第二章 慈善学校
28:言いなりになるもんか
食事をさせず、拘束しっぱなしで、水も少量しか与えない。おまけに、絶えず言葉の暴力が降りかかり、時には文字通り手が出ることもあった。それでも、アデラは耐えた。いや、耐えたと言うよりは、心を閉ざしたというのが正確かも知れない。ひたすら、何も考えないようにして、早くこの地獄が終わることを祈った。
そんな彼女に対し、男達は完全にお手上げ状態だった。食べ物で釣ってみても、手を挙げても、暴言を吐きかけても、この少女はびくともしない。
彼らは、一度たりとも、彼女の声すら耳に入れることができなかったのだ。
「もう我慢ならねえ」
ノーマンは苛立たしげに頭を掻きむしる。彼らとて、鬼ではない。子供を痛めつけて喜ぶような趣味はないし、できれば金だけもらってさっさとずらかりたいというのが本音だ。だが、待てども待てども、少女は口を開かない。こちらがいくら話しかけようとも、びくともしない。まるで自分たちの方が手玉にとられているようなこの状況が、ノーマンはひどく気にくわなかった。思わずその苛立ちが口調に表れる。
「誰だよ。どうせすぐに口を割るって言った奴は。やっぱりとことん後をつけて、家を突き止めた方が良かったじゃねえか」
「だってよお、こいつ全然家に帰らねえんだぜ。家出でもしてたのか?」
へへっと笑いながら男はアデラを小突いたが、彼女はやはり何の反応も返さない。
「仕方ねえ。もうここらずらかるぞ」
「ここを出て行って、当てはあるのか? こいつの家すらも分からないのに」
「今日は丁度競りだろ? 出すんだよ、こいつを」
ノーマンは前屈みになり、アデラの目隠しを外した。眩しそうに細められた翡翠色の瞳と目が合う。
「どうして目隠しを外したか分かるか?」
ノーマンはニヤリと笑った。
「もう必要ないからだよ。お前を家に帰すのなら、面が割れるのは怖いが、もう今となってはそんなことどうでもいい。顔が割れても、名を知られても、どうせお前はもう二度と表舞台にはあがってこられなくなるんだからな。そこから這い上がっていくのは不可能だ」
そう言ってノーマンはアデラを担ぎ上げ、外に連れ出した。屋内よりも更に眩しい光がアデラを襲う。
だが、幸か不幸か、アデラにしては、目隠しがなくなったことで、精神的に楽になれた。明るい光を目に入れることで、少しだけ活力を取り戻した。
アデラは、再び荷車の後ろに乗せられた。見張りのための男は一人で、アデラを監視するかのように、そして出入り口を塞ぐかのように長い足を投げ出し、通せんぼをする。アデラの方は、荷車の奥へと転がされたので、どちらにせよ彼の監視を掻い潜って逃げ出すことなど不可能だ。両手両脚も縛られており、己の足で動くこともできないだろう。
やがて荷車は動き出した。整備されていない道を走るせいで、アデラは全身に痛みを感じる。この数日ろくに睡眠もとれていなかったが、悪路はアデラにうたた寝する暇すら与えなかった。
固く瞼を閉じていると、荷車はやがて街の中へ入っていった。時は夕方なのか、出入り口から漏れる僅かな光は、オレンジ色を帯びていた。外は賑やかだ。内容までは聞き取れないが、様々な人の話し声が聞こえてくる。それだけではない、噴水の音、売り子の声、石蹴りをする音――。何もかもが、いつもの日常を作り出していた。アデラも、かつてその日常の一部だった。決して自分からはその仲間に入ろうとはしなかったが、確かに一部だったのだ。慈善学校からの帰り道、今日は待ち合わせをしてる人が少ないだとか、初めて見る遊びをしているだとか、いつもより調子よく売り子をしているだとか、そんな些細な日常が、手の届くすぐそこにあった。
アデラは目を開けた。暗い天井が目に飛び込んでくる。暗闇に、目は慣れていた。わずかに顔をもたげると、男は腕を組んだまま欠伸をしていた。四肢を拘束された、ちっぽけな少女に油断しているのだ。アデラは下に視線を向ける。荷車の出入り口は、厚いカーテンで仕切られていた。扉ではない。そこが糸口だった。
もぞもぞと身体を動かし、四肢を折り曲げ、そして。
アデラは渾身の力で荷台を蹴った。矢玉のように飛び出し、何とか日の差す外を目指す。途中で勢いが足りなくなって、地面に強かにお腹と顎とをぶつけたが、無我夢中でまた地面を蹴りつける。
外に、出た。
暗闇から一転、明るい場所に出たので、アデラは瞼を閉じる。その瞬間、地面に激突し、アデラはくぐもった声を上げた。ただ、不幸中の幸いか、市内のため、それほど荷車の速度が出ていなかったため、アデラは軽傷で済んだ。とはいえ、もしも今後続の馬車があれば、この程度の怪我では済まなかっただろう。
脱出には成功したアデラだが、全身を襲う痛みに、身動きがとれない。実際、手足を拘束されているのだから、それも当然だ。街の人々も、また同じだった。
突然芋虫のようにアデラが荷車から飛び出してきたのを見て、驚かないわけなかった。猿ぐつわまで噛まされているのを見て、何か事件の匂いを嗅ぎつける。続いてすぐに慌てたように降りてくる男を見て、それは確信に変わる。
「い、生きが良すぎるのも困ったもんだぜ」
はは、と乾いた笑い声を漏らしながらも、男は動揺を隠しきれない。アデラを担ぎ上げて再び荷車の中に戻ろうとした男だったが、彼の前に市民が立ちはだかる。
「待てよ! その子、もしかしてアデラちゃんかい?」
「……はあ?」
男の口角は引きつった。数日間全く聞き出せなかったこの少女の名が、どうして第三者から聞くことになるのか。
「孤児院の子達が毎日聞いて回ってるんだ。アデラちゃんを見てないかって。ここの町の人はみーんなアデラちゃんのことを知ってるよ! やっぱり誘拐だったんだな? ここ一連の行方不明の事件も、全部あんたらの仕業か?」
「な、何を言って……」
厳しい表情で詰め寄られ、男はすっかりタジタジになる。気づけば、往来の目線は全て自分たちに集まっており、荷車も容易には出発できないよう道路に人だかりができている。
「早く乗れ!」
焦ったような声が響き渡る。ようやく男も我に返ると、慌てたように荷車へ駆け込む。が、すんでのところで体格の良い男達に阻まれ、アデラを奪い返される。男は何とか荷台へと乗り込んだが、幾人もの男達に足を掴まれ、引きずり下ろされそうになる。
「出せ! 出してくれ!」
男の必死の声に、荷車はノロノロと動き出した。人だかりのせいで、ろくに前には進めないが、それでも無理矢理にでも荷車は逃走しようとする。
アデラのことは周りの女達に任せて、屈強な男達は、誘拐をもくろんだ荷車の後を追う。
アデラは、女性の柔らかい太ももに頭を乗せられ、猿ぐつわを解かれた。ついで手足の拘束を解こうと彼女たちは奮闘するが、きつく結ばれた結び目はなかなか解けない。うつ伏せになり、黙ってされるがままになっていたアデラだったが、突然上からのしかかる圧力に、息を詰まらせる。
「本当に良かった!」
薄れかけていた意識は、懐かしい声のみを耳に捉えた。この声はロージーか。
「おねーちゃん……!」
「死んでないよな? 大丈夫だよな?!」
「早く縄解いてあげないと!」
コニーにフリック、そしてその他孤児院の子供達のの前がポンポンと頭に浮かんでいく。
「よく頑張った、よく頑張ったね!」
そして最後にはルイス。
いつの間にか、声だけで判別できるほどになっていたのか。
寝不足の頭では、そんなことくらいしか考えられなかった。
全てがようやく終わったのだと、アデラは堪った疲労に逆らうことなく瞼を閉ざした。