第一章 孤児院
13:分からないことだらけ
教会を怒りのままに出てきた後、アデラは行く当てもなく、結局広場の噴水に流れ着いた。縁に腰掛け、ぼんやりと行き交う人たちを見つめる。
頭に浮かぶのは、孤児院に置いてある自分の荷物をどうしようということが主だった。大きな鞄に詰めた自分の大切なドレスや小物たち。今すぐにでも迎えに行きたい気持ちで一杯だったが、しかし孤児院への行き方が分からない。あの孤児院にも名前はあったのだが、その名前すら知らないアデラは、誰かに尋ねると言うこともできず、途方に暮れていた。
「アデラ?」
そんなとき、彼女に声をかける者があった。一瞬アデラはその声に希望を見いだした。が、顔を上げてその顔はげんなりする。どんな苦境であっても、意地悪なルイスはお呼びではないのだ。
己の登場に失望されたとはつゆ知らず、ルイスは爽やかな笑顔でアデラに歩み寄った。
「どうしたの、こんなところで。確か、今日は教会に行く日じゃなかったっけ?」
「…………」
話す気になれなくて、アデラはルイスのことを無視する。それでもめげないルイスは、そのあと何度か彼女に話しかけたが、反応無しとみると、肩をすくめてどこかに行ってしまった。
アデラはまた一人になる。
噴水では、待ち合わせをする人たちがひっきりなしに訪れていた。だが、その中でアデラを気にする者などいない。足早に噴水の前を行き来する者たちもそうだ。しかし、それをアデラが悲しいと思うことはなかった。そこにいない者として扱われるのは、慣れっこだった。
「――冷たっ!」
突然左頬にひんやり冷たいものが触れ、アデラは飛び上がった。
「え? ごめん。一応声かけたんだけど、やっぱり聞こえてなかった?」
思わずアデラがそちらを睨めば、悪気の欠片もない笑みで濡れたハンカチを掲げるルイス。アデラは一層口元を歪めた。
「何するの」
「頬が腫れてるよ。冷やした方がいい」
「放っておいて」
「何があったの? 誰かと喧嘩した?」
「関係ないでしょ」
ツンと叫び、少し離れた場所に移動すれば、ルイスもついてくる。
アデラは次第に面倒になって、再び噴水に腰掛けた。ルイスもまた、当たり前のように隣に座る。彼が差し出したハンカチを、アデラは渋々頬に当てた。始めは冷たい刺激に思わず顔をしかめたものの、次第にその冷たさが心地よく感じられてきた。
目を伏せ、しばらく行き交う人々を眺める。その間、ルイスはずっと黙って隣にいた。
「……ねえ」
知らず知らず、アデラは彼に話しかけていた。
「どうして歌を歌うだけで服をもらえるの?」
「教会でのこと?」
ルイスは聞き返し、アデラは小さく頷いた。ルイスは少し間をおいて返答した。
「そういう形式になってるからだよ。孤児院側が、一方的に寄付されるだけじゃ示しがないでしょ? だから、孤児院の子供達も、賛美歌を歌って、精一杯婦人会をもてなすんだ。そうすれば、寄付金とお下がりの服や玩具、そして食事のもてなしを受けられる」
「ただの下手な歌なのに?」
「形式的なものだから、上手下手は関係ないよ。それに、子供達にだって、物事には対価があるんだって教えることができるでしょ? 何もせずに、服や玩具はもらえることができないって」
「子供だましじゃない」
アデラは鼻で笑った。
「それにあの人達、感じが悪いわ」
「……確かに、一部の人は本当の善意で寄付してる訳じゃないと思うよ。でも、孤児院が寄付無しでやっていけないのは事実だ。彼女たちの存在なくして、孤児の子供達は生きていけない」
意味が分からなくて、アデラはルイスを見つめる。
今まで、食事や服は何もせずともポンポン目の前に出てきた。だからこそ、ルイスの話す流れが理解できない。
「有り難いことなんだよ。この街では、子供ができるような仕事はない。どんなに技術を持っていたとしても、そもそも雇ってくれないんだ。でもまだ孤児院があるだけマシな方だろうね。小さな街や村では、孤児院すらない。親を失った子供は、飢え死にするしかないんだ」
「孤児院の子供は、みんな親がいないの?」
「みんなじゃないよ。生活に苦しくなって、親が孤児院に預けた子供もいる」
「……私と同じね」
「そうだね」
アデラは小さく嘆息した。そしてルイスを見上げる。
「お願いがあるんだけど」
「なに?」
「孤児院から私の荷物を持ってきて」
「家出するつもりなの? 本気?」
「本気よ。もう絶対にあそこには帰らない」
ルイスは、しばらく考え込んだ後、ゆっくりと立ち上がった。荷物を取りに行ってくれるのか、と思った矢先、彼はアデラに向かって手を差し出す。
「ちょっと散歩しよう」
「え?」
「ほら、行こう」
「嫌よ。私はここを動かない」
「お腹空いてない? もうお昼も過ぎたでしょ」
「…………」
確かに、空いた。朝食を食べたきりなので、アデラのお腹はもう限界だ。
「何か買ってあげるよ」
「……分かったわよ」
決して食べ物に釣られたわけじゃない。なんとなく歩きたい気分になっただけだ。
アデラは時分にそう言い訳をすると、パッと立ち上がって歩き始めた。ルイスの右手が所在なげに宙を浮いたままだったが、やがて苦笑して彼はポケットにそれを収めた。
「行くわよ」
「はいはい」
お姫様に付き従う従者のように、それからルイスはアデラに振り回された。あれが食べたいだの、これが食べたいだの、育ち盛りな上、元々我が儘な彼女にあちらこちら屋台へ連れて行かれるのだ。屋台でものを食べたことがないらしいアデラは、目を輝かせていろいろなものをお腹に納める。おいしそうに頬張る彼女の姿は、年相応に可愛らしかったが、食べ終わったが最後、次はあれが食べたいとルイスを引っ張るのだから苦笑が漏れるというもの。
「ねえ、ちょっと休憩しましょ。お腹は一杯になったけど、歩き疲れちゃった」
いつの間にか、アデラ達はまた噴水の所まで戻ってきていた。助かったとばかり、アデラは縁に腰掛ける。ルイスは呆れたように彼女の前に立った。
「食べた分だけ歩かないと太るよ?」
「いいの、私はそんなこと気にしないから。ねえ、それよりも――」
「あとさ」
アデラの言葉を遮って、ルイスは真面目な顔になった。
「ねえとかあなたとか、そういえ僕の名前一度も呼んだことないよね? あれ、どうして?」
「呼ぶ必要なんてある?」
アデラは悪気もなく言ってのける。あまりの素っ気なさに、ルイスはいっそ呆れを通り越して清々しくも感じた。が、そんなことで見逃せる訳もあるまい。ルイスは意地悪そうに口元を歪めた。
「あっそう。でもいいのかな。君がそんな態度だと、今後君に心を開いてくれるような人は現れないよ。だってそうでしょ。他でもない君が心を許してないんだから」
「そんな人、別にいらないもの」
――私には、お母様がいれば、それで。
そう呟くアデラに、ルイスは更に追い打ちをかける。
「そのお母様だって、もういないのに?」
「――っ、あなたに何が分かるって言うのよ!」
カッとなってアデラは叫ぶ。
「勝手なこと言わないで!」
そしてその勢いのまま、アデラは走り出した。後ろから慌ててルイスの呼ぶ声が聞こえてきたが、振り返りはしない。人混みをかき分け、闇雲に走って行く。
気がつけば、閑散な通りに出ていた。僅かながら既視感を覚える場所だ。曲がり角を曲がったときに、ようやくアデラははたと気づいた。朝、教会へ行くときに通ったばかりの道だと。
もう三つほど曲がれば、確か孤児院だ。
そこでアデラの足は止まる。
もう辺りは暗い。ちょっと不気味にすら思えるこの通り。ルイスのおかげでお腹はそんなに減ってないが、しかし、今日泊まるところはどうしよう。
アデラはその場を行ったり来たりした。
絶対に孤児院に帰りたくない。それはもちろんだ。しかし、帰る場所が。
その繰り返しでアデラが右往左往していれば、丁度曲がり角から歩いてきた人とぶつかった。よほど勢いがあったのか、アデラは遙か後ろに尻餅をつく。
「アデラ!」
「……?」
お尻を押さえて上を見上げれば、タバサが慌ててアデラに手を差し出すところだった。困惑しながら、アデラはその手に捕まる。
「良かった、ずっと探してたのよ。孤児院にも帰ってないみたいだったから、どうしようかと思って」
「…………」
「本当ごめんなさい、アデラ。傷ついたわよね?」
アデラが返事をしないのを見て、タバサはしゃがみ、彼女の視線と合わせた。
「あの人達の言うことは気にしなくていいの。あの人達の言うことは確かにちょっと意地悪だったわ。ね、帰りましょう」
タバサはアデラの手を握ったが、アデラはそれを振り払う。タバサは悲しそうに口元を引き締める。
「アデラが帰らないのなら、私も帰らないわ」
「……ずるい」
「あなたが心配なのよ。分かってちょうだい。それにね、もうアデラは教会には行かなくていいから。嫌なら、ずっと孤児院の中にいていいのよ」
「本当に?」
「ええ。ちゃんとお菓子も持って帰ってくるから。だから帰りましょう」
「……分かったわ」
渋々アデラが頷けば、タバサはパアッと満面の笑みを浮かべる。
「お腹空いたでしょう? たくさんご飯を用意してありますからね」
「うん」
そして歩き始めれば、タバサはごく自然にアデラと手を繋いだ。
長らく、アデラの右手は母と手を繋ぐためのものだったが、今日ばかりはいいかと彼女は思い直した。