第二章 慈善学校

20:絶対に許さない


 初登校の日から、アデラは本格的に学校に通い始めることになった。とはいえ、授業は大半が意味が分からず、休憩時間はロージーの所で復習の繰り返しだ。
 アデラは、ロージーが気味悪がるほど真面目だった。
 性格は捻くれているし、高飛車で我が儘。そんな彼女が、まさか勉学には真摯に取り組むなんて、ロージーは思ってもいなかった。悪意あっての行動ではなかったが、以前フリックが言ったことに対して、馬鹿にされたと思ったのだろうか。
 おまけに、アデラは要領が良かった。孤児院に帰ってきた後は、教科書を開こうともしなかったが、その代わり、学校にいる間は、熱心に勉強をしたのだ。休み時間はもちろんのこと、授業中、生徒相手に時々教師が挟む小話を、彼女は無意味だと判断し、その時間を予習復習に当てたり。彼女自身、飲み込みが早いというのもあったが、それ以上にひたむきに勉学に励んだことが功を奏したのだろう。

 学校にいるときのアデラは、まるで別人だった。ロージーが勉強を教えるとき、偉そうな態度が時たま顔を出すことはあったが、基本的には割と素直なのだ。孤児院に来たばかりの頃、猫のように毛を逆立て反発していた様が懐かしくなるくらいには。
 ロージーにとって、もう一つ不思議だったのが、カルロによる嫌がらせを、アデラがものともしていないことだった。
 カルロは、アデラの初登校をきっかけに、アデラに対して嫌がらせを始めた。無視をしたり、ものを投げたり、大きな声で悪口を言ったり。ロージーからしてみれば、子供っぽいとしか思えなかったが、当人にとっては酷く堪えるものだ。現に、アデラが来る前にカルロの標的になっていたフリックは、いつも泣かされていた。ロージーが庇っても火に油を注ぐだけだったので、内心どうしたものかと思っていた矢先、まさか一層厄介な出来事に発展するとは。

 アデラのことだから、すぐに癇癪を起こすか、教師を巻き込んだ大喧嘩を巻き起こすかのどちらかだと思っていたのに、成長したのか、はたまた同じ土俵に立ちたくないのか。
 とにかくアデラはカルロの嫌がらせを気にもしていなかった。しかし、そのことが余計にカルロを苛立たせることになる。
 授業を終えた生徒たちが帰路についていた時のことだった。アデラもまた、とっておきの綺麗なドレスを揺らしながら歩いていたとき――上から、茶色い水が降ってきたのだ。
 全身が冷たかった。アデラは信じられないといった顔つきで、己の惨状を見下ろす。いつもは明るいストロベリー色のドレスが、くすんだ茶色に変化していた。目も当てられない。まるでも物乞い――いや、それ以上にみすぼらしい。

「…………」

 無言のまま、アデラは顔を上げた。二階の窓から顔を覗かせるカルロと目が合う。

「貧乏人にはお似合いの格好だな」

 アデラの目がスッと細くなる。その表情が今までにないほど冷たいものだったので、カルロは怯む。だが、それも一瞬だった。すぐに自信を取り戻すと、取り巻きと一緒になって笑った。
 濡れネズミだの、小汚い野良犬だの、物乞いをする乞食だの。
 その言い様は散々だった。だが、アデラはそのどの悪口も耳に入ってこない様子で、ただカルロだけを睨み付ける。

「――私を怒らせたこと、後悔させてあげる」

 アデラは、いつしか不敵に笑っていた。濡れた髪を額に貼り付け、その隙間から真っ直ぐに見つめてくるその瞳は、何よりも眼光があった。カルロは無意識のうちにゴクリと生唾を飲んだ。
 カルロの金縛りは、なかなか解けなかった。ようやく動けたのは、ひとえにアデラのおかげに過ぎない。彼女が、単にカルロから視線を外してくれたからだ。
 アデラは、突然身を翻すと、ものすごい勢いで学校を飛び出していった。あまりの速さに、声をかけることすらできない。ロージーは慌てて彼女の後を追った。
 まるで逃げるように駆けだしていったアデラを見て、取り巻き達は大声で笑い出した。負け惜しみだの、負け犬だの、その口から飛び出す悪口は後を絶たない。カルロも、一瞬遅れて笑い出した。滑稽だった。彼女が逃げ出したのを見て、胸がすく思いだった。アデラの背筋が凍るような怖い顔は、その爽快感により、一瞬で頭から消え失せた。


*****


 ロージーは、アデラの後を追って走っていた。つい先ほどの光景を、ロージーはなすすべもなく遠くから見ているだけだった。近くにいたのなら、アデラを慰めるやら、カルロに言い返すやら、何かできたのだろうが、生憎とロージーは、いつも帰りは年下の孤児院の子供達と一緒だった。
 アデラに群れる趣味はないのか、学校から帰るとき、彼女はいつも一人だった。どうせ帰り道は一緒なのだから、一緒に帰れば良いとロージーは思うのだが、彼女はそうはならないらしい。だが、今日はそのことが強く悔やまれる。
 孤児院に帰れば、アデラの姿はすぐに見つかった。ポーチのすぐ近くの、井戸でドレスを洗っていたのだ。彼女の白い細腕で、下着姿のまま、ドレスを力一杯擦っている。
 彼女は泣いていた。
 あまりにも静かに、そして悲しそうに泣いていたので、ロージーは驚きのあまり、かける言葉もない。

「あ、アデラ……」

 アデラは返事をしなかった。声が聞こえていないわけではないだろう。それでも、ドレスを洗い続けることを止めない。
 ロージーは一旦孤児院の中から洗濯棒を持ってくると、アデラの隣に立った。

「そんなに乱暴にこすったら、生地が傷むわ」
「でもっ、汚れが取れないの! 全然取れない! あの子、私のドレスを……っ!」
「貸して」

 ロージーはアデラの腕に手をかける。アデラの手は強ばっていて、なかなか離れなかった。何とかして手を外すと、ロージーは膝をつき、洗濯棒でトントンとドレスを叩き始めた。アデラは流れ出る涙をそのままに、ただその光景を眺める。

「綿の服とは違って、このドレスは繊細なんだから、優しく扱わないと」
「……汚れ、とれる?」
「とれるわよ。頑固な汚れでもないし、何より、処置が早かったから」

 しばらく無言が続く。
 アデラは、いつの間にか立てた膝に顔を埋めるようにして座っていた。いつもなら地面に座るなんて汚いと忌避していた彼女だが、そんなことも気にならないくらい、ドレスのことが気になるのか。
 何だか彼女の母親になったような気分で、ロージーは無意識のうちに微笑みを浮かべた。

「アデラは、いつもドレスを大切にしているわね」
「お母様がくれたものだから」

 ポツリ、ポツリとアデラは話し始める。

「このドレスは、私の九歳の誕生日にお母様が買ってくれたものなの。お母様はいつも忙しいけど、あの日は夜遅くに、大きな箱を持って帰ってきてくれたわ」
「そう。嬉しかったでしょうね」
「ええ、とっても。トランクに詰めてきたドレスは、全部そうなの。全部、お母様とお父様にもらったもの。宝物なの。だから持ってきた」

 アデラは己の腕に爪を立てる。

「それを、あの子は……!」

 またもアデラの目尻に涙が浮かぶ。
 その様子を肌で感じ取り、ロージーは慌てて声をかけた。

「それよりも、早く服を着てきなさい。また風邪を引くわよ」

 アデラはノロノロと立ち上がった。ここにいても自分は役に立たないと感じたのか、その足取りは重い。
 彼女が孤児院に入れば、タバサの驚いたような声が出迎えた。それもそうだ、全身ぐっしょりと濡れ、下着姿――おまけにその白い下着すら茶色くなっている――の状態では、驚くのも当たり前。
 タバサは井戸を行き来し、まずはアデラのすっかり汚くなった外見を綺麗にしようと躍起になった。茶色のこの染みは、どう見ても泥水だ。いじめという言葉がタバサの頭の中を行き来する。
 どう声をかけたものか、タバサはアデラを綺麗にしながらも、思い悩んだ。もう止まってはいるが、アデラの頬には確かに泣いた跡がある。あの気丈なアデラが。――いや、アデラだってまだ子供だ。それに、母親のこととなると、途端に脆くなってしまう。
 結局、タバサが何か声をかける前に、アデラは彼女の腕から離れて行ってしまった。まだ服も着ていないのに、長い髪から水を滴り落しながら、ロージーの前に立つ。

「……汚れ、とれた?」
「ええ」

 ロージーは立ち上がった。ドレスを軽く絞り、水気を取る。広げたドレスには、染み一つなかった。ぐしょぐしょに濡れているので、まだ全貌は分からないが、きっと乾いたとしても、それは変わらないだろう。

「……ありがとう」

 アデラは手を伸ばし、ドレスを受け取った。

「ロージー、本当にありがとう」

 腫れた瞳を伏せ、アデラは素直にそう述べた。ロージーは慣れた仕草で、孤児院の子供にやるように、つい彼女の頭にも手を乗せ、ポンポンと撫でた。

「良いわよ、それくらい」

 アデラの鼻が、またスンと音を立てた。