第二章 慈善学校

26:素直じゃないんだから


 孤児院に戻って来られたのは、夜も随分更けた頃だった。アデラとコニーの姿が揃って見えないので、探しに行こうとしていた所だったらしく、タバサとロージーには随分叱られた。当然、こんな時間までどこに行っていたのかと聞かれたが、アデラは決して口を割らなかった。もちろん、コニーもである。
 アデラはあの後すぐに泣き止んだので、目が腫れることはなかったが、コニーは散々な状態だった。それどころか、孤児院について緊張感が途切れたのか、またも泣き出しそうな顔をしている。そんな様子を見て、ロージー達は詰問を切り上げるほかなかった。受け答えがしっかりできそうなアデラの方も、ふてぶてしくそっぽを向くので、事情は何一つ聞き出せやしない。以後気をつけること、と釘を刺すくらいしかできなかった。
 コニーは、夕食の後も一人ぽつんとしていた。つい先ほどあんなことがあったのだから無理もない。アデラは、声をかけることも考えたが、今話しかければ余計なことまで口走ってしまいそうで、自重した。代わりに、早々に寝室に引きこもる。なんとなくもう休みたい気分だった。
 アデラが一人寝る支度をしていると、洗濯物を片付けに来たロージーが入室してくる。寝間着を着込んだアデラを見て、ロージーは目を丸くした。

「珍しい。もう寝るの?」
「今日は疲れたから」
「子供みたい」
「何か言った?」

 馬鹿にされたように感じ、アデラはジロリと睨む。ロージーはわざとらしく肩をすくめ、口をつぐんだ。
 だが、そう時をおかずに、ロージーは再びアデラを見た。

「ねえ」
「何よ」
「もしかしてだけど、コニーのお母さんに会いに行ってたの?」
「…………」

 沈黙が答えだった。ロージーは深々とため息をつく。

「どうだったの? 想像はつくけど」
「信じられないわ」

 吐き捨てるようにアデラは言った。

「あんな風に邪険に扱うなんて。本当に信じられない」
「そんなものでしょ」

 だが、対するロージーは諦めた口調だった。

「皆が皆、あんたみたいに愛されて生まれてきたわけじゃないのよ」
「……分かってるわよ」

 アデラの表情は曇る。
 分かってはいる。盲目的に愛していたとしても、相手も同じ分だけの愛を返してくれるとは限らないということも。
 今日見た出来事が、第三者の――客観的な立場から見たそれだということも。

「おねーちゃん」

 ハッと顔を上げれば、寝室の入り口にコニーが立っていた。タバサからもらったぬいぐるみを腕に抱き、アデラを見上げている。

「もう寝るの?」
「もう寝るわよ。悪い?」

 ロージーに馬鹿にされた直後だったので、ついアデラの口調も刺々しくなる。だが、こんなことは日常茶飯事だったので、コニーは気にもとめなかった。

「今日、一緒に寝てもいい?」

 そして彼女が口にしたのは、思いも寄らない一言だった。当惑して、思わずアデラはコニーを振り返るが、彼女は黙って己を見つめるのみ。

「……別に、いいけど」
「ありがとう!」

 パアッと晴れやかな笑みを浮かべ、コニーは急いで寝間着に着替えた。小さな枕を持って、いそいそとアデラのベッドまで歩み寄る。

「おじゃまします」

 アデラよりも先に、ベッドに横になるコニー。アデラがふと顔を上げれば、からかうように口角を上げるロージーと目が合う。

「あら、いつの間にそんなに仲良くなったの?」
「うるさいわね。ロージーには関係ないでしょ」

 ふんとそっぽを向き、アデラもベッドに横になった。もう話したくないとばかり、アデラは毛布を頭に被るので、ロージーは仕方なしに退散することにした。

「じゃあお休み」
「おやすみなさい!」

 照明を消して、ロージーは寝室から出て行った。途端に静けさが部屋の中を覆う。暑いからと開け放っていた窓から夜の香りが鼻腔をくすぐる。アデラは目を閉じた。

「コニー……」
「なあに?」
「あなたは、とても良い子ね」

 我が儘も言わないし、素直だし、何度邪険に扱っても、おねーちゃんと慕ってくれる。
 ……だからこそ、浮かばれない。
 彼女を見ていると、まるで自分のことのように胸がひどく痛む。
 怖い。
 自分には――お母様しかいないから。

「おねーちゃん?」
「…………」

 アデラは、それ以上もう何も言わなかった。朝が来るのが怖かった。


*****


 小さな物音に目を覚ましたのは、きっと早く寝すぎたためだろう。瞼を押し上げれば、相変わらず暗い天井が目に入る。周りからは小さな寝息が聞こえていて、まだまだ朝は遠いと察する。
 これ以上覚醒してしまうと、こんな夜更けにたった一人で起きていることになる。無理矢理にでも寝ようと、アデラが再びギュッと瞼を閉じたその瞬間。
 アデラを起こした物音が、再び鳴った。
 ギシッ、ギシッと床板を軋ませながら、何者かが近づいてくる。
 アデラは無意識のうちにコニーの手を握った。異常事態にも関わらず、コニーはすやすやと寝息を立てている。一人では心細くて、すぐにでも起こしたかったが、恐怖で身体が強ばり、うまく動かない。
 怪しい人影は、寝室の中をウロウロしながら、着実にアデラのベッドに接近してくる。そうして、そろりそろりと近づき、覗き込んでくるその顔は――。

「お化け!!」
「――誰がお化けよ!」

 怪しい人影は女だった。更に言うならば、ちゃんと地に足ついた、人間だった。化粧もせず、眉毛もない青白い顔で、おどろおどろしい登場をしてはいたが、れっきとした人間の女である。

「なっ……コニーのお母様?」

 よくよく見れば、夕方見た姿と重なる部分も多々ある。気合いを入れた夕方の格好と、今の完全に気を抜いた状態とでは、天と地の差があったが、それでも顔の造形はエレンのそれである。
 アデラの言葉を肯定するかのように、お化け――じゃなかった、コニーの母エレンは、ベッドに腰掛け、ふんと鼻を鳴らした。

「ほんっと失礼な子ね。合って早々、お化けですって? 本気で言ってたら承知しないわ」
「…………」

 驚いたときに出る言葉が、本心じゃないわけない。
 そうアデラは思ったが、さすがの彼女も、言葉にはしなかった。エレンの怒りどうこうよりも、驚きの方が勝ったからである。
 アデラがじっと黙って見つめていると、居心地が悪くなったのか、エレンの顔も気まずいものに変わる。

「何よ。何か文句でもあんの?」
「何しに来たの?」

 アデラの直球にエレンは僅かばかり詰まったが、すぐに体勢を立て直す。

「仕事の帰りにちょっと寄っただけよ。別に用という程のことじゃないわ。欲を言えば、ちょっと眠らせてもらえればと思ったくらい。家に帰るより、ここの方が近かったし」

 長々と弁舌を振るいながら、エレンはベッドに横になった。その拍子に、ベッドが大きく軋み、アデラの米神がピクリと動く。

「いい、あたしはただ仕事の帰りに寄ってるだけだから。ちょっと一眠りするだけよ。これ以上話しかけてこないで」

 ツンと言い切り、エレンは瞼を閉じる。が、目を閉じてもなお彼女は、なんでこんな時間に起きてるのよとか、やっぱり生意気な子ねとか、ぶつぶつと余計なことをごちる。そしてそれは、ついにアデラに向かって放たれた。

「ちょっと、あんたいつまでここにいんのよ」

 アデラの米神に青筋が立つ。ピクピクと痙攣する口角を、すんでのところで堪える。

「失礼なこと言わないで。ここは私のベッドよ。出て行くのはあなたよ」
「はあ? コニーがここにいるから仕方なくあたしはここにいるのよ。あんたがいると余計狭いでしょ。気を利かせてどっか行きなさいよ」

 何という言い草か。
 もうアデラは呆れてものも言えなかったが、しかし、ここでひいてはアデラではない。毅然としてアデラはエレンに立ち向かった。

「嫌よ。どうして私が移動しなきゃならないの。あなたがコニーのベッドに行けばいいじゃない」
「それじゃ意味が――」

 言いかけ、すんでのところでエレンは次に続く言葉を飲み込んだ。

「……もういいわ」

 そして言葉少なに黙り込むと、仰向けになって目を閉じる。戦意を喪失したようだ。そうなると、アデラもそれ以上何かを言う気力などなくなってくる。エレンと同じく、顔向けになって瞼を下ろす。
 先ほどと同じ、夜の闇が辺りを包み込む。
 アデラの口元は、いつの間にか弧を描いていた。