第一章 孤児院

12:絶対に謝らない


 教会は、リベロ通りから一本外れた道の先にあった。辺りは閑散としているが、教会の出入りは頻繁なようで、様々な人が行ったり来たりしていた。

「さあ皆さん、教会でまずお祈りをするわよ。その後でお歌の時間です」
「はあい」

 アデラ達の住むこの国は、敬虔な信徒が多いが、アデラは神に祈るという習慣はなかった。母が元々興味のない人だったし、食事の前に祈れと言われたこともない。孤児院に来てからは、タバサが言うので渋々祈ってはいるが、正直なところ、この行為に何の意味があるのだろうと思ってはいた。
 しかし、実際教会に入ると、アデラは目を白黒させた。
 外観以上に中は広々としていて、荘厳な造りだった。身廊にはズラッと会衆席が並び、様々な人が入り交じっている。身廊の壁面には直接絵が描かれ――その多くはアデラには意味の分からないものだったが――いつまでも圧倒されていた。左右のアーチを越えた先の側廊もまた別次元で、窓のステンドグラスが不思議な色合いと模様を浮き彫りにしている。

「アデラ、こっちよ」

 タバサに促され、アデラは慌てて会衆席に腰を下ろした。オーク材を用いたベンチで、その側板には見事な彫刻が施されていた。目を凝らし、思わずその装飾をなぞっていると、やがて礼拝が始まった。綺麗なパイプオルガンの音に、アデラはいつしか眠気を感じていたが、やがて聖書朗読台に牧師が立ち、長々と聖書朗読を始めた。今度こそ限界だと思った。
 こっくりこっくりと船をこぎ始める。途中、隣のロージーに小突かれたが、その際、アデラはまるで言い訳するかのように顎でロージーの更に隣を示して見せた。――そこには、居眠りをしている孤児院の子供達の姿が。

「あんた、もう子供じゃないでしょ?」
「子供だもの」

 鼻で笑って言い返し、アデラは再び目をつむった。
 牧師の言っていることはほとんど意味が分からなかったし、抑揚のない声だったため、余計に眠くなってくるのだ。
 しかし、やがて始まった軽快なパイプオルガンの音に、アデラは意識を浮上させた。眼をぱちくりさせて前を見れば、祭壇より手前に位置する場所に、同じ服を纏った複数人の男女が立っていた。何をするのかと思えば、彼らは音楽に合わせ、高い声で歌い始める。メロディも歌詞もアデラには全く知りもしないものだったが、彼女は知らず知らず聞き入っていた。初めて聴く曲なのに、綺麗な曲だと思った。
 しかし、聖歌隊の歌が終われば、今度は説教壇に牧師が立った。彼が手すりのついた階段を上っているときは、少し楽しそうな場所だと思ったものだが、彼が長々と説教を始めたときには、すぐに注意がそれた。つまらなさそうに顔を下に向け、目を閉じる。
 そうしてしっかり睡眠を取っているうちに、やがて礼拝は終わったらしい。ロージーに揺り起こされ、ようやくアデラは目を覚ました。

「ほら、あたし達の出番よ」
「え?」
「――では、孤児院の子供達に賛美歌を歌ってもらいましょう」

 牧師がそうにこやかに言い、壇を降りる。それに合わせて、子供達はぞろぞろと前に移動する。アデラはなにが何だか分からないままに、皆に倣って、先ほどの聖歌隊席に立った。
 そこからの眺めに、アデラは緊張と困惑に胸をドキドキさせた。先ほどの礼拝の時よりは会衆は減っていたが、それでも多くの人々が自分たちを見つめている。
 やがて、パイプオルガンの前奏が始まった。この時になって、アデラはようやく今まで何度も練習してきた賛美歌を歌うのだと悟った。そして同時に、あの綺麗な聖歌隊の後で歌うことに、羞恥心も抱いていた。
 なぜあの立派な歌の後で、自分たちのお粗末な歌を披露しなければならないのか。
 会衆席の皆は、アデラ達の歌に聴き入っているような表情ではなく、まるで、親が子の晴れ舞台を見るかのようなものばかりだった。
 アデラはそのことが恥ずかしくてならず、終始俯いていた。歌も適当に歌うのみで、きっと隣の子には、アデラが真面目に歌っていないことは丸わかりだっただろう。
 歌が終わると、アデラはようやく人心地ついた。役目は終わったとばかり、壇を降りようとしたところで、ロージーに服を引っ張られる。

「待って、まだあるから」
「え? まだ歌うの?」
「歌わないけど。とにかく列に戻って。ほら早く」

 ロージーに怖い顔で言われ、アデラは渋々元の位置に戻った。後ろの席の端だ。前の席よりも高い位置にあるこの場所は、会衆席からよく見える場所でもあるので、アデラは気にくわなかったのだが。

「恵まれない子供達にも、善意の寄付をよろしくお願いいたします」

 牧師の言葉に、会衆席から一人の女性が立ち上がる。タバサの元に近づき、そして何やら小さなものを手渡した。タバサはそれを深く頭を下げて受け取る。
 それが終わった後、会衆席からまばらに女性達が立ち上がった。子供達が一列に並ぶ中、一人一人に服や靴下、靴を手渡していく。

「息子のお下がりなの。もう着れなくなったから」
「ありがとうございます!」
「このお人形さん、あなたにあげるわ。大切に使ってちょうだい」
「ありがとう!」

 至ってにこやかに行われる中、アデラは居心地が悪かった。共に暮らす皆の服が、赤の他人のお下がりだと知ったからだ。なぜお下がりなのか。歌を歌ったから服をもらえるのか。あの歌にそんな価値などあるのか。
 アデラの中に、モヤモヤした疑問が渦巻く。
 そんな彼女の前に、一人の女性が立った。

「なあに、この子ったら」

 そうして、アデラのピンク色のドレスを指で摘まむ。彼女はすぐにタバサを振り返り、甲高い声で叫んだ。

「ねえ院長先生? どうしてこの子だけこんな格好をしているの?」
「はい」

 タバサがアデラ達の元にやってくる間に、他の女性達もまじまじとアデラを観察する。

「ドレス? 一体どうして孤児院の子供が?」
「あら、それに結構上等な代物なのね。……ジャネット様よりもお高いものだったりして」
「失礼なことを言わないでちょうだい!」

 ジャネットはバッサリ切り捨てた。そして忌々しげにアデラを睨み付ける。

「とにかく、孤児院の子供がこんな格好、ふさわしくないわ。私たち婦人会は、皆善意で寄付をしているのよ? それなのに、孤児の子がこんな服装だったら示しがつかないでしょう。もっと節度をわきまえてちょうだい」
「申し訳ありません」

 タバサが深く頭を下げる。

「その子は……身分のある方から預かっている子で、ドレスも家から持ってきた物なのです。母親が恋しいのでしょう。せめて格好だけでも好きなようにさせたく……」
「まあ、どこの子かしら」

 途端に婦人たちがざわめく。アデラを見る視線には、純粋な疑問もあれば、好奇、嘲り、同情の類いもあった。

「きっと妾の子じゃない?」
「落ちぶれた貴族の子供だったりして」
「捨てられたってこと?」

 自分たちでは細々と呟いているつもりでも、アデラには全部聞こえていた。拳を握った手がわなわなと震える。

「ねえ、あなた。自分の家名は分かる? 何てお名前?」

 猫なで声で聞いてくるジャネットの声がとにかく不快だった。アデラはキッと顔を上げる。

「どうしてあなた達にそんなことを言わないといけないの? 家名を言って私に何の利益が?」
「なっ」
白粉おしろい臭い手で触らないでちょうだい。ドレスが汚れるわ」

 そうしてジャネットの手をはねつける。引っ張るように触られ、今にもドレスが破けそうで、アデラは気が気でなかったのだ。
 アデラの反抗的な態度に、ジャネットは口元をひくつかせる。

「何て生意気な……」
「これはお父様にもらった誕生日の贈り物よ、私はすっごく大切にしているの。それに、お母様だってすぐに迎えに来てくれる。あなた達がごちゃごちゃ言うようなことではないわ」
「面白いことを言うのね。大切に育てられている娘はね、孤児院なんかには入れられないの。つまりあなたは捨てられたってことよ」

 馬鹿にするようにジャネットは声高に叫ぶが、アデラは一歩も退かない。こんなことを言われるのは慣れていた。

「お母様の事情も知らないくせに勝手なこと言わないで。あなたって可哀想な人ね。子供相手に喧嘩を売ることしかできないの?」
「何ですって! ちょっとあなた――」

 ジャネットがアデラに詰め寄る。何よ、とアデラがにらみ返したところで、二人の間に何者かが割って入った。

「なっ、なに――」

 パンッと乾いた音が響いた。
 間をおいて、熱く火照る己の頬に、アデラは殴られたのだと悟った。

「はっ……」

 信じられない思いでアデラは顔を上げる。そこには、今までにないほど冷たい眼をしたロージーが立っていた。

「本当に申し訳ありませんでした!」

 そしてすぐにジャネットに向き直り、深く頭を下げる。彼女の態度に幾らか気をよくしたジャネットは、悠々と腕を組んだ。

「一体この落とし前はどうつけてもらおうかしら。まずはこの子に謝罪してもらいたいのだけど」
「……アデラ」

 もの言いたげにロージーが視線をよこす。アデラは顔を歪めた。

「……今日限りでもうあそこは出るわ。これでいいでしょ?」
「アデラ!」
「絶対に謝るもんか」

 そう吐き捨てると、アデラは強引に婦人会の人たちの間を縫って歩いた。

「さようなら」

 これみよがしに睨むと、アデラはそのまま振り返りもせずに教会を出て行った。