第二章 慈善学校
23:子供はこれだから
ダフネはその時お姫様だった。皆から可愛い可愛いと煽てられ、悦に入っていた。机の上に腰を下ろし、足を組むその様は、むしろ女王にも見えたが、彼女が身を包むドレスがその刺々しい雰囲気を緩和していた。
明るいマリーゴールド色のドレスは、見るものをうっとりさせた。普段このような綺麗で色鮮やかな色の服を着ることがない子供達は、物珍しかったし、何より驚きだった。手触りも滑らかだし、あまりにも細かいフリルや刺繍は、見れば見るほど引き込まれた。
それに、ドレスというものそのものが、とても心動かされる。
ダフネがいるだけで、教室が明るくなるね――明るいのは、ダフネではなくドレスそのものだが――取り巻きの一人が放った言葉は、ダフネの鼻を更に高くした。
「可愛いドレスね」
聞き慣れない高い声に、教室中の視線がそちらに向けられた。大して大きい声ではなかったが、聞く者を引きつける何かがあった。
彼女は、教室の入り口に立っていた。ダフネ達よりはいくらか大きく、年上なのだと容易に推測された。だが、それ以上に気を引かれたのは、彼女の様相。
まるで――いや、本物のお嬢様が登場したのだと思った。彼女はドレスを着ていたし、その条件はダフネと一緒。だが、圧倒的に違う何かがあった。
立っているだけで絵になるような、そんな美しさが彼女にはあった。幼い子供達には言葉にできない、何か。
ダフネとは何かが違うとしか言えない。立ち居振る舞い、表情、声、仕草、言葉遣い――その人がその人たらしめる、第三者に与える全ての印象が混じり合い、成した結果だったが、今の彼らにはまだ分からない。この何かの正体が。
「とっても素敵だわ」
再度、その少女は褒めた。それが合図だったかのように、ダフネは我に返った。自然に彼女の口元は弧を描き、頬は紅潮する。
単純に、褒められて嬉しかった。つい今の今まで、一生分の可愛いを聞いたような気になっていたが、自分の周りを囲む子供より、突然現れたお姫様の可愛いの方が、何倍も嬉しかった。
――まるで、自分も彼女の仲間入りになったような気がして。
――本物のお姫様になったような気がして。
ダフネは、分かりやすく有頂天になった。
「そうでしょ? 可愛いでしょ?」
「うん、本当に可愛い」
少女は微笑みながら近づいてきた。ダフネの周囲を囲んでいた子供達は、自然、彼女のために道を空けた。
「私もね、それとよく似たドレスを持ってるの」
少女の口から出た言葉を聞いて、ダフネはますます驚いた。今着ているドレスの他にも、まだドレスを持っているのか。
本物のお姫様だ。
ダフネは心底嬉しくなった。
「どんなドレスなの?」
「特注品のドレスよ。お母様が買ってくれたものなの。嬉しかったわ。朝起きたときに、枕元にドレスが飾ってあったの。起きたときに、すぐ明るい色が目に飛び込んできたから、その時の衝撃と言ったらもう」
少女がゆっくりと首を振る。
ダフネ含む子供達は、少女の語り口にすっかり聞き入っていた。彼女の口から出る話が、まるで別世界のことのように感じられる。
「でもね、私が成長するにつれ、ドレスが小さくなっちゃって、着れなくなったの。悲しかったけど、でも仕方ないわね」
少女が悲しそうに言うので、ダフネも眉を下げた。
「でもね、着れなくなっても、大切にとっていたのよ。私にとって宝物であることに変わりはないから」
「そりゃそうよ。折角のドレスなのに、捨てちゃうなんてもったいない」
「ええ、私もそう思ったわ。でもね、ずっとトランクにしまっていても、どちらにせよもったいないと思ったの。だから、可愛いって言ってくれる子がいたから、あげることにした」
そこで、少女は一息ついた。
「綺麗なマリーゴールド色のドレスだって、コニーはとても喜んでくれたわ」
少女の鋭い視線がダフネを捉える。
「ねえ、どうして私の特注品のドレスをあなたが着ているのかしら? 私、確かコニーにあげたはずだけど?」
少女はニコニコ笑いながら――それでいて、目の奥は笑っていない――ダフネに詰め寄った。
底冷えのする視線に、ダフネはたじろぐ。
「な、何よ。でたらめ言わないで! これは私のドレスよ!」
賛同を得るように、ダフネは周りを見渡した。すぐに同意が得られると思っていた彼女は、教室の隅にいた少女達を見て固まった。
「嘘つき」
彼女たちは、コニーの友達だった。
「コニーちゃんのドレス、無理矢理とったくせに」
「コニーちゃん泣いてた」
黙ってみているしかできなかったコニーの友達。だが、突然現れたお姫様に、勇気をもらった。
「脱ぎなさいよ」
少女は顎でドレスをしゃくって見せた。
「知らない人が私のドレスを着てるなんて、気分悪いわ」
ダフネはグッと詰まる。皆の視線が自分に向いていた。全身が震えていたが、己を助けてくれる者は誰もいない。皆が少女の威圧に圧倒されていたし、声も出なかった。
「何よ、こんなのいらないわよ!」
ダフネは喚きながらドレスを脱ぎ捨てた。少女がドレスが地に着く前に、何とか受け止める。ダフネは苛立たしげに鼻息荒くしていたが、そんなのは些細なことだ。
ドレスをギュッと抱き締め、少女はダフネを睨み付ける。
「今度コニーに同じようなことしてみなさい。私、黙ってないから」
――お姫様は、ただのお姫様ではなかった。目つきが悪いし、声に凄みがあるし、何より顔が怖い。
子供達は震え上がった。恐怖に身体を縮こまらせながら、黙って彼女が教室から出て行くのを見ていることしかできなかった。
*****
いつの間にか、コニーの涙は止まっていた。枯れたというのが正しいかも知れない。パンを食べていると、少しだけ気が紛れた。何もしてないと、ドレスのことを思い出して、また悲しい気持ちになってしまうからだ。
パンを食べ終えると、コニーはただぼうっとしていた。パンくずがむき出しの太ももに落ちていたが、彼女はそれに気づきもしない。
頭にあるのは、ドレスのこと。
折角憧れのアデラから大切なドレスをもらったのに、自分はそれをとられてしまった。
もうアデラは構ってくれなくなるだろう。そう思うと、コニーは再び涙が視界を覆うのを感じた。
だが、じわりと歪むその先に、明るい色が飛び込んできた。その色は、パサリとすぐにコニーの視界を覆い、真っ暗にする。
「え……あれ?」
慌てて視界のそれを取り払うと、コニーはマジマジと手の中のものを見つめる。信じられなかった。口角がゆるゆると上がるのを抑えきれない。
「わあ、おねーちゃんのドレスが上からふってきた!」
ドレスを抱き締め、コニーは立ち上がった。
ドレスと共にその場でくるくると回るその光景。まるでそこだけ舞踏会のようだ。
「やった! おねーちゃんのドレス!」
嬉しそうにはしゃぐコニーは、本当に可愛かった。
*****
夕食後は、皆でコニーのために誕生日の歌を歌った。孤児院の中では、誰かの誕生日があるたび、その歌を歌っているのだろうが、初めて聞くアデラとしては、何のことやらさっぱりだ。口を開けてとりあえず周りに合わせるということはせず、ただキョロキョロ周囲を見ながら居づらくしていた。
歌が終わった後は、皆がコニーの周りに集まり、朝贈り物を渡せなかった子達がコニーに次々と渡していく。その光景を見ながら、アデラはますます居住まい悪く立ち尽くしていた。
「コニー、これ絵本。お姫様が出てくる本よ」
「わあ、ありがとう!」
屈んだロージーから絵本を渡され、コニーはとびっきりの笑みを見せた。
「また読み聞かせしてくれる?」
「もちろん。何度だって付き合うわよ」
「ありがとう!」
絵本を抱き締め、コニーは何度も頷いた。
本当に心から嬉しそうで、彼女を見ているだけで飽きない。
無意識のうちにアデラはコニーを見つめていた。その視線に気づいたのか、はたとコニーは顔を上げる。目が合った。アデラが行動を起こすよりも先に、コニーはとたとたと近寄ってくる。
「悪いわね」
コニーに何か言われる前に、アデラは先手を打った。
「何も用意してないの」
悲しそうな貌が見たくなくて、アデラはそっぽを向く。コニーはゆっくり首を傾げた。
「コニー、別に何もいらないよ? おねーちゃんからこの大切なドレスもらったもん」
「でも……」
「じゃあ、抱っこしてくれる?」
コニーは、まるで見当違いのことを言い出した。呆気にとられ、アデラはコニーを見る。
「……そんなことでいいの?」
「うん! おねーちゃんに抱っこしてもらいたい」
曇りのない瞳でそう言われれば、アデラももう無碍にはできない。おずおずと両手を広げ、コニーを抱き上げる。
抱っこってどうするのかしら。
抱き上げてからアデラは初めてそのことに気づいた。だが、もう後には引き返せない。コニーの顔が案外近くにあって、アデラは気恥ずかしくなって彼女の後ろを見るようにする。だが、そうすると周りの、アデラ達をニコニコ見つめる視線が気になってくる。アデラはギュッと目を瞑った。
腕の中のコニーは、意外と重たかった。もともとアデラは重たいものなどほとんど持ったことがなかったので、それも当然だ。彼女の細腕はプルプル震える。
「あっ、おねーちゃん!」
アデラのそんな苦労など気にもせず、コニーは声をかけてくる。不機嫌そうにアデラは返事をした。
「なに?」
アデラの声と、誰かの声が重なった。アデラはパッと目を開けた。
手を上げるコニーと、同じく手を上げるロージー。二人の視線は交わっていた。
「……?」
自分を呼んだんじゃない? ロージーを呼んだ?
未だ状況を理解できないアデラは、コニーとロージーとを見比べる。彼女の疑問が分かったロージーは、苦笑交じりに言った。
「コニーはね、年上の女の子のことは全員お姉ちゃんって呼ぶのよ」
「はっ……」
分かりやすくロージーに説明された後でも、アデラの頭は理解が追いつかなかった。
そうしてたっぷり時間をとった後、ようやく事の次第が分かると、アデラはカーッと頬を真っ赤にした。
「――コニーなんか知らない!」
突然大きく叫び、アデラは足音も荒々しく食堂を出て行った。当の本人コニーは目を丸くして彼女を見送る。
「おねーちゃん、怒った? どうしたの?」
「さあ?」
唯一アデラのことを理解しているロージーは、笑って肩をすくめた。