34:青い空
待ち合わせ場所の広場を、佐代は落ち着かない様子でうろうろしていた。人が一人その場所に訪れるたびに顔を上げては、また表情を曇らせる。
「佐代」
ハッと再び顔を上げた。
「松樹、さん……」
そして再び俯く。
「来てくださるとは、思ってませんでした」
「迎えに来るって言っただろ」
「そ……そうですけど……」
一人、また一人と広場を去って行く。待ち人が現れたので、これからどこか楽しい所へ行くのだろう。
「行くのか、行かないのか」
「…………」
松樹の素っ気ない態度は相変わらずだ。佐代は少しむくれる。
「行き、たいですけど」
「だったら――」
「……私の居場所……は、ありますか?」
「は?」
それきり、佐代は黙り込んで何も言わなくなる。松樹は途方に暮れた様に立ち尽くしていたが、やがて花壇の縁に腰を下ろした。そして佐代を見上げる。彼女もしばらく躊躇ったようだが、おずおずとその隣に座った。
「私……巫女、ですし。これからも雨は降らせ続けないといけませんし、そのせいで千世村の皆さんに不快な思いをさせると思うと……。松樹さんは受け入れてくださったけど、でも……私」
佐代は表情を曇らせる。言いたいことが上手くまとまらない。どんどん思考が暗くなっていくのを必死に堪える。
「私……神殿にも、ないことはない、とは思います。今までのように蓮介も藤香もいるし、前よりも外出もできると思います。以前よりも、私に話しかけてくれる人が増えました。以前よりも、きっと居心地は良くなると思います」
なおも佐代は何か言いたげだったが、そこで彼女の言葉は終わる。
松樹は困り果てて彼女を見下ろした。もともと、彼の言動は素っ気なく、そして粗野だ。人の感情の機微を捉えるのも苦手であるし、それを踏まえたうえで言葉を選ぶのはもっと苦手だった。それでも、必死に頭を回転させ、一つのことが頭に浮かんだ。
「――そ、そういえば」
「……何ですか?」
「雄造さんが……いや、村のみんなが、家を建ててくれてるんだ。俺の家。洪水の復興作業も落ち着いて来たから、今度は俺の家だなって」
「――良かったですね」
照れたように言う松樹に、佐代は思わず喜色を露わにした。人々の騒ぎようが目に浮かぶようで、佐代も嬉しかった。
「ああ、今度は川の近くではなく、志紀さんちの隣だ」
「賑やかになりそうですね」
佐代は苦笑を浮かべる。同時に、少し寂しくも思う。
きっと、自分がいなくても、優しくてお世話焼きの志紀が松樹におすそ分けと称してご飯を作りにいくのだろう。何やかんやで雄造も、共に酒を呑もうと押しかけるかもしれない。村の子供たちも、以前よりも近くなったことで、遊んでもらおうと突入するのだろう。
佐代の顔が固まる。笑顔でいたいのに。自分の意思に反して、顔は動かない。
不意に、佐代の頭に手が乗せられた。
「また……」
それは、両親の手にも似た暖からを持っていて。
「一緒に、暮らすか?」
上から降る優しい響きを持つそれに、佐代の目頭は熱くなっていった。そんな姿を見られたくなくて、佐代は顔を下に向ける。
「え……っと、でも」
彼の気持ちは嬉しい。しかし彼女の口は、それとは反対の言葉を紡いでいく。
「ご迷惑じゃ……」
「というか、気の早い雄造さんたちが、お前の分の部屋も作ろうって騒いでるんだ。まだ設計図の段階だが、俺の部屋よりも大きいぞ」
ポカンと口を開けて佐代は松樹を見た。思いもよらない言葉に、しばし呆然とする。
「――ふふっ」
気づくと、噴き出していた。長い間会っていないような気がしていたはずなのに、今は簡単に彼らの騒がしい様子を思い起こすことができる。
「あの……よ、よろしくお願いします……」
おずおずと右手を差し出す。
「ああ、こちらこそ」
しっかりと二人の手は繋がった。思わず佐代は口元を緩める。
「じゃ、そうと決まればさっさと行こう。厩舎に馬を留めてる」
「はい」
ようやく佐代と松樹は動き出した。同時に、自分の中での時間も動き出す感覚があった。
「馬には乗れるか?」
並んで歩きながら松樹は尋ねた。佐代は曖昧に首を傾げた。
「あ……一度しか乗ったことはなくて……」
「じゃあ途中街で休憩するか。村の人たちにもお土産頼まれてるんだ」
「都のお土産じゃなくていいんですか?」
「ここは人が多いだろ。面倒だ」
「――そうですね」
再び佐代は笑う。志紀には、どうして都じゃないんだと言われそうだが、黙っておいた。
「何を買うつもりなんですか?」
「いや、まだ決まってない。食べ物の方がいいかなとは思うんだが」
「あ……じゃあその時に私もお買いものしていいですか? ちょっと夕餉のお買いものしたくて」
「あ……っと、そのことなんだが……」
途端に歯切れが悪くなる松樹。佐代は不思議そうに彼を見上げた。
「何ですか?」
「いや……志紀さんたちには、内緒にするようにって口を酸っぱくして言われたんだが……その」
「今日、お前の歓迎会をやる……と」
「えっ!?」
純粋な驚きだった。しかしすぐに佐代の顔には喜色が広がる。
「え……え、私の、歓迎会……?」
「ああ。だから夕餉の準備は……いらない」
「え……あ、それはそうですね……え、でも」
散々動揺した後、佐代は長く息を吐き出した。
「……すごく、嬉しいです。歓迎会、だなんて」
言葉にならない思いをどうやって伝えようか、と佐代は頬を赤らめた。
「あー、俺のためにも、せめて驚いた振りくらいはしてくれ。じゃないと、その後で志紀さんたちにこってり絞られる」
「はい、任せてください!」
自分の態度一つで歓迎会が微妙な雰囲気になってしまっては困る。佐代は張り切って自分の胸を叩いた。
「でも少し残念です。私、松樹さんのために久しぶりに腕を振るおうと思ってたのに」
佐代は唇を尖らせた。と、すぐに思いついて、それは悪戯っぽい笑みに変わる。
「私、松樹さんに、いつか料理をおいしいって言ってもらえるまで頑張りますから」
「……まだ根に持っているのか?」
「もちろんです」
胸を張って佐代は答えた。
会って数日の蓮介の料理は褒めたのに、もう何度も食べているはずの私の料理は褒めてくれない。根に持つのは当然だった。
「わ……悪かったな」
気まずげに松樹は顔を逸らすが、佐代はつんとする。
「別に謝ってもらわなくても結構です。私が根に持っているからって、わざとらしく褒めるのも止めてくださいね。それじゃあ意味がありませんから」
「……っ」
松樹は言い返そうと口を開いたが、すぐに閉じる。その件に関しては、まさに佐代の言う通りだと思った。しかし。
これから食事の度に佐代にその一挙一動が見られるのかと思うと、松樹は早速胃が痛くなってきた。
そんな時、ぽつりと二人の元に滴が降ってきた。同時に空を見上げる。先ほどまでは晴天だったのだが、今はすっかり曇天に変わっていた。
「雨……降らせたのか?」
「え? いえ、私ではないです。自然の雨ですよ」
「そうか……」
松樹は空を見上げる。佐代もそれに倣って顔を上げた。
「ここ数か月、雨は本当に必要な日だけ降らせることにしていたんですけど、数週間に一度ほど、自然の雨が降ってくれるんです。以前はそんなことなかったのに」
もともと、この国は雨が少なかった。数か月に一度降るほどの頻度だったのでは、最近ではどういうい状況なのか、そう日を空けずに降るようになっていった。
「それなら、これから巫女としての負担が無くなっていくかもしれないな」
「はい。それももちろんあるんですけど」
佐代は穏やかな笑みを浮かべる。
「――このまま」
心地よい雨が頬を伝った。
「このまま、巫女なんてものが、必要無くなれば……って」
もう、赤い水には見えなかった。
この水が――雨が、私達の生活を豊かにしてくれるのなら。
「自然は……自然のままで」
巫女の出番が無くなればいい。
「ああ」
松樹も強く頷いた。
「そうだな」
二人は並んで歩く。その先の空は、灰色に淀んでいたが、そのもっと先は、青く澄み渡っていた。