第二章 慈善学校
27:一体何が起こったの
人通りの多い道を、ドレスを着た少女がたった一人で縫い歩く様は、非常に目立っていた。
貴族のお嬢様といった風貌の少女が、付き人もおらず、馬車も使わない状態で、しかも毎日同じ時間に同じ道を通るのだ。一層目立つというもの。
だが、よくよく見れば、ドレスの裾は土で汚れているし、髪もおおよそ綺麗に整っているとは言えず、育ち盛りにしては、手足も細い。お嬢様と一言で言い切るには少しおかしな様相で、見るものは首を傾げる。しかし、そんなことは些細なことだった。大事なのは、見るからに金持ちそうな少女が、たった一人で白昼歩いているということだ。
柄の悪い連中に目をつけられるのも、そう時間はかからなかった。
彼らはまず、少女が本当の意味で一人になる瞬間を探した。一人で歩いているとはいっても、周囲に人の目がありすぎる。誘拐するには、こっそりと、顔が割れないようにするのが鉄則だ。
その瞬間は、簡単に見つかった。彼女が毎日行く先はひっそりと路地裏に佇む孤児院で、そこまでの道のりに、ほとんど人の影はないのだ。
彼女は、毎日のように孤児院に行っていて、一体何のためにと疑問はないわけではなかったが、貴族の気まぐれの慈善活動だと思えば納得がいく。
少女は、荒野にある日突然現れた、金のなる木だった。あまりにも無防備で、世間知らず。
人気のない道を通るなと、保護者に教えられなかったのかと、彼女の後をつける男達は不憫にすら思う。
合図は単純なものだった。道の向こうから仲間が馬車を引き、狭い道を塞ぐ。少女が通り抜けようと端に寄ったところで、突撃。
「〜〜っ!」
少女の叫び声は、押さえつけられた手によって塞がれ、くぐもった声にしかならない。
誘拐は容易かった。少女の身体は驚くほど軽かったし、抵抗も可愛いものだった。慣れた手つきで猿ぐつわを噛ませ、手足をぐるぐる巻きにし、ついでに目隠しもして馬車の荷台に押し込む。ものの数分で完了である。
「こっちは終了だ」
「行くぞ」
少女の傍らに男が乗り込み、馬車は出発する。あっという間の出来事だった。少女はもぞもぞ動き、何とかしてこの事態をどうにかしようと試みる。だが、隣に座る男に苛立たしげに顔のすぐ横の床板を叩き鳴らされ、すぐに大人しくなった。
男は、タバコをふかしながら、少女を見やる。彼女を見て薄ら思うのは、そういえばこのドレス、前にも見たなという感想だった。彼女の年頃など、着飾りたい盛りだろうに、同じドレスを何度も着せるなど、ひょっとしたら、彼女の父親はけち臭い男なのかもと男はため息をついた。
*****
暗闇の中、アデラは震えていた。きつく巻かれた目隠しにより、視界が閉ざされている。時折頭の上で交わされる不穏な会話に、不規則に揺れる馬車、口元を締め付ける猿ぐつわ、身動きのできない格好――何もかもが不快だった。
始めは、せめて目隠しだけでも外して欲しいと声なき抵抗してみたものの、突然耳元で大きな音がしたので、それきりアデラは動くことができなかった。
いつになったらこの悪夢の時間が終わるのか。四肢を拘束され、おまけに視覚まで奪われているせいで、閉鎖感がアデラを襲う。そんなわけないと分かっていても、ここが暗く狭い洞窟か何かなんじゃないかと錯覚する。焦りは呼吸を速くした。喉元を圧迫する布のせいで、余計に呼吸がしづらい。このまま息ができなくなって、窒息してしまうんじゃないかとすら思う。
「ついたぞ」
だが、すんでのところでそう声がかかる。乱暴に担がれ、アデラは馬車の外に出た。途端に鼻腔に入ってくる森の匂いに、アデラは助かったと思った。洞窟じゃなかった。ここは森の中だった。
だが、そんな思いもすぐに収束する。男達は森に向かわず、誇りっぽい臭いのする屋内へと入っていったからだ。
「うまくいったな」
「ああ、目撃者もいないしな」
「だが、問題はここからだ。急がないと、兵が嗅ぎつける」
アデラはザラザラする床の上に転がされた。すぐ耳元をカサカサする何かが通り抜け、全身が総毛立つ。
「さてお嬢ちゃん」
誰かがアデラの前に立った。
「乱暴なことをして悪かったね。俺たちは、別にお嬢ちゃんに悪いことをしようってわけじゃない。できれば仲良くしたいと思ってる」
乾いた笑いがどこからか漏れ出る。何かを叩くような音がして、笑い声が止まった。
「俺はノーマン。お嬢ちゃんは何て名前だい? 自己紹介をしておくれ」
言いながら、男はアデラの猿ぐつわを外した。口の中の不快なものがようやく出され、アデラは口を湿らせた。だが、相変わらず目隠しは外されない。
「怯えてるのか? 悪かったね。何も怖いことなんてないよ。ただ、いつも自己紹介してるみたいに、自分の名前を言えば良いだけさ」
猫なで声で男は続ける。
「お腹空いたろう。うまく自分の名前が言えたら、ご飯にしよう」
「…………」
それでも、アデラは応えなかった。口を真一文字に結び、微動だにしない。その様から、男は何を思ったのか、急に立ち上がる。
「お嬢ちゃん。どうやら自分の身の程が分かってねえようだな」
低い声がすぐ側から降ってきたと思ったら、突然左頬に燃えるような痛みが走った。何が起こったのか分からず、しばしアデラは茫然とする。今まで痛いことなどとは無縁だった生活だったため、自分が何をされたのか分からなかったのだ。
「俺たちゃ別にお前を傷つけたっていいんだぜ。生きてさえいれば、お前のお父さんお母さんも交渉に乗ってくれるだろうからな。だが、お前が名乗りすらしないとなると、どこに金を要求できる? 金以外にどうすればお前の身の安全を保証できる? 頭なんて使ったことないだろうが、ここまで言えばどうすれば良いか分かるだろう、お嬢ちゃん?」
アデラの意志は固かった。そんなわけないとは思いながらも、このまま黙っていれば、男達が諦めてくれるのではないかと思った。
「なるほど、このお嬢様はよっぽど頭が悪いとみた」
しかし、そんな希望は呆気なく崩れ落ちた。今度は反対側の頬を打たれ、衝撃にアデラは左を向く。じわりと生理的な涙が浮かんだ。目隠しが湿ったのは、男達も気づいたらしい。乾いた笑い声を立てる。
「お嬢ちゃんも痛いのはいやらしい。まあ、まだ数日あるんだ。根比べといこうか」