらを見やる。
「まあ、もういらっしゃったんですか。リシェル様」
中から出てきたのは、くたびれた仕着せを来た老女である。小柄な体格や顔立ちも相まって、柔和な雰囲気が漂っている。
「院長先生、御機嫌よう。……これからアデラがお世話になりますわ」
「はい。娘さんは私たちが責任をもってお預かりします」
短い挨拶を交わすと、いよいよ女は少女に背を向けた。少女はなおも追い縋ろうとするが、それを引き留めるのは院長である。
「止めて、放してよ! お母様が行っちゃう!」
「大丈夫、すぐに会えるわよ。その間まで、ほんの少しの辛抱よ。……そうですよね、リシェル様。必ず、この子を迎えに来てくださいますよね」
院長の言葉に、女の足が止まる。振り向きはしないが、その後ろ姿が、僅かに動いた。
「――ええ。きっと、迎えに行きます」
もはや誰も引き止めることもないまま、女は歩き出す。彼女の後ろには、ただ唇を噛みしめ、俯いて静かに涙を流している少女と、彼女の方に優しく手を乗せる院長だけが残った。