第一章 孤児院
10:本当は分かってるけど
その日は、とても幸せな朝から始まった。ご存じ小姑のルイスが、珍しく小言を言いに現れなかったのだ。そもそも、毎日朝早くから現れて、どれだけ暇なんだとアデラも常々思っていたので、いささかすっきりする思いでもあった。
小言を聞かない朝が、こんなにも清々しいなんて。
機嫌が良かったアデラは、掃除もそつなくこなし、朝食も優雅にありつくことができた。朝の裁縫の時間も、苦戦しつつも何とか終わり、そして昼食を食べ。
しかし、アデラの小さな幸せはそこまでだっだ。――昼の自由時間に、またも彼が現れたのだ。
昼食を食べ終わったアデラは、いつものように、食堂で行われる読み聞かせを避けて、うろうろするつもりだった。だが、同じように、ロージーや他四人の子どもも食堂を出て行くので、少し不思議には思っていた。小さな子供達は早く読み聞かせをと院長にせがんでいたが、彼らはどうしてその輪に入らないのだろう、と。
不審に思うあまり、アデラは彼らの後ろからコソコソと後をついていった。そしてたどり着く二階の大部屋。
「やあ、アデラも来てくれたんだ」
ひょこっと突然目の前に現れたルイスの顔に、アデラはすんでの所で悲鳴を押し殺した。
「なっ、なに――」
「さあ、入って入って」
ポンポンと背中を押されるがまま、アデラは部屋の中に入っていく。整然と並べられた小さな机と椅子達。ロージー含む五人の子供達は、皆一列になって椅子に腰掛けていた。
「ほら、アデラも席について」
異様な空間に気圧され、アデラはすごすご一番端の席に着いた。一列に並ぶアデラ達の前に立ち、ルイスは振り返った。
「じゃあ、まずはいつものように学校の授業で分からなかったところを聞いて。その後に授業を始めるよ。最初だから、アデラは自由に見学していっていいからね」
唖然としたままアデラが黙っていると、はいっと元気よく手が上がった。アデラよりもいくつか年下のそばかすの少年フリックだ。
「ここの文法がよく分からないんですけど」
「ああ、ここはね」
穏やかなルイスの声が部屋に響く。その間にも、各々子供達は机の上に広げたノートと睨めっこしている。
「ねえ、なんなの、これ?」
「見れば分かるでしょ」
居住まいが悪くなって、アデラは隣のロージーに小声で尋ねた。ロージーは煩わしそうに羽根ペンにインクをつける。
「有志での勉強会よ。ルイスさんに教えてもらってるの。慈善学校で学ぶだけじゃ、どうしても分からないところとか、もっと教えて欲しいところとか出てくるから」
「学校、行ってるの?」
アデラはさも不思議そうに尋ねた。が、それは向こうも同じだったようで、ようやくロージーはアデラの方を向いた。
「あんたは行ってないの? ああ、もしかして家庭教師の方か」
勝手に納得をして、ロージーはまたノートと睨めっこをした。
「深窓のお嬢様って、家庭教師をつけてもらえるって話だもんね。歴史はどこまで勉強してるの?」
「…………」
あくまで純粋に聞いてくるロージーに、アデラは何も言えなかった。代わりに、落ち込んだ様子で首を振る。
「私の家は、家庭教師もいなかったわ。勉強なんてしたことない」
「……本当に? 本当に勉強してないの?」
ロージーは疑い深い目で尋ねた。
貴族が家庭教師や学校で勉強をしないなんて、初めて聞いたからだ。むしろ、学ぶことこそが上流階級の特権――証だと考えている輩も多いくらいだ。事実、労働者階級にとって、勉学は全くといっていいほど役に立たないし、その日暮らしをしている家庭ならば、勉強をさせるよりも、早く子どもを奉公に出させた方が、どんなにか暮らしが楽になるか分からない。
となると、やはり上流階級で教育を受けたことがないというのはおかしい。勉強は嫌だと子どもが駄々をこねた結果、甘やかされたというのもあるかも知れないが、その様子もない。
胸の内のもやもやをどうにかしたくて、ロージーはゆっくりと口を開いた。が、それよりもさきに、隣に座るフリックに先を越される。
「お金持ちが家庭教師もいないなんて、初めて聞いたぜ」
彼は、良くも悪くも自分の感情に忠実だ。思ったことはすぐに口にするし、不満だって我慢することはない。その裏表のない性格は、時に愛され、時に忌避されることもある。
「もしかして字も読めないの? 珍しいことってあるもんだな。一番小さいコニーでさえ多少字が読めるのに。アデラってお嬢様なんじゃないの?」
お嬢様じゃないんじゃないか。
お嬢様なのに勉強もしてないのか。
フリックの言葉は、どうとでもとれる。その中で、一体どれがアデラの琴線に触れたのかは分からない。しかし、彼女の機微を確認するまでもなく、アデラは部屋を飛び出した。
「アデラ!」
ルイスは慌てて彼女を追いかけようとして――立ち止まった。子供達の方を振り返ると、困ったように笑った。
「えっと……しばらく自習でいいかな」
「構いません」
一番にロージーが声を上げた。そして彼女はチラッとフリックの方を見る。フリックはというと、ロージーに言われるまでもなく、戸惑ったように視線をあちらこちらへ這わせていた。
「お、俺……何かまずいこと言った? アデラ、気悪くしちゃったかな」
「大丈夫だよ。しばらく自習してて」
安心させるように微笑むと、ルイスは階下へ降りていった。そしてタバサの読み聞かせの声とは反対方向――寝室へと足を向ける。たった数週間ではあるが、嫌なことがあったとき、彼女が一人になれる場所を彷徨って寝室にたどり着くのはよくあることだともう分かりきっていた。
軽くノックをして扉を開ければ、予想通り一つのベッドがこんもりと盛り上がっていた。ルイスは咳払いをして傍の椅子に腰をかける。
「アデラ――」
「私、別に字なんか読めなくたっていい!」
何も言っていないのに、アデラはひとりでに話し出した。
「おかしいわよ、お嬢様ならみんな字が読めないといけないわけ!?」
「いや、フリックもそういうつもりで言ったわけじゃ」
「読めなくたっていいもの……お母様が読んでくれるもの」
何も言えなくなってルイスは困り果てる。どうしたものかと降参したくなったとき、塊が小さく動いた。
「違う。馬鹿にされたことが悔しいんじゃないの」
先ほどとは全く違う口調だった。穏やかで、自嘲に塗れている。
「悲しかったのよ……」
自分に言い聞かせるようにアデラは呟いた。
――なぜこんなにも胸が痛むのか。
よくよく考えてみれば、その答えは分かるような気がした。でも、今はまだ自覚したくない。
その理由が分かるのは、アデラがもう少し大きくなったときだった。