第二章 慈善学校

24:考えたことなかった


 慈善学校が終わると、アデラは例によって一人でさっさと孤児院へ帰宅する。たとえ帰り道が一緒でも、今まで同年代の存在が近くにいなかったため、距離感が分からないのだ。それに、一人が嫌だということもない。今までだって、母の帰りを待つ間はずっと一人だったので、それが苦であるはずがないのだ。
 ただ、今日はそんなことにはならなかった。校門前に、ここ最近見慣れた少年の姿があったからだ。

「アデラ!」

 どうして彼がこんな所にいるの、とアデラの顔はげんなりする。孤児院ですら彼には会いたくないというのに、何が嬉しくて、学校でもルイスの顔を拝なければならないのか。

「そんな嫌そうな顔しないでよ。あれ、フリック達は?」
「まだ教室でしょ。コニーを待ってるんじゃない?」
「一緒に帰らないの?」
「ええ」
「帰り道は同じなんだから、一緒に帰ればいいのに」
「そんなの人の勝手でしょ」

 アデラは頬を膨らませた。ルイスは小うるさいからアデラは苦手だった。彼女のやることなすこと全部に口を出してくるのだから堪らない。

「そもそも、こんな所で何してるの?」

 ルイスに興味はないが、慈善学校と何の関係もない彼が今ここにいるという事実には興味を惹かれる。仕方なしに訊ねれば、ルイスは気持ち悪いくらいに顔を綻ばせた。

「良いことを聞いてくれたね」

 その顔を見た途端、聞かなければ良かったとアデラは思ったが、もう後の祭り。人の行き交う校門の端に身を寄せ、ルイスと向かい合う羽目になった。

「ね、この後暇?」
「どうしてそんなことを聞くの?」

 もう嫌な予感しかしない。アデラは一層疑い深い顔になった。

「ちょっと聞いてるだけだよ。ねえ、どうなの?」
「暇じゃないわ、私だって」

 思わずそう答えれば、ルイスはアデラを見透かしたように笑った。

「じゃあ帰って何するの?」
「……洗濯?」
「おー、洗濯か。アデラも成長したね。自分のドレスも一人で洗濯するようになったんだ?」
「それくらいするわよ」

 小馬鹿にしたような物言いに、ますますアデラは膨れる。彼との会話は早く切り上げた方が良いと、アデラがジリジリと後ずさりし始めたとき、後ろから声がかかる。

「ルイスさん」

 思い当たる声に後ろを振り向けば、そこにはロージーやフリック、コニーやその他孤児院の子供が勢揃いである。なんて運が悪いんだろうとアデラの口がひん曲がる。

「どうしたんですか、こんな所で?」

 ロージーの問いは、ルイスがここに居ることを訝しんでいるものだった。てっきり彼らの中の誰かと約束でもしていたのかと思っていたが、そうではないようだ。アデラは不思議そうにルイスとロージーを見比べ、ことの成り行きを見守る。

「ほら、この前王立学院見学したいって言ってたでしょ? 丁度今日暇だったからさ、今から皆でどうかなと思って」
「わあ、俺たちもいいんですか?」
「コニーも?」
「もちろん」

 ルイスは躊躇いもなく頷いた。それに反し、ロージーは消極的だ。

「こんな大所帯で押しかけて、迷惑じゃないですか?」
「そんなことないよ。もう許可は取ってあるし、ぜひ」
「だったら……お言葉に甘えて」

 ロージーはようやく控えめに笑みを見せた。彼女が笑うことなど数少ないので、ロージーの笑顔など貴重だ。よっぽどその王立学院とやらは楽しい場所なんだとアデラは想像を膨らませる。かといって、自分もついていく気など毛頭ないが。

「アデラはどうする?」

 その場の空気が固まリかけていた頃、ルイスは再びアデラに話を戻した。アデラは光の速さで首を振る。

「私は良いわ。洗濯があるっていったでしょ?」
「洗濯? 使用人みたいなことはしたくないって、あれだけ言ってたアデラが?」

 からかうようにロージーは口角を上げる。アデラはムッとしたが、彼女の馬鹿にしたような表情のその先に、満面の笑みを浮かべたルイスの顔が目に入り、思わず口元を引きつらせる。

「用事もないみたいだし、アデラも行こっか」
「行くわけないでしょ!」

 何故だか断定的な口調に、アデラは叫び返し、走り出そうと身を翻した。が、それよりも一瞬早く、ルイスはガシッと彼女の腕を掴む。

「遠慮しないで。ほら、これも良い経験になるから。一緒に行こう?」
「絶対に嫌!」

 最大限顔を歪ませて拒否するアデラだが、ニコニコと菩薩のような笑みを浮かべるルイスには適わない。そのままズルズルと連れて行かれ、しまいには抵抗するのが面倒になったアデラが先に諦めた。仕方なしに、ルイス達一行の数歩後ろを、とぼとぼ歩く形になる。

「楽しみだなあ、学院!」

 見るからに一番ウキウキしていたのは、意外なことにフリックである。彼に釣られて、子供達もそれぞれ頷く。まだ小さい子供達は、今から行く場所がどういう場所なのか、いまいち分かっていなかったが、皆で出掛けるという、そのこと自体が楽しいのだ。
 やがて遠くに見え始めた学院の門をルイスは指さした。

「皆はあそこの門から入ってね。お願いはしてるから、守衛に僕の名前を出して、見学したい旨を伝えて」

 そう言いながら、ルイスはなぜか門の方向とは逆方向へ歩き出そうとしている。フリックは浮かんだ疑問をそのまま口にする。

「ルイスは一緒に行かないの?」
「うーん、僕は一応今授業を受けているはずで……。門の外から君たちと一緒にやってきたら、明らかにおかしいというか」
「要するに、また授業を抜けだしたってことですか?」

 歯切れの悪いルイスに対し、ロージーはがっつり核心を突く。ルイスは照れ笑いを浮かべた。

「まあ、そういうことかな」
「そんなにいつも抜けだしてたら、いつか絶対気づかれて怒られますよ」
「そんなヘマはしないよ」

 胸を張るようなことではないのに、ルイスは自慢げである。彼を見ながら、アデラはどうにも納得いかない気分だった。
 いつも同じ服を着て、数日おきに現れるルイスなんて、暇人か使用人だといわれた方がよっぽど納得がいくのに。
 不機嫌そうなアデラ含む一行は、ヒラヒラ手を振るルイスを見送った後、学院の門へと近づいた。そこには守衛が二人立っており、物々しい雰囲気がある。

「あの……ルイスさんの紹介できたんですけど。見学できるって聞いて」

 さすがのロージーも、若干緊張しているようだ。声がうわずっている。

「ああ、話は聞いている。ルイス=ウェルトンの知り合いらしいな」

 二人の守衛は、互いに目配せした。

「ただ、付き添いもなく院内を歩き回ることは禁止されている。中に待合室があるから、そこでウェルトンを待つといい」

 だが、そういう間にも、ルイスはどこからともなく再び現れ、守衛の後ろの方から手を振っていた。いつの間に学院の周りをぐるりと囲っているあの塀を乗り越えたのだろうか。

「院内でもめ事を起こしたらウェルトンに責任がいくということを忘れないように」
「はい」

 子供達は殊勝に頷いたが、今のところ、問題児は当のルイスではないかと薄ら思った。

「おーい、皆」

 やりとりが終わった頃合いを見計らい、ルイスは駆けてきた。

「もう授業が終わったのか?」
「はい。でもその代わり宿題がたくさん出されて。今日はきっと徹夜ですよ」

 授業を早々に抜けだしたくせに、ぬけぬけと何を言うか。だが、爽やかに笑うルイスには、焦りも緊張もない。守衛は特に不審に思うでもなく、頷いた。

「学年主席も大変だな。頑張るんだぞ」
「はい」

 優等生ぶりを発揮しながら、ルイス達は門を後にし、早速院内に足を踏み出す。守衛達からまだそう離れてもいないが、待ちきれない様子でフリックが口火を切った。

「やっぱりルイス、首席なんだ」
「すごいねー」
「いや、そんなことは。それに、実技の方はからっきしだし」
「それでもすごいです」

 ロージーはぶんぶん首を振った。

「王立学院は最高峰の教育機関なのに、首席だなんて。ルイスさんはあたしの憧れです」

 あんまりロージーが瞳をキラキラさせて言うので、アデラはおかしくなって笑ってしまった。すると、その小さな笑い声が聞こえたようで、地獄耳ロージーはジロッとアデラを見た。

「何よ。何かおかしい?」
「いいえ、別に?」

 一体この彼のどこに憧れる要素があるのか、アデラは不思議でならなかったが、この場でそれを口に出すと、皆の顰蹙を買うだろうことは容易に想像がついたので、口をつぐむ。アデラも成長するのである。
 院内は広々としていた。まず門から校舎までの距離が長い。一本の煉瓦道が通るその両側を、見渡す限り芝が敷き詰められている。
 清潔そうな所だとアデラは思った。余計なものは一切なく、整然とした庭だった。それは建物の同じなようで、華美な装飾はなく、色使いも決して艶やかではなかったが、地味というわけではない。言うなれば、センスのある場所だった。それが王立学院だった。
 院内に入ると、授業終わりの生徒がパタパタと廊下を歩き回っていた。生徒は皆寮生でもあるので、家に帰る手間がなく、割合自由にできるのだ。ロージーの言うとおり、最高峰の教育機関でもあるので、その分予習復習に気を抜くことはできないが、それでも同級生と語り合うくらいの時間は残されている。
 年上の寮生に圧倒され、ロージー達の口数は少なかった。ルイスはそれを気にしながらも、校内を簡単に案内していく。
 フリック達男の子が興奮したのは剣や馬術を学ぶ訓練場だったし、ロージーが笑みを見せたのは図書室、コニーやその他小さな子供が喜んだのは、たくさんの楽器がある音楽室だった。そして、最終的には食堂に行き着いた。歩き疲れた子供達の腰は、休憩所ともなっている食堂の椅子に座った途端、それ以上あがらなくなったのだ。
 子供達を椅子に座らせたまま、ルイスはカウンターから人数分のタルトを持ってきた。子供達はもちろん瞳を光らせてそれに飛びついた。

「いいんですか? ご迷惑じゃ」

 だが、ロージーはタルトを前に控えめだ。ルイスは笑顔で首を振る。

「大丈夫だよ。外部の人間でも、生徒の付き添いがあれば、食べても良いことになってるから。僕が作ったわけじゃないけど、ほら、折角だから遠慮なくどうぞ」
「……ありがとうございます」

 ルイスに見つめられ、ようやくロージーもフォークを手にする。アデラなんか、とっくの昔に食べ始めていたので、もうほとんどタルトは姿を消している。

「おかわりいる?」

 嬉しそうにルイスはアデラに訊ねたが、彼女はそっぽを向くことで返事を返した。久しぶりの甘物で目の色を変え、まるで子供のようにがっついてしまったことが急に恥ずかしくなったのだ。
 とりあえず話題を変えようと、ずっと感じていた疑問を口にする。

「どうして皆同じ服を着ているの?」
「ああ、この服のこと? 生徒は皆制服を着用するように義務づけられているんだ。学院は身分なんて関係ないってことを表すためにもね」
「へえ」

 アデラはジロジロとルイスを見た。そういえば、彼も同じ服を着ていると今初めて気づいたのだ。

「いつも同じ服を着ていたから、よっぽど貧乏なのかと」
「なかなか失礼なことを言うね」

 ルイスは思わず苦笑いを浮かべる。嫌味ならまだしも、アデラのこの様子では、本気でそう思っていたことは容易に窺える。

「あたし、あの制服を着るのが夢なんです」

 アデラの質問を機に、緊張がほぐれたのか、ロージーは通り過ぎていく生徒たちを見つめながら、ポツリと言った。

「学院に行って、もっともっと学びたいんです」
「じゃあ行けばいいじゃない」
「そんなに簡単な話じゃないのよ」

 適当すぎるアデラに、ロージーはどこから話せば良いものかとしばし考える。

「あのね、そもそも王立学院に入るにはお金がいるの。それも、相当なお金がね。だから、ここに入学できるのはお金持ちしかいない。奨学金制度って言って、頭のいい人は学費が免除される仕組みがあるけど、皆当たり前のようにその枠を狙っているから、毎年すごい倍率なの。よっぽど頭のいい人じゃないと入れないわ」
「ふーん?」

 そんなことを言われても、アデラには想像つかない世界だった。ただ、頭のいい人と言われれば、思いつくのはロージーである。

「じゃあ、ロージーなら入れそうね。あなたの勉強に対するその熱意には時々うんざりさせられるくらいだから。学院に行けば少しは落ち着くんじゃない?」

 アデラの適当な返事に、ロージーは呆れたのか、目を白黒させた。それきり彼女が黙りこくってしまったので、代わりにルイスが跡を継ぐ。

「アデラは挑戦しないの?」
「私が? この学院に?」

 なんのために、とでも言いたげな口ぶりである。ルイスは深く頷いた。

「最近ぐんぐん成績も上がってるし。もっと勉強したいって思わない?」
「別に。私には慈善学校で充分よ」
「でも、学校はあと半年で終わりだよ? 半年経ったら、もう学ぶ場所がなくなっちゃうんだ」
「どういうこと? どうしてあと半年なの?」

 アデラは混乱して聞き返した。学ぼうと思えば、ずっとあそこに通い続けられると思っていた。

「あと半年で教育課程が修了するからよ」

 ルイスの傍らから、ロージーが口を挟んだ。

「もともと、慈善学校は三年で全課程が終わるものだし、アデラは三年の途中から来たじゃない。課程が終わっちゃったら、もう教えられるものもないのよ」
「じゃあ、三年から入った私はもったいなかったってこと?」
「当たり前よ。だからあたし、一年からやれって言ってたんじゃない」
「そんなの知らないわよ」

 思わず口を尖らせるアデラに、ロージーは深々とため息をついた。この考え無しのお嬢様の性格がまともになるのは、一体いつになることだろうか、と。

「でもね、アデラ。もっと勉強したい、そういう君みたいな子のために、学院の奨学金制度があるんだよ。そりゃ簡単な道のりじゃないけど、頑張ってみるのも一つの手だと思うよ」
「…………」

 返事は返さずに、アデラは周囲を見回した。
 特に、勉強がしたいと思った理由が合ったわけではない。目の前に課題があって、そしてアデラ自身が負けず嫌いだったからこそ、今の今までなんとなく学んできただけだ。これといった理由があるわけでもなく、ロージーのような熱意があることもない。
 アデラは釈然としないまま、行き交う学院の生徒たちをぼうっと眺めていた。