第一章 孤児院

16:本当にごめんね


 一瞬気を失ったような気がしたが、ジクジク痛む右膝に、アデラは目を覚ました。大きな瞳にはじわりと涙が浮かび、痛みに唇を噛みしめた。

「痛い……」
「怪我したの?」

 ハッとして振り返れば、そこにはロージーが立っていた。全身土まみれで、あちこち擦りむいた跡がある。アデラは小さく頷いた。

「膝……」
「あー、派手にやっちゃったのね。でも大丈夫よ、これくらい。他に怪我は?」
「このくらいってなによ! 見た目以上にずっと痛いんだから!」
「本当に大した怪我じゃないわよ。小さい頃は擦り傷くらいもっと作ってたでしょ?」
「したことない! こんなの初めて!」
「呆れた。あんた、本当に大切に育てられてたのね」
「…………」

 アデラは悲愴な顔で己の膝を見る。土と血で汚れた膝が痛々しい。膝はジンジン痛むし、転げ落ちたときに打ち付けたようで、体中が痛い。

「アデラ! ロージー!」

 上方から、小さくタバサの呼ぶ声が聞こえてきた。雨音に紛れ、その声は遙か遠くから響いているように聞こえる。

「はい! あたし達は無事です! アデラがちょっと怪我しましたけど、近くで雨宿りしてます!」
「そこで大人しくしていて! 雨が小ぶりになったら、すぐに迎えに行きますからね!」
「はい!」

 それきり、上から声は聞こえなくなった。アデラは途端に心細くなる。
 ただでさえ空は暗いのに、辺りは不気味な木々が生い茂るばかりで、日常とはかけ離れている。今にも森の奥からオオカミや化け物か飛び出してきそうで、アデラは震えた。

「寒い? とりあえず、雨宿りできる場所を探さないとね」
「うん……」
「ちょっと待ってて。辺りを探してくるから」

 ロージーは濡れそぼった髪を掻き上げ、森の中へ足を踏み出した。アデラは斜面を背に、不安そうな顔で彼女の後ろ姿を見送った。
 ロージーは、なかなか帰ってこなかった。
 ――もしかしたら、一人でどこかへ行っちゃったのかも。……別に、それならそれでいいけど。一人の方が清清するし。
 すっかりいじけ、立てた膝に頭を埋めていると、グチョグチョと嫌な音を響かせて、ロージーが戻ってきた。アデラは途端に嬉しそうに顔を上げたが、すぐにまた顔を埋める。

「遅かったわね」
「なかなかいいところが見つからなくて。でも良さそうな洞窟を見つけたわ。木の下で雨宿りもいいけど、やっぱり落ち着ける場所がいいもの。ほら、立てる?」

 ロージーの支えを借りて、アデラは立ち上がった。再び右足がじわりと痛み、アデラは顔を顰める。

「我慢して。洞窟に着いたら手当てしてあげるから」
「うん……」

 ゆっくり少しずつ歩き、雨も本降りになってきたところで、ようやく洞窟にたどり着いた。とはいえ、到着したとき、アデラの顔は引きつった。こんな所に入らなければならないのか、と。

「こんな所、私嫌よ。暗いところは嫌いなの」
「我が儘言わないで。このまま雨の中にずっといたら風邪を引くでしょ」
「でも嫌。すごく狭いじゃない」

 ロージーが探し当てた洞窟は、崖の細い亀裂だった。高さは問題なさそうだが、何より幅が狭い。子供がようやく人一人入れそうなほどの細さで、入り口はまだしも、奥に入れば入るほど、きっともっと狭くて暗い闇が待っているのだろう。
 アデラはぶるりと身を震わせた。

「じゃあいいわ、あんたはそこにいれば。あたしは寒いのは嫌だから、中に入るけど」

 素っ気なく言うと、ロージーはさっさと亀裂の中に入っていってしまった。アデラが文句を言う暇もない。

「うう……」

 しばらく右、左と無意味に視線を彷徨わせた後、アデラは嫌々ながら亀裂の中に身を滑り込ませた。暗いところは嫌いだが、一人で雨の中立っているのも嫌だった。
 亀裂の中は、一層暗くて、それに湿気がこもっていた。アデラはげんなりした顔でそこに腰を下ろす。

「やっぱり来たの。まあその方がいいわ。風邪ひいても困るから。……あたし、ちょっと外に行ってくる」

 ロージーは早口にそう言うと、返事も待たずにアデラを跨いで亀裂を出ようとした。慌ててアデラが呼び止める。

「どこに行くの?」
「すぐに戻ってくるから」

 ここにいてよ、なんてアデラは言えなかった。心細かったが、それで弱みを見つけたとばかり面白がられるのはごめんだ。
 ロージーは、長い間帰ってこなかった。もしかしたら何かあったのかも知れないと思うくらいには、長い間。
 亀裂から顔を出して彼女の帰りを待っていると、やがて木の間からロージーが姿を現した。アデラを目にすると、早く入れと言わんばかり、手をサッサと振る仕草をした。

「何してたのよ」
「怪我の手当をするために色々と探してたんでしょうが。でも、目的のものが見つかって良かったわ。案外川も近くにあったし」

 膝を伸ばした状態でアデラを座らせると、ロージーはまず濡れたハンカチで膝の汚れを取り払った。痛みにアデラは声を上げるが、ロージーは容赦ない。それが終わると、今度は何かの葉を取り出し、傷口に当てようとする。アデラは思わず飛び上がった。

「何よそれ!」
「何って、葉っぱだけど」
「そんな訳の分からないもの、傷口に当てたら大変なことになるじゃない」
「名前は忘れたけど、授業で習ったから大丈夫よ。擦り傷によく効くんだって」
「葉っぱにそんな効き目があるなんて知らないわ」
「そりゃ、あんたは知らないだろうけど」

 まるで手のかかる子供を見るかのように、ロージーが笑うので、アデラはだんだん馬鹿らしくなって、諦めてされるがままになった。ロージーは優しい手つきで手当てをしていく。

「学校ではいろんなことを教えてくれるのよ。役に立ちそうなことから、一生役に立たないだろうなってことまで」
「そんなこと知って楽しいの?」

 役に立つのならまだしも、立たないことを知って何の得があるのだろうか。

「知らないことを学ぶって、とっても楽しいことよ。自分の視野が広がっていくのを感じる。あたしは歴史について学ぶのが好きよ。今まで、ずっと今を生きるのに精一杯だったけど、歴史を学んでから、昔の人だって、あたし達と同じように――ううん、あたし達以上に苦労しながら生きてたんだって分かったの。すごく驚いたけど、でも、同時に頑張ろうって意欲も湧いてきた」

 熱を込めて語るロージーだが、アデラはあまり意味がよく分からなかった。

「あら?」

 ロージーの手が止まる。

「身体が熱いわね。熱が出たのかも」

 冷たい手が額に触れる。思いのほか気持ちよくて、アデラを目をつむった。

「どうしよう、ハンカチはもう使っちゃったし」

 額に乗せられるようなもの、とロージーは探すが、彼女のポケットには、もう大したものはない。

「やっぱり――」

 外で何か探してこようか。
 そうして立ち上がりかけたロージーの裾を、アデラが掴んだ。

「いいの、そこにいて」
「……分かったわ」

 雨は、次第に落ち着きを取り戻していたが、それでもシトシト降り止むことはない。
 ロージーは、居心地の悪いこの沈黙に、地面に黙って横たわるアデラを見つめたまま、ソワソワしていた。何か世間話でもしようか、と思うものの、アデラとの共通の話題など見つかるわけもない。思いつくことと言えば。

「ごめんね、アデラ」

 不意にロージーが口を開いた。久しぶりに名を呼ばれた気がして、アデラは目を開ける。

「院長先生から聞いたわ。酷いことを言われたんだってね。……ごめんなさい。そんなことも知らずに、一方的に殴って。あたし、ずっと謝る機会を窺ってたんだけど、なかなか素直になれなくて」
「…………」
「婦人会の人に言われたことは、気にしなくていいわ。あの人達、時々意地悪なことを言うことがあるもの。……あたしも、実は言われたことがある。でも、言い返しはしないわ。院長先生の立場も悪くなるし、寄付だってなくなるかもしれない。それが分かってるから。……でも、あなたにそのことを言っておかなかったのは、あたしの失態だったわ。腹が立ったら、思わず反発しちゃうのは自然なことだもの」

 アデラは目を細めた。一週間ほど前の光景が、まるで昨日のことのように脳裏に浮かび上がる。

「私だって、言い返すのは馬鹿らしいと思ったわ。でも、どうしても許せなかったの。あの人達は、私たちのこと全く知らないくせに、馬鹿にして」
「そうね。本当にそう思うわ。……でもね、アデラ。あの人達の中にもいい人がいるってことは忘れないで。嫌な人ばかりが目立ってしまうけど、本当にあたし達に元気に育って欲しいって気持ちで寄付してくれる人もたくさんいるのよ」
「…………」

 アデラの返事はない。
 ロージーは一息つくと、徐に立ち上がった。いつの間にか雨の音が止んでいることに気がついたのだ。
 だが、その気配を敏感に察知したアデラが、ロージーの手を強く掴んだ。苦笑してロージーは彼女を振り返る。

「外の様子を見てくるだけだってば。院長先生達がすぐ近くに来てるかもしれないし」
「……暗いのは嫌いなの」

 アデラの力ない言葉に、ロージーは仕方なしにまた腰を下ろした。

「――分かった、ここにいる」
「ロージーの手、冷たくて気持ちいい……」

 握った手はそのままに、アデラはまた目をつむった。そうしていると、いつかの光景が頭に浮かび、目尻を伝って涙が一粒零れ落ちた。

「ごめんね、ロージー……」

 本当に小さなアデラの囁きに、ロージーの手がピクリと動いた。アデラはほんの少し手を力を入れ、ロージーが側にいるのを確かめながら、眠りに落ちていった。