第一章 孤児院

18:意外と面白いのね


 ロージーがすっかり元気になってしばらく経ったある日の午後、ルイスがやってきた。いつものように年長組に勉強を教えるらしい。皆の先導に立って大部屋に行くルイスの後ろ姿を、アデラは一人睨み付けた。
 先日、ルイスに怒って叫んだきりだったので、アデラは気まずいことこの上ない。しかし、彼も彼だ。何も知らないくせに、まるで母が一生迎えに来ないような口ぶりで言ってきて。
 アデラは未だ怒ってもいた。謝るという気はないし、むしろ向こうが謝るべきだとすら思ってもいる。でも、今日は。
 アデラはいつかのように、そろりそろりと五人の後ろをついていった。彼らに気づかれないよう、慎重に。
 大部屋の入り口まで来たところで、アデラは非常に頭を抱えた。どんな顔をして中に入るべきかと。中からは、ルイスの声が聞こえるのみだ。きっと、皆は真面目に勉強しているのだろう、と。
 入る機会を窺っていると、ルイスの声が途絶えた。そっと中を覗けば、ルイスはフリックという少年に勉強を教えている最中だった。
 今なら入れるかも、とは思うものの、どうしても踏ん切りがつかない。
 扉の前でウロウロしていると、そんな彼女のドレスのスカートが見え隠れていたようで、ロージーがやってきた。呆れたようにアデラを見下ろす。

「アデラ」
「何?」
「いや、こっちの台詞だけど。扉の前でウロウロしてたら誰だって気になるわよ。何?」

 アデラはうっと詰まる。ここまで直接的に言われるとは。
 しかし逆に有り難かったかもしれない。アデラはようやく意を決した。

「……私も、ちょっと勉強してみようかなって」
「え?」

 一瞬言われた意味が分からず、ロージーは呆けた顔で固まった。急に恥ずかしくなってアデラは彼女を睨み付けた。

「何よ、悪い!」
「そんなこと一言も言ってないわよ。ただちょっと意外だっただけで」

 すぐに言い繕うと、ロージーはアデラの腕をとり、半ば強引に大部屋に引き入れた。一気に皆の視線が集まり、アデラは驚いたり顔をしかめたりと大忙しである。

「ほら、紙とペン貸してあげるから。まず簡単な文字を教えるわよ」

 ロージーの隣に座らされ、言われるがまま、アデラはペンを手に取った。というよりも、ペンの持ち方すら知らず、甲斐甲斐しくロージーに教わってからだが。

「ほら。書いてみて」
「え、ええ……」

 ロージーの綺麗な字をお手本に、アデラはペンの先にインクをつけ字を書いていく。手が震えるし、インクのつけすぎで字がにじむしで、もう散々である。いつの間にかルイスが側に近づいてきたことにも気づかず、アデラは集中する。

「いつの間にそんなに仲良くなったの?」

 突然上から声が振ってきて、アデラはきょとんと顔を上げた。しかし、天敵ルイスの顔を目にすると、途端に眉を顰める。

「別に仲良くなんてない」
「酷い言い草ね。こっちの台詞よ」
「ふん」

 互いに鼻であしらうと、それ以後私語もなくアデラはロージーに字を教えてもらった。
 ピクニックのあの日に、自分たちの言動が不適切だったと、互いに謝り、それを受け入れはしたが、二人は決して仲良くなんてないのだ。相変わらずロージーは口うるさいし、いつも説教ばかりだし、アデラはアデラで我が儘だし、偉ぶっているのだ。二人が仲良くなるのは、果たしていつになることやら。

「ロージー! 書けた! これが私の名前ね!」
「はいはい。最初にしてはうまく書けたんじゃない」
「でしょう!」

 アデラにとってロージーは、口うるさい姉、ロージーにとってアデラは、手のかかる我が儘妹。そんな今の印象が友情に変わるのは、どれほど先の未来になるのか。

「ロージー、そろそろアデラの面倒は僕が見るよ。ロージーにだって、学校の勉強があるだろ?」
「でも……」
「僕がアデラに字を教えた方が、効率がいいと思うから」

 ロージー達が学校の宿題を解いている間、ルイスは意外と暇なのだ。その時間をアデラに字を教える時間に充てれば、確かに効率はいいだろう。
 ロージーは納得して、アデラから席を離した。しかし、納得がいかないのはアデラの方である。

「何その顔。ちょっと傷つくなあ。ロージーにはあんなに嬉しそうに教わってたくせに、僕じゃ嫌だって?」
「別にそんなこと言ってないけど」
「顔が物語ってるんだよ」

 ロージーに教えてもらうのは、まだマシな方だった。口うるさい彼女だが、多少気心は知れているし、何より意地悪なことは言わないから――喧嘩を売ってくることはあるが。しかしルイスは駄目だ。ルイスは基本物腰は柔らかなくせに、アデラに対しては非常に意地悪だ。そのことをよく知っているアデラは、ルイスに教わるのは非常に遠慮したい事項であった。しかし、この場でそんなことを言えるわけもない。アデラはあくまで教わる側であり、先生を選ぶ権利はないのだ。
 多少成長したアデラは、そう無理矢理自分を納得させると、心を入れ替えて勉強し始めた。とはいえ、ルイスのお手本通りに字を書いていくだけだ。単純作業に見えるが、初めてペンを手に取り、そして字を書いたアデラにとっては、この作業はとてつもない第一歩である。そして同時に、自らの手で言葉が生み出されていくのか楽しくてしようがない。
 いつしか、勉強を終えたロージー達は階下に降り、アデラとルイスだけが部屋に残された。アデラにしては非常に珍しい集中力である。

「今日はこのくらいにしておこうか。明後日また来るよ」
「え? あ、もうこんな時間なのね……」

 アデラはもじもじと視線を戸惑わせた。ルイスはそのことには気づかず、机の上を片付け始めた。

「どうだった? 読み書き習ってみて」
「え、ええ……まあ、悪くはなかったかしら」
「そう。でも、僕から見ても、アデラは筋がいいと思うんだけど。よく集中してたし、何より吸収力がある」
「…………」

 あまり褒められたことはなかったので、アデラはむず痒く感じ、顔を俯けた。

「だからさ、学校に行ってみるのもいいんじゃないかと思う」
「学校って、確かロージーも……」
「うん、慈善学校。僕がこうやって教えに来れるのも週に一度か二度くらいでしょ? だったら、友達と一緒に毎日学べる環境の方がいいと思って」

 ルイスに見つめられ、アデラは再び俯いた。
 学校だなんて、考えもしていなかった。勉学は自分には必要ないと思っていたし、違う環境に身を投じるのも勇気がいることだ。
 母が来るまで、孤児院でじっとしているつもりだったのに。 にもかかわらず、ルイスの言葉にちょっと揺れている自分もいることに気がついて、アデラは戸惑っていた。自分がどうすべきか。今までそんな選択を迫られたことなどなく、アデラは頭がこんがらがりそうだった。

「すぐに答えは出さなくていいよ。一応院長先生には僕から話しておくから。学校に行く気になったら、院長先生に話すといいよ。さ、今日はもう終わりだ」

 ルイスはアデラの肩を叩くと、本を小脇に部屋を出た。アデラも慌ててその後を追う。

「あの……」

 アデラは小さく声をかけたが、ルイスには届かない。そのままどこかへ行ってしまいそうな気すらして、アデラは彼の服の裾をパッと掴んだ。

「ん? どうかした?」
「あ、いや……」

 目が合った途端、アデラはすぐに横を向いた。口を開けては閉じてを繰り返して。

「……ありがとう、ルイス」
「え?」
「それだけ!」

 アデラは叫ぶようにして言い捨てると、そのままルイスの横を通って走り去った。始めはきょとんとしていたルイスだったが、やがて小さく口角を上げる。

「どういたしまして、アデラ」